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第百三十六話

何度だ?今ので倒れたのは何回目だ?

トレデキムってことは、ラテン語で十三回目か。この砂埃と砂利にまみれながら、頭から滴り落ちる己の血が瞼に交わり、何度も何度も力尽きては彼らローマ兵が、俺の身体を無理やり立たせるんだ。


「立て!ナザレの大工よ!」


思った以上に重量な十字架は、腰や右肩でしっかり押さえ、右頬を木材にしっかりつけ、そして左手で支えなければ、満足に地面を引きずる事さえできない。時折、木材の荒い部分が頬に擦れて擦り傷を起こす。バランスを考えると、左足で地面に踏み込まなければ、上手く持ち上げる事は不可能だ。それなのにだ!民衆は腐った果物や野菜を投げつけ、この俺を罵倒しているのだ。


「ナザレの大工は処刑だ!」

「救世主と名乗った偽善者め!」


何とも世間とは冷たい。なぜ人は最初に信じる事ができないのだろうか?なぜ人に心を開く事から始めないんだ?善人だろうが悪人だろうが、生まれたての赤子は皆母乳を求める。それと同じように、我々は好かれる為に生きてきたんじゃないのか?自分さえよければいいのか。違うだろう?なぜ人に愛を求めることは許されないのか?それでも俺を偽善者と呼ぶのなら、貴様らはそれ以下だ!偽善にも偽悪にもなれない日和見主義が!他人を軽蔑できる立場にあるというのか!?


「カッシウス!属州民を黙らせろ!」

「ハッ!ロンギヌス隊長!」


この時ばかりはローマ兵達の剛腕に感謝した。彼らが左手に持つ大きな盾が、民衆の投げつけた物から俺の身を守り、感情的になった民衆を睨みつけ、俺に危害を加えようとする者を右手で払い除け、時にはその長く黒い槍で道を開けるよう強制する。先ほどまで、ユダヤの王と罵られたローマ兵が、俺を磔刑させるために護衛につくとは、何とも皮肉な話ではあるがな。こんな過酷な状況下では、冷酷なローマ兵すら天使に見えてくる。うん、くそ!右膝が!


「どうしたナザレの大工!?立て!」

「......」

「立てと言ったら、立つんだ!」


そうだよな。俺が力尽けば、ローマ兵は容赦無く立たせようとやってくる。一時でも王の気分に味わえたが、そんなわけはない。くそ、だんだん右足の感覚が無くなってきた。地面を蹴り上げようにも、踵に力が全く入らないんだ。何度踏ん張っても、この重たい十字架が俺の全力を吸い取るように、立ち上がる事を拒んでいるようだ。左手に力を入れて、右手で上の方からバランスを取って、右膝は地面につけたまま。くそ!小石が喰い込んでくる。左足は立て膝で踏ん張って。


「何をやっているんだ!?」

「......」

「これで十四回目だぞ!ナザレの大工!」


そうは言っても、駄目なんだ。両膝が使い物にならない。目は霞んでくるし、自分がどこにいるかも分からない。喰い込んでいた砂利さえも、今では痛みに感じられないほどだ。これは俺の呼吸か?胸が軋むように激しい呼吸をしている。なんという軟な肉体なんだ?なんという脆弱な杯なんだ。湧きあがる気力を、ことごとく洩らし続けている。


「カッシウス!分からんのか?」

「はい?ロンギヌス隊長」

「こ奴にそれを運ぶのは無理だ!お前が運べ!」


くそう、また目の前が霞む。西日の逆光で、目の前の人間全て影法師で顔が見えない。誰なんだ?一体何が起きているんだ。二、三人が騒がしく俺の目の前で動いている。どうせ、ローマ兵がまた立てと言うんだろ?俺はもう無理なんだ。もう、ここでいいから死なせてくれ。頼む。もう辛いんだ。俺を磔刑にしたいというのなら、これ以上俺に歩かせないでほしい。


「大丈夫か?」

「......!?」


すると右肩に乗っかっていたはずの十字架が、まるで羽毛のように軽くなっていった。それだけじゃない。俺の右肩を誰かが引っ張り上げるのだ。もはや俺の身体は流木のようだというのに、こんな使い物にもならない杯を、一体誰が励ますというのだろうか?


「俺の名はサイモンだ。ローマ兵達からあんたを助けるよう言われたんだ」


このサイモンという男は、アフリカ北部にあるローマ属州キュレナイカからエルサレムまで巡礼にやってきたそうだ。不運にも俺に巻き込まれたようで、それでも彼は俺を何度も励まし、倒れそうになった時に支えてくれた。ああ、なんと恥ずかしいことなのだろうか。先ほどまで、世間を罵倒していた己の性格が、いかに女々しく小さい事なのだろうか?ローマ兵に強制されたとしても、サイモンという人物は俺を見捨てず、優しく、俺を助けてくれた。そうさ、世間にはまだまだこういった優しさが残っているはずなんだ。


「頑張れよ!ナザレの大工さんよ。あともう少しなんだからよ!」

「......」


そうだ、そうなんだ。一歩ずつ、そして一歩ずつ。俺は処刑するために、生きようとしている。こんな皮肉は、まるで人々の人生と同じようだ。誰もが課せられた贖罪。他人から罰せられなくとも、人は死という結末に向かって、生きていかなければいけない皮肉。気が付いているのだろうか?ローマ皇帝だろが、ユダヤの司祭だろうが、商人だろうが、誰もが必ずこの人生の皮肉に遭遇する。俺は三十三歳にして、ようやくその人生の皮肉に遭遇しているわけだ。


「よし、サイモン!十字架を地面に下ろせ!」

「はい」


サイモンは抱えていた十字架を下ろすと、木材独特の反響音が辺りに木霊した。俺はよつんばになり、これから自分を磔刑する忌々しい十字架を睨みつけていた。するとカッシウスがやってくる。彼は十字架の頭部の先に、何かの罪状書きを釘で打ち突けている。罪状書きにはラテン語で"INRI"と刻まれおり、その下にはその説明が書かれている。ああ、なるほど。ここでも俺はどうやらユダヤの王と自称したとされている。


「ナザレの大工の服を剥ぎ取れ!」


数人のローマ兵が無理やり身体を仰向けにさせると、今度は俺の両腕を二人で引っ張り始め、十字架の上へと引きずって行った。別のローマ兵が俺の両肩と両脇の位置を、背中にある十字架の交差部分と確かめると、右腕を引っ張っているローマ兵に合図を送った。その合図に右側のローマ兵は手首を縄で何度も縛り付け、そしてとうとう鋭い釘を持ち出してくる。


「掌に釘を打付けろ!」

「了解しました!」


続く


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