武将 蒲生氏郷 第64話 左馬允の記憶
谷を離れ、
二人は崩れた曲輪の影に入った。
風が弱まり、
空気が急に重くなったように感じられた。
まるで、この場所だけ時間が止まっているようだった。
左馬允が足を止めた。
その背中に、これまでとは違う気配が宿っていた。
氏郷は自然と歩みを緩め、
その横に立った。
左馬允は、しばらく斜面の一点を見つめていた。
その視線は、いまの景色ではなく、
遠い過去の何かを見ているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……殿。
六角が滅んだ日のこと、
少しだけお話しいたします」
声は静かだった。
だが、その静けさの奥に、
長い時間を抱えた影があった。
左馬允は、言葉を選ぶように、
ゆっくりと語り始めた。
「この城が崩れた日、
私は、あの曲輪の端におりました」
指先が、崩れた石垣の方向を示す。
その動きは淡々としていたが、
その淡さがかえって重かった。
「兵が押し合い、
退き場を失い、
叫びが重なり……
誰も、誰の声か分からなくなりました」
氏郷は黙って聞いた。
左馬允の声は揺れない。
しかし、その揺れなさが、
逆に深い痛みを伝えていた。
「私は……
あのとき、守れなかった者がございます」
左馬允は一度、言葉を切った。
風が草を揺らし、
その音だけが二人の間に落ちた。
しばらくして、
左馬允は小さく名を口にした。
それは、氏郷がこれまで聞いたことのない名だった。
だが、その名を言うときの左馬允の声には、
深い痛みが宿っていた。
「……あの者は、
私の退きの指示を待っておりました。
しかし、私は遅れました。
あの狭い道で、
あの者は……」
言葉はそこで途切れた。
左馬允は目を閉じ、
短く息を吐いた。
その沈黙は、
悔恨ではなく、
“消えない事実”を抱え続けてきた者の沈黙だった。
氏郷はその横顔を見つめた。
普段は揺れない男の表情に、
わずかな陰りが差していた。
その陰りは、
六角の滅びとともに左馬允の中に沈んだ影なのだと、
氏郷は直感した。
左馬允は、
その陰りをすぐに押し戻すように、
静かに姿勢を正した。
「……殿。
過ぎたことにございます。
しかし、
この地に立てば、
いまでもあの日の声が聞こえるように思えます」
その言葉は、
説明ではなく、
記憶そのものだった。
氏郷はゆっくりとうなずいた。
左馬允の語りの断片が、
滅びの地形と重なり、
胸の奥に沈んでいく。
(……左馬允にも、
守れなかった者がいたのか)
その事実が、
氏郷の心に静かに落ちた。
左馬允は、
語り終えると同時に、
いつもの冷静な表情に戻った。
「殿。
先へ参りましょう」
その切り替えの速さが、
左馬允の過去の深さを物語っていた。
氏郷はその背中を見つめ、
ゆっくりと歩を進めた。
滅びの記憶は、
風の中にまだ残っていた。




