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いいんだよ、って、「箱を開けるな」と云ったのは私だ、と云いたそうに、ルーディが顔を顰める。
バッグを――箱を――開けて、片手で取り出せるものじゃないからか、シールは少し腰を浮かせ、両手を中に入れた。
そしてゆっくりと、その両手を上げる。
シールは、取り出したものを、テーブルに置いた。
ルーディが相変わらず顔を顰めている。
シールがゆっくりと、手を離し、改めて椅子に腰掛け、手を組んだ。――視線は、その「もの」には行っていなく、俯き加減だった。
ルーディは、顰めていた顔を、少し驚いたものに変えた。
バッグから――箱から――出てきたのは、やっぱり箱だった。
と云っても、何も云わなくてもそれが、箱だと分かるのは、ルーディだからなのかどうか、誰にも分からない。
シールが俯き加減のまま、呟く声で云う。
「その箱は、開けても何も出てこないから、大丈夫だよ」
「――」
「出てくる筈のものも、出てこないんだ」
シールが、ちらりとルーディを見て、そんなことを情けない笑顔で云った。
多分ガラスで出来ている、箱。厚いガラスには、花とか鳥とかそんなものが浮き彫りになっていた。このガラスは、割れる。厚いから、絨毯の上に落としたくらいなら無事だろうけど、きっと、ノア・カテで使っているグラスと同じく、割れる「ガラス」。
厚い上に彫り物があるから、屈折もあってそんなに透明度は高くないのだけど、内側に飴色をした「木」の箱が、入っているのが分かる。
そして――その木の中に、また何か入っているのが、ルーディには、分かる。
「オルゴール」
ルーディが独り言の口調で呟く。
すると、シールがとても驚いた顔を上げて、
「あんた、分かるのか」
と云った。
ルーディは、小首を傾げ、
「ここにねじが」
とガラスの箱の側面を指す。
シールは、ぷるりと首を振った。
「そうじゃない、あんた、オルゴールを知ってるのか?」
シールが、とても驚いた声と顔で云い、ルーディは「ああ……」と息を吐いて苦笑を浮かべた。
それから、席を立つ。
シールに手をかざして見せて、
「ちょっと待ってて」
と云った。
シールは、驚きの表情を戸惑いに変えて、「え」と首を傾げる。
ルーディは、ダイニングを出て、――多分、家の中にあるエレベータに向かった。
シールが、戸惑った顔をしたまま、バッグから取り出したものを眺めて待っていると、少ししてルーディが戻ってきた。
シールは顔を上げて、相変わらず戸惑った顔をしたままだ。
だが、ルーディが手にしているものを見て、その表情は再び、先ほどより余程に驚いたものに変わった――さっきのが「驚き」程度なら、今度はまさしく「驚愕」と云おうか――。
ルーディが手にしていたのは、バッグから自分が取り出したものと、全く同じ物だった。
厚いガラスに浮き彫りがされて、飴色をした木の箱を透かし、側面にはねじ。
ルーディが、椅子に座り、それを一度テーブルに置いた。
「君のにもねじがあったから、オルゴールだと分かった」
「……」
「そうでなければ、とても綺麗な宝石箱にも見える」
「――俺のバッグを、勝手に開けて見たヤツにも、そう云ったヤツが居た」
「そうですか」
「でも、中に何も入ってなかったから、逆に客の方が怒って、それで殴られたこともある」
シールが淡々とした声で云い、ルーディが苦笑した。
キリ…キリ…キリ…。
小さな音をさせて、ルーディがねじを回した。
シールがその様を、少し――怯えたような目をして眺めている。
それから、ルーディは、――当たり前のように、箱を開けた。
シールが持っていた「それ」は出る筈のものも出てこない、と云っていた。
それは多分、音が出ないという意味なのだろう。
ルーディが開けた箱からは、出て当たり前のものが出た。
それは決して、災厄などではない。
RuRu RuRuRu RuRuRu RuRuRu RuRuRu RuRuRu
流れてきた音を聞いて、シールがまた、目を見開いた。
「それは、俺のだ」
「私のですよ」
ルーディが持ってきた箱を、じっと眺め、ぼんやりしたふうもある声でぽつぽつとシールが呟く。ルーディが小首を傾げて飄々と否定した。
シールは、「あ」と顔を上げ、ぷるっと首を振る。
「悪い、そういう意味じゃない」
それだけ云って――それ以上何も云わず――シールはまた、じっとそれを見ていた。
ルーディは、そんなシールを見ている。
とても久しぶりに、この旋律を――音を、聞いた。
RuRuRu RuRuRu RuRuRu RuRuRu
三つひと組の音が、規則正しく鳴り続ける。
三分の一ずつの音が、規則正しく、単調に。
だが、そんな音が、並び、連なり、一つの筋に――「メロディ」になった時、それはどんなにきれいで柔らかくて、優しいことだろう。
目に見えないのに「きれい」で、手に触れないのに「柔らか」く、――金をくれた訳でもない、食事をさせてくれた訳でもない、頭を撫でてくれた訳でもないのに「優しい」――規則正しく単調な、音の羅列。
――旋律が少し変わった。
刻むように規則正しい羅列だった音が、今度は空気の中に広がるような、長い音になって旋律を作る。
シールが、ふと声を出す。
「……ルーディ、それ、何ていう曲なんだ?」
「君、知らないの?」
独り言のような口調で呟いたシールに、ルーディは、純粋に驚いてそう云った。別に、からかうつもりなどなかった。
シールは、こくっと頷く。
ルーディは「そう……」と溜息混じりに頷いた後、丁寧な声で云った。
「ヨハン・セバスティアン・バッハという、『音楽の父』と云われる人が作った曲です。宮廷や、……教会に於いて、音楽を生業としていた」
