第一章:戦線離脱勇者(1)
険しい山々のとある山麓に、旅人で栄える町、アルシャンがあった。
アルシャンの町中を行き来する旅人は皆、同じ目的を持っていた──魔王ヴァティー打倒、という目的を。
というのも、このアルシャンの町が、魔王とその手下の魔物たちが巣食う魔城ギーギックから最も近い町だからだ。魔王を倒すべく旅を続けてきたパーティーは、最終決戦の前に休息と装備品の補充のため、必ずと言っていいほどこの町を訪れるのだ。
それゆえに、アルシャンに集う旅人は皆、百戦錬磨の頑強な勇士ばかりだ。アルシャン唯一の旅人専用の酒場でも、そんな旅人たちがたむろしている。
魔王に関する情報を得るため、新たな仲間をパーティーに加えるため、最終決戦前に気を落ち着かせようとただ酒を呑むため……。
それぞれの目的を果たすため、アルシャンの酒場は今日も昼間から賑わっていた。
その酒場の扉を、一人の少女が勢いよく開け放った。
「うわ。なにこれ、酒くさ……」
酒場の中に足を踏み入れた少女は、開口一番にそう言い放った。むせかえる臭いに顔をしかめながらも、ずんずんとためらうことなく中へと進んでいく。
そんな珍客に、酒場に寄り集まる者たちの好奇の視線が集まるのは当然だ。まだ年若い彼女は、酒場──しかも、アルシャンの酒場だ──に似つかわしくない姿だからだ。
「いよう、嬢ちゃん。こんなむさ苦しい所へようこそ」
カウンターの中でグラスを拭いていた強面の男が、目の前にやって来た少女にそう声を掛けた。彼はこの酒場の主人だ。にやにやと笑っているのは、客たちと同じことを思っているからだろう。
「おじさん、お願いがあって来たの。聞いてくれる?」
マスターは少女を頭のてっぺんから足先まで一瞥した。齢は15ほどだろう、鮮やかな金色の髪の毛を鎖骨の辺りまで伸ばし、手には杖を持ち、魔法使いさながらの恰好をしている。その可愛らしい顔は、本来ならば誰からも愛されるような顔立ちをしているのだが、大きな瞳はいかにも気が強そうに光っている。
「ほう……何だ? 迷子になったから、帰り道でも教えてほしいってか?」
少女はマスターのからかいに眉をひそめたが、何かを言いたくなるのをぐっと堪えた。売り言葉に買い言葉では、聞いてくれるものも聞いてくれない。
「私、どこかの勇者のパーティーに入りたくて、アルシャンまで来たの。アルシャンは魔王の住む城まで目前でしょ? だから、どこかの一行に加えてもらえると思って。酒場では仲間の募集をしているって聞いたから」
「確かに、この町には今も勇者一行が何組か滞在しているが……どうしてまた、勇者のパーティーなんかに入りたいんだ?」
マスターは念のためにそう訊ねたのだが、少女の方は今さらどうしてそんなことを訊くのかと言いたげに答えた。
「魔王を倒しにいきたいからに決まってんじゃない」
その言葉に、酒場全体が沈黙した。マスターだけでなく、客たちもピタリと話をやめて少女を見つめている。
……が、次の瞬間、爆笑が静寂を破った。客たちは面白そうに手やテーブルを叩き、マスターは腹を抱えて笑っている。
「なっ、何で笑うのよ!?」
少女はカッと頬を赤らめると、戸惑いながら酒場を見渡した。
「いや、すまんな。まさか嬢ちゃんが魔王退治に行こうなんて、これっぽっちも思わなかったんでなあ」
笑いを何とか静めたマスターが、人差し指と親指でわずかな隙間を作りながら答えた。客たちもマスターの言葉に頷いている。
酒場にいる全員を睨みながら、少女は負けじと訊ねた。
「どうして? 私が女だから? 若いから?」
「別にそういうわけじゃない。嬢ちゃんみたいに、年若い女を仲間に加えてるパーティーはたくさんある。だがな、そういった奴らはそれ相応の実力があるってもんよ。嬢ちゃんの場合……失礼だが、とてもそうは見えないんでね。辺境の地で加えるならまだしも、最終決戦前に加える仲間としては不適合なんだよ」
マスターの説明はもっともだ。少女自身、このアルシャンに来てみて、それを感じていた。滞在している旅人全体のレベルが、これまで通ってきた町とは全く質が違うのだ。
「じゃあ、ちなみに訊いといてやるが……嬢ちゃんのキャリアは?」
マスターはグラスを拭く作業を再開すると、横目で尋ねてきた。
キャリアとは、旅人がパーティー要員候補として酒場に登録する際に必要な、その人物に関する情報のことだ。具体的には、名前、年齢、性別、職業などの基本的なデータ、経歴やレベル、どんな特技が使えるか、だ。勇者一行をはじめ、新しい仲間を迎えたいパーティーは、まずは登録者のキャリアを見てから決めるものだ。
「名前はレナ、15歳の魔法使いよ。レベルはえーと……この前、神官さまに調べてもらったときは、レベル3だったかしら」
そこで、少女──レナは、マスターの訝しげな視線に気づいて、慌ててサバを読むことにした。
「あ、ううんっ、今は5くらいあると思うけど!」
「…………。で、使える魔法は?」
「初級魔法を三つほど……」
惜しげもなく披露されたレナのキャリアを聞いて、後ろの客たちがざわつき始める。
「おいおい。あのレベルでよく、この町の酒場で登録しようと思ったな……」
「魔王を相手にするには、最低30は必要だよなあ。……もしかして、“自信過剰ちゃん”か?」
「その前にまず、生きてアルシャンまで来られたのが不思議だよ。ギーギック城が近いこの辺りじゃ、並みの魔物だってかなりの強敵なんだぞ。魔物に遭遇して、あのキャリアの魔法使いが一人で倒せるはずがない。運の良さだけはピカイチってか?」
「う……うるさいわね! 強くなるのは、別に今からでもできるでしょ!」
ざわざわと自分の話がされているのを聞いて、レナは彼らに向かって怒鳴った。口ごもっていたのは、彼らの言っていることがごもっともだからだ。
レナは咳払いをすると、マスターの方に向き直った。
「……で、私のキャリアのことを訊いてくれたんだもの。私をどのパーティーに紹介してくれるか、考えてくれたのよね?」
「ああ、決めたぞ」
マスターは溜息をひとつつくと、レナに厳しい現実を宣告した。
「そんなヒヨッコ、うちの酒場じゃ登録できねえってな。どうしてもうちの酒場で仲間を探したいってんなら、もっと強くなってから出直してきな」
マスターの言葉に、レナはギリギリと歯を食いしばった。
(そんな……。強くなってからなんて、そんな悠長なこと言ってられない! 今じゃないとダメなのよ!)
