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What's in a name?
That which we call a rose By any other word would smell as sweet;
名前に何の意味があるっていうの?
私たちがバラと呼ぶ花を他の言葉で呼んだって、同じように甘く香るでしょう。
--シェイクスピア「ロミオとジュリエット」より
エレベータを降りると、随分狭かったので、シールは少しく驚いた。真っ直ぐ二歩歩いたら、鼻が当たりそうなところに、もう壁だ。色も、随分素っ気ない、明るい方ではあるけどべったりとしたグレイ。さっきまで居たルーディの家の内装もシンプルではあるけど、壁や床が優しいクリーム色なので、そこまで「殺風景」とは思わない。
ここは本当にただのエレベーターホール、「通路」みたいなものらしく、ルーディの方は「箱」から降りて直ぐに左へ足を出した。シールも――他に今それ以外、行動の選択肢は無いのだから――素直に後ろをついていく。
エレベータを降りて左に二歩、そこでまたルーディは曲がった。
すると今度はもう少し長い「廊下」が目の前に表れる。それでも、十歩くらいしか歩かないかもしれない先にアーチ型をした開口部があった。このエレベーターホールと部屋とを仕切り、繋げる「穴」らしい。ドアは付いていない、その代わり、向こう側に衝立を置いているようで、中は見えない。
真っ直ぐ歩いて行ったルーディは、「穴」を通過すると衝立を避けた。素直にシールもそうした。が、ルーディは直ぐにまた右に曲がったのに、シールは立ち止まり、再び驚いて目をしばたたかせながら、今入って来た空間をグルッと見渡す。
シールが立ち止まったのに気付き、ルーディも足を止めて振り返った。
――驚きと若干の好奇心を滲ませた目を、きょろきょろと巡らせているシールに、ルーディは「ふ」と笑みを浮かべる。
「済みませんが、私は今から来る『客』にお茶を出す気がありませんのでね。かと云って、君と自分には淹れるとなると、過剰な嫌味になってしまいますから――シール、喉が渇いているようなら、今のうちに水を飲んでおきなさい」
その声を聞き、シールもルーディを振り向いて、
「あ、いや、喉が渇いてる訳じゃない」
慌てた顔をして首を振った。
衝立を避けて空間に入ると、正面が全面窓だった。それで眩しさに驚いたのも事実だけど……それよりも、その窓に向かって「シンク」「レンジ」みたいなものがあり、恐らくクーラーボックスらしい「箱」もあったから。
今立っている場所の直ぐ目の前には、「デスク」じゃない「テーブル」と椅子がある。ルーディの家にあるものと比べたら「板に脚を付けているだけ」と云うくらいの簡素なものだったけど、「ダイニングセット」じゃないだろうか。
シールは「事務所に降り」たんじゃなかったのか、と意表を突かれたのだ。
「ここ、何?」
ルーディは「ああ……」と溜息に似た声を出した。シールの驚きと疑問を納得した、という意味の相槌だ。
「まあ……『給湯室』兼『社員食堂』というところでしょうかね、現状、社員は私しか居ませんが。――繁忙期とか、『住居』に戻るのが億劫な時には、ここでランチを済ませたりもするんですよ」
へえ…とシールは合点し、次には勿論、「じゃあ、オフィスは」と疑問が湧く。
シールが今水を飲まなくても良いというのなら、ルーディは再び、先程足を踏み出しかけた方向へ歩く。
そちらにも衝立があり、ツイッとそれを避けてルーディの後ろ姿が消えた。シールもそれを追いかける。
衝立を避けたところが「オフィス」だった。広い一室を、可動式の壁と衝立で区切って、「給湯室」と「事務所」に分けているようだ。
シールがまたしても、パチパチと瞬きをした。
そして、ふと、小さく笑みが漏れた、「ルーディも、六人までは人を雇い入れる気が、実際にあるんだな」と思い。
シールの正面には、如何にも事務所らしい空っぽのままの「デスク」が、六つあった。椅子が――人が実際に居れば顔が――向かい合う形でレイアウトされている。
そして、最奥に、如何にもその六名を束ねる上司がそこに着くのだろう角度で、端末機器を載せ、モニタの背面を見せたデスクが一つ。
給湯室とオフィスは独立していないが、この一室の中にもう一度小部屋を作るような形で壁と扉があった。灰色の扉に「関係者以外立ち入り禁止(STAFF ONLY)」と読める凹凸がある――多分、サーバー室か、メンテナンス用の通路にでも通じる扉だろう、学校の事務室にも、ああいう一角があったな――そんなことを思い出して、シールはぶるっと頭を振った。
顔を右に動かすと、「ちゃんとした扉」がある。ビルの造りを思い出して想像するに、これが「カテ・コー」オフィスの「玄関」だろう。今居る空間の床面積を考えてみると、多分――ルーディ一人しか使わないそれを除いた――ブラン・カテ・ビルで稼働しているエレベータ全てが、あの扉の向こうにある。
