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最終章 幻想世界との別れ

 年に一度の豊饒祭。これまでの充実した富に感謝し、これからの繁栄を祈る記念の祭。

 この世だけでなく、別の世界の同じ時間も祝福する。それがこの祭の真意だ。


 真意があることは分かっても、建前としてしまうのが祭の特徴だ。この豊穣祭も例外ではないらしい。

 つまり、食べ物と参加者が集まれば騒いで楽しむものらしい。


 香乃は今、鍋の置かれた机にいたままだった。鍋のことは忘れていないが、おそらく食べ始めたら食べることに夢中になっていまいそうだったので最初のうちは遠慮しておいた。日にかけたのはついさっきだったから、煮込みすぎなければある程度時間をおいたほうが味も良くなるだろう。


 鍋を後回しにし、香乃は周囲を眺めていた。

 さらっと見てみても、天竜族は本当に不思議な種族だった。漫画や小説に出てくるファンタジーの塊のような存在だが、祭を開いて大勢で騒いでいる様子は人間とさほど変わりない。


 鋭い牙や爪を持っているが血肉を求めているわけでもなく、大きな翼を広げて畏怖を撒き散らすわけでもない。

 とても温厚で、神仏のような手の届かない場所にいるわけでもないので親しみやすい。笑うし、涙も流す。存在の仕方が普通すぎて違和感を覚えてしまうほどだ。


「お味はどうだ?カノさん」


 スラスタハルが話しかけてきた。香乃が一人で寂しそうにしていたのを見兼ねたのだろう。

 まだ手をつけていないのだが、社交辞令という形で返事をすることにした。


「はい、美味しいですよ。わざわざ私の土地の食べ物まで用意してくれて、どうもありがとうございます」


「礼なんかいらねえよ。こっちは勝手に連れてきた身だし、俺らの食い物はおそらく口に合わねえだろうしな」


 天竜族のために用意された食べ物は特殊な雲だ。人間が食べられるような代物ではないだろう。


「他の方と話さなくていいんですか?この国の長だったら、挨拶回りや大事な話もたくさんあるかと思うんですが」


「連れないこと言うねえ。人間の社会はよく知らねえけど、俺たちは普段からよく顔を合わせるから、改めて挨拶や用事なんて持ち込まねえんだよ。それに、せっかくの祭なんだから、楽しむほうが先だろ?……それとも、俺と話すのは嫌か?」


 スラスタハルの諧謔に香乃は笑顔で答える。


「いいえ、国の代表と話すことができるなんて光栄ですよ。お話もお上手ですし」


「わははは!照れることを言ってくれるねえ!カノさんのとこの文化は礼儀が洗練されているみてえだな!」


 人間社会の文化に褒め言葉を添えて、スラスタハルは大きな口を開けて大笑いした。体格が巨大なので近くでそれを見ると至極圧巻である。


 天竜族の文化はまだ詳しく知らないが、他の同族と交流することに関して並々の頻度を持っているようだった。

 確かに、電話や電子メールがない以上、直接合って話すというアナログな方法で交流するしかない。普段から会っている分、“久し振り”という感覚があまりないのだろう。地球の文明は間接的なやりとりが多くなっているので、それはそれで羨ましいと香乃は思う。


 香乃は試しにポケットの中身を取り出して見せた。


「スラスタハル、これって何か分かりますか?」


 香乃が持っているのは携帯電話だ。通話・通信を目的とした個人用携帯型通信端末で、日本では普及率が実に九割を超えており、決して珍しいものではなくなってきた代物だ。


「……なんだこりゃ?新手の鏡か?」


 携帯電話をまじまじと眺め、手にとってぐるぐると回して観察した第一声の感想がそれだった。おそらくディスプレイを見た印象からの分別だったのだろうが、知らない人に見せた反応は本当に面白い。


「それはですね、同じ物を持っている人と会話や連絡のやりとりができる機械なんですよ」


 香乃は得意顔になってそれを説明した。香乃が発明したり製造したりしたわけではないが、細かいことは隠しておいた。


「へえ……こんなので離れた相手と話ができるのか?」


 スラスタハルは興味津々といった様子で携帯電話から目を離さない。そんな子供っぽいところが可愛いと思った。


「仲介役として電波を繋ぐ仕組みと施設が必要になるんですけどね、私の世界じゃ重宝されている物なんです」


 仲介役というのは電話交換機のことなのだが、香乃は詳しくないのでこの説明が精一杯だった。

 日本の場合はISDN網やDSLだけでなく、課金制御やATM通信などにも交換機が用いられている。電話番号やメールの内容を暗号化し、他の端末と情報をやりとりをする重要な役割を担っている。


 スラスタハルは相変わらず携帯電話を見続けている。裏返したり、受話マイクの部分を耳に当てたりしている。

 やはりというか、未知の物に対する好奇心が半端でなく強いようだ。また、携帯電話で話をしているドラゴンというシュールな絵が出来上がっていて笑えた。


 香乃が気分良くその様子を見ていると、スラスタハルがぽつりと言った。


「なるほどね。つまりは多個体と間接的に連結する電子的人工シナプスみたいな媒体か。こういう手段もあるんだな」


 突然訳の分からない単語が飛んできて、香乃は耳を疑った。


「……はい?」


 香乃の不思議そうな反応に、スラスタハルは隠しもせずに答える。


「他の異世界でも同じような物を開発している種族がいてな、一連の説明をしてもらったことがあるんだよ。その種族は片目に特殊な細工を施して、通話・通信から情報収集、架空空間でのコミュニケーションをできるようにしてたんだ」


