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片づけを終わって、カウンタに戻ったルーディは、いつも通りにグラスを磨き始めた。
もうすぐ閉店である。新たな注文は恐らく無い。
手を動かしながら、頭のなかも動いている。
シェレ・サン・ターシュ…。
何だって、文化庁の役人がシールを追いかけるのか分からないが…。
シール本人が、それを云われて驚き、逃げていったということは、…それに、役人が、シェレ「君」と云ったことを考えれば、…「シェレ・サン・ターシュ」というのは、シールの名前なのか。
ルーディが微苦笑を浮かべる。
シールというのは、本名だったのか。
源氏名、あるいは偽名を使うなら、もうちょっと考えればいいのに。
それにしても、シェレ・サン・ターシュとは、意味深な名前だ。そう思う人間も、今はそんなに居ないだろうけども。
「聖なる責務の封印」
ふと、ルーディの手が止まる。
サン・ターシュ、という言葉、…名字だろうか、それに、覚えがあるような気がする。
すぐには思い出せなくて、ルーディは首を捻る。
何だっただろう。
磨き終わったグラスを、しかるべき場所に置いたちょうどその時、ドアが開く。
それは、ピアノの音色が、ちょうど途切れた時でもあった。
ちらりとそちらを見ると、…現れたのは役人だ。
微かに目を細めただけで、ルーディは無言である。
テーブル席についた客の一人が、その姿を睨んで、ふん、と鼻を鳴らした。
他の客も、ちらちらとその姿を見ている。
役人は、そんな視線などまるで感じていないらしく、慌てふためいてルーディの前のカウンタテーブルに手をつき、口を開いた。
「ご、ご主人…! 今の、今の子、ご存知なんですか!?」
「…もう少し、声を小さくしてもらえませんか」
役人の問いにすぐには答えず、ルーディは淡々とした声でそう云った。
ピアノの音が止んだ時で良かった、もし、まだメロディが流れていたら、流石に他のお客様が、この若者に掴みかかっていたかもしれない。
その声色に、は、と息を飲んで、役人は、すがるような目でルーディを見つめる。
「あの…」
「『ご存知』というのがどういう意味だか分かりませんが。…時々おいで下さるお客様です、そりゃ、顔は覚えています、あなたより余程」
「…あ、IDで受付をしているということは、現在のプロファイルがあるということですね?」
「何を考えているんですか、あんた」
若い役人の取り乱した言葉に、ルーディは流石に睨みつけ、険しい声で云った。
「まさか、履歴や個人情報を提示しろとでも云うんですか。私はあの若者が何者なんだか知りませんが、あなたは捜査令状を持った警官でもないでしょう。何をバカなことを口走っているんです」
「……」
流石に、自分の云ったことがどんな内容だったか自覚できたのか、役人は口をつぐむ。
「あの、あの子は、ですね…」
「何なんですか? 犯罪者? だとしても、あなたは捜査令状を持った警官でもない」
ルーディが冷静に繰り返す。
やはり役人は慌てて口を押さえて、「いえ」と言い淀んだ。
ここで、「シェレ・サン・ターシュ」の説明をすることは、自分の役職にも関わりがあると示すことで、それは、…「一般人」に洩らしてよいものではない、ことも、思い出したのだろう。
「…それより、あなたの印象はもう最悪です。繰り返しますが、あの若者が誰だとして、仮にすねに傷を持つ身だったとして、あなたの軽はずみな行動が、私と酒場に迷惑をかけたことには変わりありません」
「…あ、あの…」
「他のお客様のご迷惑にもなりました」
ルーディのその言葉に、役人はおろおろする顔を見せるばかりで、…振り返って他の客に謝るということは思い浮かばないらしい。
ルーディは大きく息を吐いてから、淡々と続ける。
「椅子に傷はつくし、グラスは割れる。カクテルに使用した材料だって、今手に入れるのはなかなか難しい。それが、一口しか、あるいは一口も飲まれないままに床に散った無駄と云ったら」
「……」
役人は段々青ざめていく。
ルーディは構わず、淡々と云った。
「あなたが云った、歴史を持った備品ですよ。私自身は、ものは壊れてもしょうがないと思っていますけどね。それより、やっぱりろくに口もつけてもらえなかった酒とその材料が惜しい」
独り言のような口調で云った後、ルーディが続ける。
「故意とは云いませんが、起こさなくても良かった人為的な過失と云えば過失です。弁償はしてもらいます」
「弁償…」
「あなたは業務でここに来たんですから、当然、そちらに請求を回します、あなたの口座から引き落としはしませんから、ご安心なさい」
安心しろ、というルーディの言葉に、若い役人は一層青ざめる。
「パリス事務所で構いませんか?」
「や、止めてください」
「何を?」
「僕の、口座から引き落としてくれて構いませんから…!」
…文化庁が保護を進めようとしている文化財を、文化庁の人間が壊すなんて、笑い話だ。
当人にとっては笑い話ではないので、役人はぶるぶると首を振り、ルーディに懇願する目を見せていた。
「現在の金銭価値で考えて、あなたの口座から引き落とせる額だと思いますか?」
「……」
最早、言葉が出てこない様子の役人へ、ルーディは、苛めるのはここまでで勘弁しておこう、と溜息をついた。
「…これに懲りたら、もう少し思慮深く行動するんですね。…弁償はいいです。君はまだ若いのだし、これでクビにでもなったら、私の夢見が悪い」
ルーディの言葉に、役人は、ほうっと息を吐いた。
だが、まだ不安げな目をしている。
「…でも、かなり私の印象を悪くしたのは覚えておいてください。…ただでさえ、あなた方が、我が家の価値観を理解しないことに腹が立っているんですから、私は」
