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ソファに腰掛けた段階で、ミスター・ナーバスの方も「本題に入れる」という気分になったのか、眉間や鼻の頭の皺が消え、への字に下がっていた口角が、上がりこそしないが水平にはなった。
――が、
「……。貴方は、こちらに掛けないのですか」
自分が座っているソファの向かいを手で差しながら、デスク用の椅子に座るルーディへ云った。
ルーディは俯いて、小さく「うふっ」と吹き出す。
……この役人は、自分が不快感を抱いた出来事・状況を、即座に忘れることが出来るらしい。病の原因である「ストレス」を溜めないためには、かなり有効な才能、長所と云ってもいいのかもしれない。だが、「経験」として貯めていないから、「学習」、「財産」になっていない。それを自分は「無能」と評していたのだな、とルーディは確認した気がした。
デスクに肘をつき指で頭を支えながら、斜めに役人を眺めてルーディが返す。
「良いんですか? 私がそちらに座っても」
「――?」
〝自分ち〟だろう、と云うふうに、役人が訝しげな顔をする。
「――そのテーブルの真ん中に置いてあるもの、何か分かります?」
役人は、その質問には素直に従い、目線をテーブルに向けた。随分壁が厚い「筒」を短く切って「底」を付けたような……「皿」のようなものがある。
「多分、それも『貴方方』が『寄越せ』と云っている〝物〟の中に入ってるだろう『旧いもの』ではあります。本当は『貴方方』は『要らない』だろうにね」
「……」
「それ、『大理石』で出来てる『灰皿』なんですけどね。とても堅くて重いですよ。――貴方、大昔の人殺しのフィクションって読んだことあります? それに出てくる〝凶器〟として、凄くオーソドックスです」
ルーディが薄く笑いながら云うと、役人はヒクッと小さく喉を鳴らして、無意識にソファの端っこまで尻をずらしていた。
「其処に座ると、あんたにも灰皿にも手が届きますよ? 若い人と比べれば気が長いとは云え、手が届く範囲で真正面にあんたを据えてたら、何が起きるか分かりませんけど」
パキッ、と指弾でソファを差して、素っ気なくあっさりとルーディは云う。その仕草が内包している意味は兎も角、「指が鳴る」音を初めて聞いたらしく、役人は本当に銃を突きつけられたようにビクッと身を竦ませた後、再び口角を下げ、無言だった。
「そうでなくても、私はイライラしてるので、多分、タバコを吸いたくなる。灰皿で殴りはしなくても、あんたの顔に煙を吹き付けるのを堪えられるかどうか、自信が無いですね。経験したいですか?」
弾いた指を口元に持って行き、ルーディはこれ見よがしに唇をとがらせ、「フッ」と強く息を吐く。
「御免被ります」
役人は忌々しげに吐き捨てると、一度灰皿から顔を背けて、何度か咳払いした。
ふん、と鼻を鳴らし、ルーディは腕も足も組んで、高い位置から役人の挙動を見ている――傍のシールから見ても、外見上明らかに「無礼」なのは、ルーディの方だ。
しかし、相手は、子供の間に躾けられるような行儀も成ってないのに、「大統領権限」を振りかざして無理矢理この事務所に入って来たような人間で、ルーディは「大嫌いだ」と最初に吐いた上で「敬意は払わない」と宣言すらした。その上、「手が出るかもしれない」まで云われても事務所を出て行かないのだから、ルーディが礼儀正しくしておく道理など、まあ、無いと云って良いだろう。
皮肉も通じないこの役人にここで「お茶を出す」ような丁寧な応対は、最早「卑屈」の領域に入ってしまいそうだ。そして、ルーディの自尊心は、そんな柔で安くはないことを、シールも良く知っている。
役人が「おほん」と咳払いをしてから、
「まず、一つ目の用件についてですが」