今見ている位置からだと玄関扉の右側、玄関から入って来た客から見れば左側、給湯室との仕切となる壁に沿う形で、これまた何の印象にも残らない、のっぺりした白一色の応接セットがあった。向かい合う形のソファと、ローテーブル――ディヴァと入ったホテルのソファの方がまだ飾り気があった、クリーム色の合皮に、同じくらいの明度ながら少しピンクが混じった小花模様が入っていたと思う、ローテーブルは卓面が白で脚が茶色で少しアールを付けてて――シールがまたしても、首を大きく振る。
動線ということになるからか、玄関から向かいの窓まで、全く、何も、置かれていない。余りにも見通しが良すぎて、応接セットとオフィス・デスクの間に、まるで、「見えない境界線」か「深い川」でもあるかのようだ。
他には――何も無い。
さっきのエレベーターホールよりも明るい――いや、ほぼ白に近い真っ平らな壁、カーペットも敷いていない堅い床、何の変哲もない灰白色のデスク、何の印象にも残らない応接セット、どこにでもある形をした端末機器――。
趣味が良いとか悪いとかいう以前の、無機質な空間。あの酒場の事務所が此処だとは、とても思えない――いくら「黒猫」と「白猫」の事務所だからって、ここまで殺風景な「無色」にしなくても良いじゃないか……。
再び、シールがふと笑みを……今度は苦笑を漏らした。
前に自分が寝込んだとき、「仕事は家でも出来るから、気兼ねしなくて良い」とルーディは云っていた。その時は申し訳無いと思っていたが、……実はルーディにとっても、それは願ったり叶ったりだったんじゃないだろうか。
父親が死んでから、ずっとこんな、広くも素っ気ない空間で、一人で仕事していたのか? 俺には無理だ、気が違ってしまいそうだ。カーテンに模様を入れるとか、応接セットに色味を入れるとか絨毯を敷くとか――少しくらい洒落ッ気を出したって別に構わないだろうに、純粋な「オフィス」に、そんなものは「無駄」と思っているんだろうか。
苦笑を漏らした後、シールは「ああ……」と感慨深そうに息を吐いた。
「君と暮らし始めたことで、寂しくなくなったと思っているんですよ」
ルーディが、ああ云っていたのは、適当な方便なんかじゃなかったのかもしれない――。
ルーディは、空っぽのデスクに近づき、
「シール、これに座りなさい」
そう云いながらキャスターの付いた椅子を、手前まで引き出してきた。
デスクに向かう必要は無い、ということか、側面に沿わせる位置だ。
戸惑った表情を浮かべつつも、シールが「うん」と腰掛ける。ルーディはつかつかと、自分の――如何にも「ボス」の位置の机に近寄り、立ったまま、「電話」のスイッチを触った。
呼び出し音を二秒ほど聞くと、
「はい、〝ル・ポーヴル・ラ・ボン・シェ〟でございます」
と、丁寧で上品な壮年男性が「電話口」に出て来た。
「恐れ入ります、カテ・コーのセイレイシィですが」
ルーディがそう返すと、向こうはくすりと笑った。
「貴方がいきなり恐れ入らなくても宜しいでしょう、大家さん。どうも、いつもお世話になっております。――ご予約ですか?」
ブラン・カテ・ビルに入っているテナントの中でかなりの古株、ビルが出来た当初から入っているレストランだ――実のところ、レストランとはビル建設以前からの「ご近所さん」同士である――長年の付き合いであるので向こうは気安い声色に替わり、番号が予約専用のものだったから、直ぐにそう訊ねてきた。
「ええ……実はね、実際、恐れ入ることなんですよ」
ルーディも苦笑を浮かべながら云う。
「今から直ぐ、5~6名用の個室を、貸切に出来ませんでしょうか?」
「はいっ? 貸切ですか。今すぐに。コースではなく?」
ほら、此方としてはやはり恐縮する。この支配人が声を裏返すのは初めて聞いた。
「ええ。……2時間のコースで間に合うかどうか、判らないものですからね」
「――。『間に合う』。これはまた、妙なことを仰る。一体どういうご事情で?」
明らかに訝りつつ、若干「哀れみ」か「同情」の色が混じったような声で、ル・ポーヴルの支配人が訊いてくる――彼の気性は良く知っているつもりである。ゴシップの匂いを感じて好奇心を募らせている訳でもなければ、「大家」の事情に首を突っ込んで恩を売ろうとしている訳でも無い……恐らく、こちらを「心配」しているのだ。
「貴方もご存知でしょう? 我が家の『天敵』」
「え、あぁ、はい」
「それがね、今回、5人の『団体様』でいらしてるんですよ。本当なら、誰一人としてこのビルに入れたくはないところですが、――いちばん偉そうなのが、不愉快なことに、かなり強硬的な態度でこの私に迫ってきましてね。今ここで面会が叶わないようなら、『礼状』を取ってでもビルに入る、なんて云うんですよ」
「おやまあ、物凄いですね、命知らずな方だ」
大げさに感心した口調で支配人が云った。ルーディが一瞬口角を上げてから、
「私はそんな命知らずよりは『常識を弁えて』おりますのでね、貴方方、店子の皆様にもご迷惑がかかるのが解っていて、自分の意地を通すつもりは、そりゃあ、ありませんよ。それで、その一人だけは事務所まで来るのを了承して、予定したんですけど……、残りの4人を、そちらに閉じ込めておくわけにはいかないかと思いまして」




