表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/38

武将 蒲生氏郷 第10話 書の間にて

岐阜での生活が始まって数日が経った頃、

鶴千代は、与えられた部屋の一隅に置かれた文机の前で、

静かに筆を取る時間を持つようになっていた。

岐阜城の空気は鋭く、

その速度と緊張は、観音寺とはまったく異なるものであったが、

筆を握ると、少年の心は自然と静まり、

周囲のざわめきが遠のいていくように感じられた。

墨を磨る音が、

部屋の静けさの中に淡く響いた。

筆先が紙に触れると、

線は迷いなく伸び、

わずかな揺れも、筆圧の変化も、

すべてが一つの流れとして結ばれていった。

書くという行為は、

鶴千代にとって“技”ではなく、

自分の内側を整えるための“呼吸”に近かった。

岐阜の空気の速さに触れ、

その秩序の強さに圧倒されながらも、

筆を動かすことで、

その新しい世界を自分の中に受け入れていくような感覚があった。

左馬允は、

部屋の外からその様子を静かに見守っていた。

少年が書に向かう姿は、

観音寺にいた頃と変わらぬ落ち着きを持っていたが、

その線には、以前にはなかった“張り”が宿っていた。

(岐阜の空気が、この子を変え始めている……)

左馬允は、

その変化を敏く感じ取っていた。

その時、

廊下の向こうで軽い足音が止まった。

襖が静かに開き、

一人の少年が姿を現した。

森成利──蘭丸である。

信長の近習として名を知られ、

若くして礼法・武芸に優れた才を持つ少年。

その眼差しは鋭く、

しかしどこか柔らかさを帯びていた。

「失礼いたします。

 ……音がしたので、誰かと思いました」

蘭丸はそう言いながら、

文机の上に広げられた紙へ視線を落とした。

次の瞬間、

その表情がわずかに変わった。

驚きと、

理解と、

そして静かな敬意が混じった眼差しだった。

「これは……あなたが書いたのですか」

鶴千代は、

筆を置き、静かに頷いた。

蘭丸は紙の前に膝をつき、

線を一つひとつ追うように目を細めた。

その動きには、

書の巧拙を見るというより、

“線の意味”を読み取ろうとする真剣さがあった。

「迷いがない……

 強いのに、張りつめていない。

 これは、ただの書ではありません」

左馬允は、

その言葉にわずかに眉を動かした。

蘭丸が“線”を理解する者であることを、

この瞬間に悟った。

蘭丸は紙をそっと持ち上げ、

光に透かすようにして眺めた。

「……信長様が、あなたを気に入られた理由が分かる気がします」

「理由……?」

「ええ。

 信長様は、線を見るのです。

 人の動き、戦の流れ、

 そして、心の揺れまでも」

その言葉は、

鶴千代の胸の奥に静かに沈んだ。

蘭丸は紙を丁寧に巻き、

静かに立ち上がった。

「これは、信長様にお見せします。

 この線は、見逃してはならぬものです」

左馬允は一歩前に出た。

「森殿。

 これは……」

蘭丸は振り返り、

穏やかながらも確信に満ちた声で言った。

「左馬允殿。

 これは、隠すべきものではありません。

 むしろ、信長様にこそ見ていただくべきものです」

その言葉には、

少年でありながら、

信長の“目”を理解する者の確信があった。

左馬允は、

その確信の強さに、

わずかに息を呑んだ。

(この子もまた……信長様の“線”を知る者か)

蘭丸は軽く微笑み、

巻いた紙を抱えて廊下を歩き去った。

その背中は、

少年でありながら、

すでに信長の“信”を担う者の背中であった。

鶴千代は、

その姿を見送りながら、

胸の奥で何かが静かに動き始めるのを感じていた。

美と戦。

線と意志。

そして、信長という巨大な存在。

そのすべてが、

この日を境に氏郷の人生に結びつき始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