と云いながら、スーツの懐に手を入れ、内ポケットから何か取り出した。
襟からそれがチラリと見えた段階で、ルーディはピクリと目を細め、役人がそれをローテーブルに置こうとした瞬間、
「置くな。おやめ」
と冷たく険しい声を出した。手も翳している。
役人はビクッと手を強ばらせて固まった。
「――何です、それは」
……ルーディが顔をしかめて、分かり易く不快そうな声を出した。それを云った後で、「ああ…」と何か思いついた顔をし、役人に先回る。
「あんたは、平気で『小切手です』と返しそうだから、『そんなこた分かってます』と先に云っときます。どういう意味でそれを出したのか、という意味で訊いてます」
シールも一度だけ見たことがある形の〝小切手〟だ。少し大きくて、表面に何だか華やかな絵が描かれていたりする……「贈答用」とかに使われるやつらしい。
――柄が悪くてセックスは乱暴な割に、終わった後は何となく優しくて、そういえば、つれてってくれるレストランは、ノア・カテの料理以外で唯一「旨い」と云える、その上腹一杯食わせてくれる、そんなだった――その客が一度だけ、この形の小切手を見せてくれたことがあった。
三回目くらいの時に、バースデイを訊かれたのだ。それで、本当はそうじゃないけど、「ノエル」と云った――「シール」が生まれたのはその日だと云える気がしたから。彼もその日付の本当の意味は知らなかったけども、「へぇ、分かり易いな」と驚いた顔をした後で――それは何回目だったか覚えていないけども、ノエルに近い日に拾われて、コトの後、料金としてソレを寄越そうとした。
見たことが無かったので詳しく聞くと、「プレゼント」だと云って……一度、口座なりに振り替えないと普段の生活では直ぐに使えないと教えられた。それで、貰うのは辞退したのだった。
この街でこの商売をしている訳だから、彼も予想はしていたのか、特に気を悪くする様子は無く、普通の小切手を代わりに呉れた上で、「ステーキ」と「ケーキ」を食わせてくれた。本人は気づいていなかったかもしれないが、少し寂しそうな顔をしていたのが、申し訳なかったのを思い出した――。
役人は戸惑いの表情を一瞬浮かべた後で、一旦膝の上に小切手を置いた。
「――部下が壊してしまった、コップの弁償金です。勿論、壊れたコップの代替として、見合う額面でないことは承知しておりますが、現在、大統領官邸での晩餐会や迎賓館で使われている食器を製造しているメーカーへ問い合わせまして、そちらで最高級品と云える2客分で計算し、お詫びとして賠償金を若干足しております」
典型的な「〝物の価値の測り方〟が分かり易い人間」の物言いだ。〝物〟の価値は〝金額〟で表されるという価値観自体は別に構わないのだが、「自分」のことに精一杯で「相手」が居ることに何の配慮も無いこの役人に限ると、「〝物〟の価値を決めるのは自分」とでも云っているような気がしてきて、胸が悪くなる。
「……。その小切手は、壊した『あの子』が貴方に託したんですか?」
ルーディが問うと、役人は一瞬「きょとん」とした表情を浮かべた。
「いえ――違います」
「では、上司の貴方のポケットマネー?」
「……」
役人が、今度は無言で目を細めた――気を悪くしたようにも見える訝しげな表情だ。それは「何を云ってるんだ」と云いたそうな顔であるから、つまりは、ルーディの言葉を否定した、ということになる。
「では、貴方の『オフィス』予算の、予備費か何かから?」
「……」
今度の無言は肯定だ。役人の表情は、「何をいちいち確認してくる」と呆れたような色が滲んでいる。
ルーディは冷たく、
「じゃ、絶対に要りません。引っ込めなさい」
そう云い放った。
「いえ、そう仰せられてもですね、こちらとしては――」
若干焦った声色が混じって、役人が膝の小切手をもう一度手に取って差し出す素振りを見せたので、