「なっ……!それ本当ですか?!」


「ああ。目の前で見せてもらったんだけどな、さすがに文字通り次元が違うから他端末との通信はできなかったけど、俺らの身長やら体温やら心拍数やら、気温やら湿度やら風速やら、あと山の測量とか表面層の成分分析とかも、眼球を向けただけで瞬時に測ってたぞ」


「ありえん……」


「そう思うだろ?俺も最初見た時は信じられなかったぜ。世界は広いよなあ」


 スラスタハルは感慨深く頷いている。


 一方、香乃は言葉を失うぐらい驚愕していた。

 『幻現』を見せられた時から、異世界とのテクノロジーの差があることは図らずとも知っていた。身近な物を取ってみても歴然とした差が出ている。異世界の技術の進歩を改めて知ったところで驚きは大きくならない。


 香乃が驚いたのは、天竜族の理解力だった。異世界の技術であってもそれを理解し、順応している。さらには構成までも理解してしまっている。

 この世界に来てから何度驚かされたのか分からないが、いつ実感しても目を見張ってしまう。

 もし物作りの技術を与えたら、とんでもない文明ができあがるのではないかと香乃は思った。


 携帯電話を返してもらった香乃は、あえてそれを言わずにポケットへしまった。


「……そういえば、まだ訊いていなかったのですが」


「ん?何だ?」


 香乃は気になっていたことを質問した。


「わたしをこの世界に連れてきた天竜族って、もしかしてスラスタハルなんですか?」


 夕方に携帯をいじっている時、空から黒い影が覆い被さってきたのを覚えている。拉致された直後は気絶してしまい、次に意識が戻った時にはすでにイズの部屋の中だった。

 香乃は誰の手によってこの世界に来たのか、まだ知らなかった。連れてきた人物どころか、連れてきたのがドラゴンだったこともあとになって分かったのだ。


「ああ、そのことか。カノさんの言う通り、俺が張本人だよ。招待するのは長の役目って毎年決まってんだ」


「そんなこと言って。あなたのことだから、どうせ楽しみたくて買って出ているだけじゃないんですか?」


「わはははは!バレたか!」


 どうやら香乃の予想は的中したらしい。

 ある程度把握してきたことだが、スラスタハルという人物は娯楽を追求する性格らしい。楽しいのが一番、楽しむことに対して手間を惜しまない、というのが印象に強い。そうでなければ、このような宴会のような祭にならず、もっと形式張った催しになっていただろう。


「連れてきてもらったことはもういいんですが、どうしてイズの部屋で私を待たせたんですか?」


 質問されたスラスタハルは、すぐに返事を言わなかった。ただ笑顔を向けるだけで、答える気配がない。

 その反応を逃さず、香乃は問い質すことにした。


「初めからなんとなく変だと思っていたんです。お客さんを招待する態度は悪くないのに、待機のためのしかるべき場所はなかったのかって。この集会場で待たせることもできたはずです。なのに、わざわざ個人の部屋、それも交流に難のある人物の部屋で待たせるなんて、あなた方の親切さからはとてもかけ離れています」


 初めてイズの部屋に来た時、香乃は大変驚き、そして戸惑った。敵意がないと分かってからも、イズの後ろ向きな態度に少々気を遣ったのは事実だ。

 他の天竜族の住居があるにもかかわらず、スラスタハルはイズの部屋に香乃を待たせた。

 何らかのトラブルを起こしてもおかしくないというのに、どうしてそのような措置を取ったのか。


 香乃のまっすぐな視線から、スラスタハルは視線をそらすことなく答えた。


「さあな。たまたまあいつの部屋しか空いてなかったのさ。偶然としか言いようがないな」


 そう言って、スラスタハルは手に持っていた雲にかぶりついた。まるで何かをごまかすように。

 やれやれ、とかのは溜め息をついた。


 スラスタハルは話しかけられるのを避けるように雲を咀嚼している。自分の顔よりも大きな物に顔を突っ込んでもぐもぐする様はなんだか可愛くて、自然と笑えてしまった。


「スラスタハル、それって美味しいんですか?」


「まあな。俺らの主食だし。……いっぺん食ってみるか?」


 スラスタハルは手に持っていた食用の雲を差し出してきた。


「いいんですか?じゃあ……」


 香乃がそれを受け取ろうとした時、


「異界の民にここの食料を口にさせるのは駄目だと、去年も申し上げたはずですが」


 いつの間にか傍にいたシルゼーロマが注意してきた。


「やっぱ駄目かな?」


「私たちには何ともなくても、カノさんにとっては毒となる物が入っていたらどうするのですか」


「俺らは食えるんだし、食い物なんてどこも一緒だと思うんだがなあ」


「あれだけ異界渡航を繰り返しておきながら、まだ異世界と我々との差異を理解していないのですか!たとえ外見が同じでも、それまでの習慣や環境が違うだけで体質が異なるんですよ!」