「ご主人……」
「先ほどの騒ぎが無かったとしても、どっちにしたって私はあなたの打診に頷きはしませんし」
「……」
「…あなたのせいで、気分を害した、なんてことはそちらには云いませんから--大体、私は自分からあなた方に連絡を取ることを全く望んでいないし--、適当に報告はするといい。ただ」
「は、はい」
「君はもう、ノア・カテには来ないで下さい。…来るとすれば、純粋に、『お客様』として来るんですね、改めて」
最後の言葉を、ルーディはきっぱりと云った。…これで、さっき発行したパスワードは無効だと、この若者が察してくれたら良いのだが。
「…分かりました」
若い役人はうなだれるように頷き、「失礼します」とドアの向こうに消えた。
やれやれ、とルーディは首を傾げる。
結局、他のお客様に謝ることは思いつかなかったか。テーブル席から、睨まれているという視線は感じなかったのだろうか。
…丁度その時、閉店時刻を告げるアラームが流れた。
テーブル席の客がちらほらと席を立ち始め、ルーディは受付カウンタに向かう。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
といういつものやりとりに、ルーディは「急なことで恐れ入ります」と付け加える。
急な判断で、今日最後の客に、最初に告げることとなった。
「何ですか」と首を傾げる複数の客へ、ルーディが告げる。
「後ほど、ニュースメールでもお知らせ致しますが、改装をすることになっておりまして」
「おや、そうですか…、いつから?」
「はい、本当に急なお知らせとなって申し訳ありませんが、明後日からなのです。明日が定休日ですから、明日からしばらく店を閉めるということに…」
「それは本当に急ですねぇ…」
見知らぬ同士である客が、顔を見合わせて困った顔をする。
「ご連絡が遅れて大変に申し訳ありませんでした。改装オープンの期日はまだ決定していないのですが、それも改めて後ほどお知らせ致します。開店の際には、イベントも考えておりますので、どうぞその際には宜しくお願い致します」
深々と頭を下げ、ルーディが云う。
客は戸惑った顔をしていたものの、苦笑しながら、「じゃあ、そのイベントを期待して待ってますよ」と云った。
恐れ入ります、と再びルーディは云って、「ありがとうございました、お休みなさいませ」と続けた。
客は、「お休みなさい」と返し、階段を上っていく。
今日は、客を地上まで見送ることはなく、ただ、その後ろ姿を見送っていた。
そろそろ、お客様は通りを移ったろうか、と考えてから、ルーディは、端末に向き直る。
キーボードを叩き、地上のドアの上にある看板に接した電光掲示板に示すテキストを入力した。
改装作業のためしばらく閉店致します。またのご来店をお待ちしております・・・
それから、メール配信用のソフトを立ち上げ、素早く顧客へのニュースメールを作成し、配信した。
それらの作業を全て終え、店の灯りと端末を落とす。掃除は、明日でもいい。
最低限の作業を終えてから、ルーディは階段を上り、地上に出ると、そのドアをロックした。
電光掲示板が正常にテキストを流していることを確認した後、辺りをキョロキョロ見回しながら、早足に辺りをうろつき始めた。
…役人が店に戻ってきて、「あの子を知っているのか」などと尋ねてきたということは、…シールを見失ったということだ。
シールは、役人から、逃げおおせた、ということだ。
何故、シールが、警察ならまだしも、文化庁の役人から追いかけられる理由があるのか、現段階で全く理解が出来ないが…。
ノア・カテに「シェレ・サン・ターシュ」が現れるということを、文化庁の人間は知った。
ノア・カテのあるじの私財を、文化庁に預けてくれと打診するだけじゃなくて、「シェレ・サン・ターシュ」が目的で、役人が酒場にやってくることが増えるのかもしれない。
…シールは、彼らの目を逃れようとしている。
改装の見積もりは、開店前にある程度終わっていた。
その予定だけでも立てていて良かった。
しばらく、ノア・カテを閉める、真っ当な理由がある。
お客様にご迷惑をかけることになったのは不本意だが、役人の短慮がいけない。
…役人の短慮のおかげで、シールは身を隠すことが出来るとも云える。
妙な巡り合わせだ。
ルーディが、それほど慌てた様子も無く、辺りを見回して、ふと、苦笑する。
シールの性格から云って、すぐに家に帰っているとは、ルーディには思えなかった。
ルーディの家に飛び込めば、ルーディに迷惑がかかる。
ビルのエントランスに入っただけだとしても、…以前、シールを買っていた男が、ストーカー行為を働いたこともある、トラブルが起きてはいけないと、考えるだろう。
まだ、外を逃げ回っているか、身を潜めているかしているのではないか。
……ルーディは、意識して、慌てた様子は見せないようにして、辺りを見回す。
自分が何か探している、もしかして人を、…シールを、と、誰かに思われてはいけない。
まだ身を潜めているのは、シールだけじゃなく、役人もそうかもしれない。
シールが、この付近に居るという保証はない。
もしかして、駅に行って、もっと離れた場所に移動しているかもしれない。あの時点で、「終電」はまだ出ていなかった筈だ。
それならそれで、安心ではある。
こうして、…それほど真剣にではないとしても、何かを探している様子を、誰かに見られる危険を犯しているより、シールが、もっとこの場を離れていたために、自分が、探し疲れて家に帰る方がまだ。
もっと冷静に落ち着いて、家で待とうと思うまで、見つからない方が、まだしも…
でも、ルーディは、そうせずには居られなくて、制服のままで、付近を早足にうろついていた。
2003.6.16