「止めろって」
鋭い声を出した後、
「回りくどい還付金ですか。そんなもの寄越すより、税金安くしてよ」
大げさな溜息交じりにルーディが云う。するとナーバス氏は眉を寄せた。
「税率を決めているのは行政ではありませんよ、議会です」
「知ってますよ、そんなこと」
応酬としての嫌みか本気の訂正か分からないが、何にせよ、所謂「市民感情」を逆撫でする台詞を平気で吐くものだ。
「私は、『そんな使われ方』のために税金払ってるつもりはない、って意味で云ったんですよ。あんたね、今の台詞、『議会が呉れると云うから貰ってやって、それを使っているだけ』って聞こえますよ」
「――」
「実際にグラスを壊した『あの子』か、彼の責任を取るつもりの上司のポケットマネー、っていうのならね。大本が同じ税金だとしても、一度貴方方の『給料』になったお金ですから、『弁償・賠償』として、まだ誠意を感じられましたよ。特に、まだ若い『あの子』の精一杯の誠意であるなら、どんな少額でも、拒否する方が酷いですから、まあ、『渋々』ででも受け取らなくはなかった。――でも、そうじゃないんでしょ? もっと他の、公共の利益に使われる筈だったお金が、私の手元に『戻ってくる』だけじゃないですか。冗談じゃない。要らない」
ルーディはきっぱりと云い放つ。
「そのお金を受け取った〝領収〟の但し書きに、私は何と書けば良いのかも分かりません。『グラスの弁償・賠償金として』なんて嘘くさくて、怖気が走ります」
ナーバス氏は、やはり気を悪くしたような渋面を作っている――彼にとっては、ルーディが「金を受け取らない」ことも、「自分の思い通りになっていない」ことだからだろう。
つくづく、この役人は自分が見えていない。今までの自分の態度が、「詫び」と「償い」に来た人間のそれだと思っているのだろうか。
一体どういう「手続き」を経て、公金をこの小切手にしたのかは知ったことでないが――彼は部下の粗相によって勝手に借りを作った気になり、それを「一旦チャラにする」ために「金を渡しに来た」だけで、決して謝るつもりも償うつもりも無い――少なくともルーディには、そう見えている。
対象の心情・印象をさておいて「〝お詫び〟とは金を渡すこと」というのが、彼が普段生きている世界で一般的に通用する態度なのだとしたら、「怖気が走る」というのは皮肉では無く、ルーディの本音だ。まして、そもそもルーディは、この役人達と――自分の方が金を払ってでも、関わりを持ちたくない。何なら、さっき云ったのとは全く逆、「己に掛かる税率が今の倍になったら、彼らとセイレイシィは断絶出来る」というのなら、喜んで払う。
ナーバス氏の「to Do リスト」は既に知っている。だが、ルーディは、彼の「箇条書きの予定」など知ったことでは無い。
宙に浮いている小切手をどうすることも出来ずに、ルーディの顔と手元を交互に眺める役人が口を開く前に、
「どうしてもその小切手を受け取って欲しい、ってんなら、『あの子』の所為で割れたガラスの破片で良ければ、売ってあげますよ」
「――は?」
「それで〝二つ目の用件〟も片付くなら、私にとっても有り難いことです」
ルーディの言葉に、ナーバス氏は案の定、思い切り眉を寄せた。ルーディは薄笑いで続ける。
「幸いにして、あの破片はまだ『そのまま』残ってますから。……店を改装している間に溶かして新しく作り直そうかと思っていたんですけど――あんた達は、昔のままの形で破片を繋ぎ合わせたいと云うなら、譲ってあげます」
「……ッ」
役人は、歯を食いしばって小切手を一瞥した後、それを懐に戻した。ルーディは「ふん」と鼻を鳴らす。
つまり、「割れたガラスの破片」だけを引き取るための金を持ってきた訳ではないし、〝二つ目の用件〟はそれだけで終わらない、ということだ。