ここまで来て諦めるわけにはいかない。レナは真剣なまなざしで、マスターの目を覗き込んだ。
「ねえ、おじさん。そこを何とかしてほしいのよ! 入るパーティーを選り好みできる立場じゃないっていうのは分かってるつもり。私は別に、一番強い勇者一行に加えてって言ってるわけじゃないのよ。入れてくれるならどのパーティーでもいいの、魔王打倒を掲げてるパーティーならどこでもね!」
「そんなこと言っても無駄だ、さっさと帰……」
マスターはそこまで言ったところで、言葉を切った。どんなに懇願されてもレナを酒場から追い出そうと決めていたのだが、あることを思い出したのだ。
マスターはにやりと笑うと──意地の悪い笑みだ──、もったいぶった調子で話し始めた。
「……仕方ない。そんなに言われちゃ、何もせずにいらないからな。嬢ちゃんにとっておきの情報をくれてやろう」
「えっ、何!?」
レナは思わずカウンターに身を乗り出した。食い下がった甲斐があったというものだ。
「とある勇者のことだ。そいつは“戦線離脱勇者”と呼ばれている」
「戦線離脱……勇者?」
「訳あってうちの酒場から勇者登録を抹消したんだが……聞いて驚くなよ。そいつは、数か月前に魔王と一度、戦ったことがあるんだ」
「……魔王と!?」
「そうだ。まあ、今も魔王ヴァティーは生きていることから戦いの結果は分かるだろうが、結局その戦いで魔王を倒すことはできなかった。だが、そいつの力量は確かなものだ。魔王とやり合うだけあるからな。だから、嬢ちゃんがどうしても勇者の仲間になりたいってんなら、そいつに掛けあってみな。そいつには今、パーティーメンバーが一人もいないはずだから、嬢ちゃんのようなヒヨッコでもきっと仲間に入れてくれるだろうよ。今もこの町に滞在しているはずだからな」
こんな良い話はない、と思ったレナだったが、はたと気づいた。
「……ちょっと待って。おじさん、さっき、その人のことを“戦線離脱勇者”って言わなかった? 実力のある勇者でも、もう戦線から離れてるんじゃ意味がないじゃない」
「いいところに気付いたな、嬢ちゃん」
よく訊いてくれたとでも言わんばかりに、マスターはにやっと笑った。
「確かにそいつは、戦いの能力は一流だ。だが、勇者としては失格だな。なにしろ、勇気がないんだからなあ」
マスターが最後の一文で声の音量を上げたのは、酒場の客たちの耳に入れるためだ。その思惑通り、客たちは口々に“戦線離脱勇者”のことを話し始めた。
「魔王と戦ったあとに仲間に見捨てられたのも、あいつがヘタレ勇者だったからなんだろ?」
「まあ、彼らの気持ちは分かるわ。あたしんとこの勇者も、もしあんなこと仕出かしたら、すぐさま離縁状叩きつけてやるもの」
「そういえばこの前、町中で“戦線離脱勇者”を見たぞ。借金取りに追いかけられてたようだったけどな、ははは」
「しっかし、不憫だよなあ……。魔城に乗り込むまでは、魔王に最も近い勇者一行だって言われてたのに。ここで腐るにはもったいない男じゃねえか?」
「ハッ! 俺たち人間を裏切った臆病勇者に同情なんかいらねーよ」
客たちの話を聞いていたレナは、思いがけないことばかりの会話に耳を疑い始めていた。
(何よ、その“戦線離脱勇者”って人は。みんなにえらく嫌われてるのね。まあ、勇者なのに“ヘタレ”だとか“裏切った”とか……本当にそんな勇者だったら、みんなに嫌われるのは当然か……)
それよりも、どうして“戦線離脱勇者”とやらは、そんなに嫌われているのだろうか。レナはマスターに小声で訊いてみた。
「……その人、魔王との戦いで何かあったの?」
マスターは答える代わりに、太い眉毛を片方、訳ありな様子で上げてみせた。
「……本人に会って、直接訊くこったな」
「ええ~? 教えてくれたっていいじゃない。もしその“戦線離脱勇者”に魔王退治に行く気がないんだったら、その人に会いに行く時間ももったいないもの」
「確かにあいつの今の状況を見りゃ落ちぶれてはいるが……魔城に近いこの町に、しつこくもまだ居残っているんだ。魔王退治は諦めてないはずだ。……まあ、俺の推測に過ぎないがな。だが、一度はうちの酒場で登録していた勇者だからな。何となく、そう思った」
そう言うマスターの目が意味ありげに光ったのを見て、レナはその“戦線離脱勇者”に、とりあえず会いに行くことにした。