「……」
教会、という言葉に、シールがピクリと目を細めた。
「カンタータ147番のコラール。……しかし、そう云って通じることがないのは、もうだいぶ昔からで――現代では、この曲を知っている人自体が余り居ないのかもしれないけど――」
「――」
「『主よ、人の望みの喜びよ』と云う方が、だいぶ長いことなじみ深い」
ルーディが丁寧に、静かな声で云うと、シールは、テーブルの上で組んだ自分の両手を、ぐっと互いに握りしめた。
そして、「しゅよ、ひとののぞみのよろこびよ」と小さな声で繰り返した。
シールが、それっきり口を噤んで俯いたので、ルーディも何も云わない。
この箱は、同じことを繰り返すのを、ルーディもシールも、よく知っている。
再び、規則正しく、時を刻む音を羅列する。
繰り返し、繰り返し。
オルゴールのねじが切れるまで、段々遅くなっていくメロディを、聞き続けた。
Ru――Ru―――Ru――――Ru……
規則正しい筈の音の羅列が、段々間延びし――ねじが切れ、音が止んだ。
止んでから、ルーディが尋ねた。
「……これが、君のなら、それは誰のなんです?」
多分、文化庁がシールを――シェレ・サン・ターシュを探す理由。
シールが持っていたオルゴール、――それは、誰の。
シールは、それに答えずに、俯いたままぽつりと呟く。
「……あんた、こっちの音楽も、知ってるのかな」
自分が持っていたオルゴールを、くっと掴んでシールが云う。
自分の質問に答えずに、質問を返してきたシールへ、不愉快そうな素振りは見せずにルーディは首を傾げた。
「それ、音が出ないんじゃないの――そういう意味だったんでしょう?――。聴かないと、知ってるかどうかが判らない」
ルーディがそう云うと、シールが薄く口を開く。
lu----la----lala----lula----la---lalala……
何の前置きもなく、微かな声でシールは口ずさんだ。
ルーディが微苦笑を浮かべる。
「君、歌が上手いんですね」
「……」
シールは、それに対して何も云わない。「それはどうも」とおどける訳でもなく、「ごまかすな、知らないなら知らないと云え」と怒るのでもなく。
ぼんやりと、ルーディの答えを待っている。
ルーディは、ふう、とひとつ息を吐いてから続けた。
「それは、ちょっと、説明がさっきより長くなるんですが」
「……」
「『元』は、これと同じ、J.S.バッハが作曲者で」
「……? 元?」
「はい。その、『元』は、『平均律クラヴィーア』第一集の第一番、プレリュード」
「――」
意味がよく分からなくて、シールは首を傾げたが、ちゃんと全部説明はしてくれるのだろうと思ったので、質問は続けずに黙って聞いた。
「それを元にして、……と云っていいのかな、まあいいや、私は音楽の専門家じゃないから、この辺りで勘弁して貰いましょうか。……それに、『歌』を乗せたのは、シャルル・フランソワ・グノーという作曲家」
「……」
「今、君が歌ったのは、その『歌』だから、……その曲の名前を云えばいいということになるのかな」
「その、『ヘイキンリツクラヴィーア』とは違う名前がついているってことなんだな? この曲には」
「そうですね」
「何て?」
「『アヴェ・マリア』」
何の感慨もない声でルーディが云った。
――シールはその答えを聞いて、顔を上げた。
ルーディの顔を見たシールの顔にも、何の感慨も見受けられなかった。
一瞬、全く表情を失っていた。
シールは、その顔をくしゃくしゃにするのと同時に俯き、ぎゅっと自分の両手を握り合う。
「アヴェ・マリア――マリー……」
と呟き、シールは歯を食いしばる。
「……」
ルーディは何も云わない――何も訊かない。
「そうか、だから……」
パパは、これを姉さんにあげたんだ。
そんな名前の曲だったから。
俺は本当は、こっちが欲しかった。
こっちの方が、よほど子守歌みたいだったから。
子守歌って云ったって、俺がもらった方は、ねじを巻いたばかりの時は最初の方、何だか、やけにとくとくと脈を刻まれているみたいだったから落ち着けなくて。――俺は、「弟」だから余り物を宛われたんだと思って、ふて腐れてた。
でも、仕方なかったんだ。
だって、これは、アヴェ・マリアって曲だったんだから――。
「マリー……ごめん」
ふと、シールが呟く。
ルーディは何も云わずに目を伏せる。
シールの内部に踏み込むことを、決してルーディは自分に許さない。
ルーディはルーディで、自分の持っている箱を、決して開けないように守っている。
「俺はあの日」
シールが呟く。
ルーディは眉間に皺を寄せて薄く目を開ける。
シールは俯いたまま、「あの日」と呟いた。
「シール」
ルーディが冷たい声で名前を呼ぶ。
「云わなくていい」
「何故」
「私はそんなこと、云わなくていいと云いませんでしたか。……何か思い出しそうなことを、私が云っても止めろと云ったんですよ?」
シールが顔を上げて、小さく笑う。
「いいんだ」
ルーディが相変わらず眉を寄せる。
「さっきから君はそんなことばかり云う。私が、開けるな、云うな、と云ったことを、君が『結構です』などと云う筋合いは無い」
「――俺が云いたいんだ」
「……」
ルーディが目を細めた。
シールは軽く首を振って続ける。
「俺が、あんたに」
「……」
「そうだな。……一度開けたら、二度も三度も同じだと、思うような人間なのかもしれないよ、俺は」
「シール」
「底に残っている希望を取り出すには、その上に入ってるもの全部、出さなきゃいけないってことなんだろう」
俺は俺で吐くだけだ、とシールは小さく笑って云って、また俯いた。
ルーディは、ふう、と息を吐いて腕を組み、目を閉じる。




