(デザートとコーヒー) -(1)
地下にある酒場の入口がもう見えている。
のんびり歩いて近づいていくと、ちょうど、階段を上ってきた客がそのドアから出てくるのが見えた。
客一人だ。
閉店時刻まで、あと五分ほどだった。酒場のあるじは、閉店時刻ちょうどに店を出る客は追いかけて見送るが、閉店時刻より前に店を出る客だと、それをしない。
どうせ新たな客を受け入れるつもりは無いのに、閉店時刻までは営業しているつもりでいるのだ。だから、次の客に備えて、いくらさっきの客が、どう考えても最後の客になると判っていても、店を離れはしない。
さて、客は居ないけれどもそうした意識で出てきていないだけか、それとも、単にまだねばっている客が居るからなのかは判らないが、もし前者であれば、
「ゆっくり出来そうだ」
と考えて、医者は、閉店時刻まであと五分しか無いのに、何の躊躇いもなく地下への扉を開けた。
店内に入るためのパスワードはもう持っている。
それを受付の機械に入力してドアを開けて中に入ると、カウンタで食器を洗っていた店主が慌てた顔をしていた。
「申し訳ございません、当店の営業はもうすぐ終了で……」
とても恐縮そうに云いかけてドアの方に目を向け、その客が誰であるかを知ると、拍子抜け、という顔をして
「何だ、あんたでしたか」
と云った。
「何だとはご挨拶だな」
と医者は笑う。
ちらりと店内を見ると、他に誰も居なかった。
酒場のあるじが、「もう閉店ですよ」ともう一度云う。
「だから?」
医者は全く悪びれずに、小首を傾げて笑う。
あるじは、「まったく……」と首を振り、
「長い付き合いだと思って、たびたび図々しいですね」
と云いながら、カウンタの端っこの席を指さした。
これから閉店作業をするので、一番邪魔にならない席に座れ、という意味だ。
くすくすと笑いながら、医者はあるじが指した席に座り、どさり、とカウンタテーブルにバッグを置いた。
他に客が居たら、こうは行かない。閉店時刻になっても追い出されない、あるいは受け入れられるこの客は、主人の何なのか、という興味を持たせてしまう、あるいは詮索をされてしまうので、確実に、他の客と同じく、丁重に「入店をお断り」される。
あるじが、今洗っていた食器を拭いて、しかるべき場所に置いた時に、閉店のチャイムが鳴った。
「ちょっと失礼」
と云って、あるじはカウンタから離れ、地上のドアと店へのドアの鍵を閉めた。
こういうことはたまにあるので、医者は、この後自分がどこから出ればいいか知っている。従業員が他に居るとすれば、そういった人間が使用する裏口だ。ちょっと前までならば、あるじの機嫌が良ければ、「家で飲み直しますか」ということもあったが、最近は無い。しばらく無いだろう、と医者も想像している。
カウンタに戻ってきたあるじが、「ご注文は」と聞く。
「メシを食わせてくれ」
医者が云うと、あるじは、ほんの微かに困った顔をした。
「……食事ですか…。もう、余り食材が残っていないので、大したものがご用意出来ないんですが、おつまみ程度じゃだめなのです?」
「ああ、出来たら、ちゃんと食事がしたい。昼飯が中途半端な時刻だったんでな、夕飯を食ってないんだ」
「そうですか。――えぇと…」
何か思い出す顔をしながら、あるじは店内からは見えない場所に引っ込み、しばしの間を置いて、ひょこ、と顔を出した。
「シチューが少し残っていました。温めるだけでいいですかね」
「? 構わんが、それだけってのはどういう意味だ?」
医者が首を傾げると、あるじは、手に「鍋」を持って現れた。
カウンタテーブルの下に仕込んである、小さなキッチンで、シチューを温め始める。
首を傾げている医者へ、店に居る間は、それが誰であれ平等に見せるのであろう微笑を見せつつ云う。
「あなた、うちで人気のパイ・グラタンは食べたことなかったですか」
「……。ああ、あれか、カップの上に、パイを被せて焼いてある」
「そう。このシチューも、温めてからもう一度、あんなふうに軽く焼くんですが、そうじゃなくてもいいですか、って意味です」
「……時間がかかりそうだからいい」
「そうですね」
医者が軽く首を振りながら云い、あるじは、こくりと頷く。夕飯を食べていないということは、結構腹が減っているだろう、そういう時は、待つ時間もご馳走、という訳にはいかない。
医者は医者で、想像をしてみて、「それはそれで、結構美味そうなんだが、惜しかったな」と考えている。
考えた後で、何か思い付いたような顔をして、あるじに云った。
「パンはあるか。あるなら、それも呉れ」
「ほんとに図々しいなあ…。そりゃ、ありますけどね」
「パイの話を聞いたら、食いたくなった。ちょっと焼いてくれ、シチューに付けて食うと美味いだろう」
呆れた溜息を吐いたあるじに、平然と医者は云い、あるじは、「わかりましたよ」と苦笑を浮かべて、パンを焼き始めた。
頬杖をつき、医者は、あるじがてきぱきと右往左往している様をぼんやり眺めている。
お待たせしました、とテーブルに、シチューとパンの皿が置かれた。
医者はスプーンを取り、シチューをまず一口啜る。次にパンを千切って、シチューに浸し、それを口に運ぶ。
