武将 蒲生氏郷 第92話 賤ヶ岳の戦い 1583
六月七日の未明。
長浜の野営地には、夜の冷気がまだ残っていた。
薄い霧が地面を覆い、兵たちの足元を白く染めていた。
氏郷は馬の腹帯を締め直し、
その動きに合わせて鎧の金具が小さく鳴った。
周囲では、左馬允が兵の点呼を進めていた。
「一番隊、人数揃う」
「槍隊、穂先の欠けなし」
「鉄砲隊、火薬・玉薬、規定量を確認」
短い声が次々と上がり、
隊列の緊張がゆっくりと形を成していく。
荷駄の軋む音、馬の鼻息、鎧の擦れる音。
それらが、出陣前の空気を満たしていた。
左馬允が戻り、氏郷の馬の横に並んだ。
「殿。全隊、出陣の準備が整いました」
氏郷はうなずき、馬に跨った。
その瞬間、周囲の兵が静かに姿勢を正した。
そこへ、秀吉の本陣から使者が駆けてきた。
「蒲生殿、秀吉様より作戦の伝達にございます」
使者は書状を広げ、要点を簡潔に述べた。
「本隊は賤ヶ岳へ向かい、柴田勢の動きを押さえる。
蒲生隊は先鋒の後方に位置し、
山道での乱戦に備えること。
荷駄は右手の街道を進み、
兵站線を切らさぬよう厳命とのこと」
左馬允が書状を受け取り、
その場で地図と照らし合わせた。
「殿。山道は狭く、横へ広がれませぬ。
槍隊を前に、鉄砲隊は後方に置くのがよろしいかと」
氏郷は地図を覗き込み、
山の傾斜と道幅を確かめた。
「……この道なら、谷側からの奇襲があるな」
「はい。斥候を倍に増やし、
山裾の動きを常に拾わせます」
左馬允はすぐに指示を飛ばし、
斥候の若者たちが霧の中へ駆けていった。
東の空がわずかに明るみ始めたころ、
秀吉の本陣から太鼓が鳴った。
「出陣――!」
その声が野営地に響き、
兵たちが一斉に槍を立てた。
秀吉は馬上から全軍を見渡し、
短く、しかしはっきりと声を上げた。
「賤ヶ岳へ向かうぞ。
遅れるな。
流れを止めるな」
その言葉に合わせて、
軍勢が大きなうねりとなって動き出した。
氏郷隊も列を整え、
先鋒の後方へと進んだ。
朝霧の中、
山道へ向かう街道は細く伸び、
その先に賤ヶ岳の影がかすかに見えた。
兵たちの足音が重なり、
馬の蹄が土を叩く音が続く。
左馬允が馬を寄せる。
「殿。ここから先は、
地形が戦を決めます」
氏郷は前方を見つめ、
静かにうなずいた。
秀吉軍の旗が風に揺れ、
その流れに乗るように軍勢が進む。
氏郷は手綱を握り直し、
賤ヶ岳へ向かう道へ馬を進めた。