あるじは、医者がシチューとパンを一口ずつ口にする様子を見てから、テーブルを拭くためのクロスを取りだし、その仕事をしにカウンタを出た。
この医者が、食事をしている間は余り喋らないことを知っているので、雑談をするのは、その皿が空になってからだ。それが空になるまで、酒場のあるじは、時間を無駄にしないために、閉店業務に取りかかる。
医者が皿を空にして、ふう、と息を吐き、フロアの方に居るのだろうあるじを振り返ってみると、あるじは、床のモップがけを終わらせて、道具を控え室に戻しているところだった。
あるじが戻ってきて、手を洗ってから、「美味かった」と医者は云う。
「それはどうも」
あるじは軽い口調で云って、その皿を下げ、洗い場に一旦置いた。
医者は、あるじが食器を洗い始める前に、すかさず、「ノア・カテ」と呟いた。
「え?」
「酒は、すぐに用意できるだろ、飯と違って。ノア・カテを呉れ」
「……ブランじゃないんですか?」
あるじは、微かに不思議そうな声で云って、首を傾げた。
「あんたはまだ『閉店』じゃないでしょう。アルコールなんて入れちゃ、使い物にならないじゃないですか」
酒瓶は用意しつつ、あるじはそんなことを云う。
この医者の「営業時間」……診療時間は、ノア・カテの閉店時刻の三時間後までであることを知っている。この街の場合は、そのくらいの時間帯に診療時間を設定するのが最も適している。
医者は平然と、「だから今日はもうこれで休診にする」と云った。
「だから、ノア・カテを呉れ」
「急患があったら?」
「医者は俺だけじゃない。他をあたれって云うさ。もう寝てれば意地でも寝続ける。大体、俺の病院は救急病院じゃない。急患を受け入れる義務なんか無い」
素っ気ない声で医者は云い、あるじは「やれやれ」と苦笑して、ノア・カテのグラスを医者の前に置いた。
真っ黒な液体を一口飲み込み、ふう、と医者は息を吐く。
「あんたと同じで、俺も一人でこの商売やってるからな。このくらいフレキシブルにさせてもらわなきゃ、こっちが体を壊す」
「……まあ、そうでしょうね」
主人は軽く云って、ちらりとテーブルの往診バッグを見た。
「仕事帰りですか? やっかいな患者でしたか」
「厄介と云えば厄介だったし、楽と云えば楽だった」
「――」
あるじが苦笑する。医者は、あっさりした口調のままで続けた。
「仕事帰りと云えばそうだし、そうじゃないと云えばそうでもない」
「……?」
これには、酒場の主人が「どういう意味だ」と首を傾げた。
不思議そうな顔をしているあるじへ、医者が、に、と笑って簡単に云う。
「仕事の後に遊んで帰るところ、なんでな」
「……」
主人が顔を顰める。この街で、「遊ぶ」という意味は色々ある。
そして、医者が、何だかこちらをからかうような、挑発するような顔をしていることを考えれば、それは、「ああいう意味」だろうと感じられて、酒場のあるじは眉を顰め、医者の食事の後の皿を洗い始めた。
「御主人は最近如何ですか、こちらの方は」
やはり、からかう声で医者は云い、頬杖ついたのと逆の手で、卑猥なことを意味するポーズを作った。やっぱりか、とあるじは顔を顰める。
「私は、あんたのそういうところが嫌いだ」
「どういうところだって?」
「それが本当なのかどうかは知ったことじゃないですが、そもそも、私がそういう話は嫌いだと知ってて、わざとそんな顔して振るんですから、悪趣味です。セクハラですよ」
「セクハラ? おまえ、そんなこと云ってて、こんな場所で商売出来るのか?」
「純粋なお客様相手であれば、ある程度なら色っぽい方向に流れた会話も我慢しますよ。あんたは、閉店間際にやってきて食事と酒をせびるような図々しい客で、その上、私がそういう話が嫌いなのを知っていて、わざと唐突に振ってくるじゃないですか」
「せびるとは何だ。ちゃんと金は払うぞ」
くすくす笑って医者が嘯く。俯き加減に食器を洗っていたあるじは、そんな医者を上目遣いに睨んだ。
「おまえさんだって別に、話するのも嫌だって訳じゃなかろう? セックスを本当にするのが嫌なんであって」
「客観的な話題としてならばね。しかし、あんたはさっきみたいに、おまえはどうなんだという話を、わざと悪趣味な云い方で聞いてくる。それが嫌だ」
「どっちもそんなに違わないだろう。セックスの話ってことには違いない」
「セックスの話、と、猥談、というのは境目がスレスレですよ。あんたは、私がしたくない系統の猥談を振ろうとするんです。……どっちにしたって、セクハラである時はセクハラです。私だからまだいいです。これが営業時間中で、あんたがもし、他のお客様にそういう話題をふって、お客様が不愉快に思われるようなら、私はあんたを追い出しますよ」
「成る程。じゃ、俺は出来るだけ、営業時間内には来ないようにしよう」
「……そうじゃないでしょう」
全く悪びれず医者が嘯くと、酒場のあるじは、溜息混じりに呆れた声で云う。……この医者が、いくら説教をしたってしょうがない人間だということを、長い付き合いで知っているのか、その口調は、もう諦めているというふうもあった。