「分かった分かった。俺が悪かったから唾を飛ばすなっての」


 部下からのやかましい正論にスラスタハルはうんざりとした表情を浮かべる。


「そうやって部下のありがたい注意を蔑ろにしているからシルゼーロマの苦労が減らないんだよ、父さん」


 シルゼーロマの後ろからイズが追いついてきた。


「イズ、今までどこに行ってたの?いつの間にかいなくなってたから心配したよ」


「ごめんね、カノ。組織に加入するなら今のうちに顔を覚えてもらえって、シルゼーロマに今まで引き回されてたんだ」


「何を言っているんだ。こういうのは最初が肝心だと言うことを知らないのか?お前の顔を知らない者も多いんだから、こちらから挨拶に行くのが常識だろう」


「だからって、力ずくで引っ張らないでよ。あとでちゃんと行こうと思ってたのに」


「大事な用事を後に回すのは大馬鹿だ。こういうのは早いほうがいいに決まっているんだよ」


 イズとシルゼーロマが言い争うのを見て、香乃の頬が緩んだ。


「何笑ってんだ?カノさん」


「いえ、この二人、まるで姉弟みたいだなって思って」


「まあ、もともと仲のいい関係だったからな。今までちょっと距離があったってだけだし。……こんな光景を見られるのも、カノさんのおかげだよ」


「あら、おだてても何も出せませんよ?」


「あちゃー、そりゃ残念!」


 スラスタハルは大袈裟に額へ手を当てた。


「いいか、お前はとにかく一般常識が抜け落ちているんだ。まずはそこから叩き込むからな」


「シルゼーロマだって人の話を聞こうよ。一方的に教える指導の仕方はどうかと思う」


「何だ、上司に盾突こうっていうのか。いい度胸だな」


「肩書きや職歴を盾にしないでくれる?それじゃ教わる気にもならないし」


 傍らからはまだ口喧嘩が続いていた。


「……なんだ、こいつらまだ言い合ってんのか」


「ほんとに仲いいですねえ」


「こりゃ頭として、一喝しなきゃいけない場面かねえ……」


「まあまあ。あの二人の仲だからこそですよ。“喧嘩するほど仲がいい”って私の国ではいいますし」


「ほう、そりゃ的を射る表現だな。これから俺も使わせてもらおうか」


「仲が悪いっていうのは、あの二人には似つかない言葉でしょうね。親しげに額をくっつけ合ったりしてましたし、心配はないかと……」


「なにっ!?本当か!」「か、カノさん!!」「うわ、言っちゃった……」


 スラスタハル、シルゼーロマ、イズが同時に悲鳴に近い声を出して香乃に振り返った。

 今まで喧嘩していた二人もそんなことをしていなかったかのように驚いていて、香乃は息を飲んだ。


「えっ……と……?私、そんな変なこと、言いました……?」


 戸惑いを隠せず、恐ろしげに訊いた。


「ほほう……お前ら、俺の知らないところでずいぶんといいトコまで行っちゃってんじゃねえか、ええ?」


 スラスタハルがにやにやと歪んだ笑顔を浮かべてイズとシルゼーロマを窺う。


「あの……それは、ですね……」


「ば、ばらされた……」


 シルゼーロマは慌てて弁解しようとし、イズは恥ずかしそうにそっぽを向いている。また、二人は同じように顔を真っ赤にしていた。


「あの……どういうこと、でしょうか……?」


 なんだかとても罪深いことをしてしまったような気がした香乃は、スラスタハルに理由を尋ねた。


「カノさん、あんたの世界じゃ、親しい者同士でする接触行為ってあるか?特に、友人よりも深い関係ですることで、だ」


「え?」


 質問で返された香乃は、言葉の通りに思い浮かべた。

 親しい者同士での行為といえば、握手とか抱擁とかだろう。肌の直接的な接触は親睦のある表現として世界で共通している。


 だが、それらは確かに親しい仲ですることだが、友人よりも深い関係となると少し違う気がする。

 友人よりも深い関係、つまり恋人となると、単純な思考で思い浮かぶのは……


 キス……とか、だろうか。


「ありますけど……それが?」


 香乃の想像する様子に、スラスタハルは大きくにやついて言った。


「額を触れ合わせるっていうのはな、俺たち天竜族の文化じゃ、それに該当するんだぜっ」


 スラスタハルが楽しそうに言い切ると、イズとシルゼーロマの顔が、ぼんっ、と赤くなった。


「「~~~~~っ!」」


 二人は声にならない声を上げて固まってしまった。

 つまり、シルゼーロマからの一大決心を受けたイズだったが、それを他の者から実の親に暴露されたということになる。これは香乃でも恥ずかしい。


「えっと……二人とも、ごめんね?」


 恥ずかしさで何も言えなくなってしまった二人を前に、香乃はなんだか悪い気がしてならなかった。


「だはははは!!構わねえ構わねえ!こりゃ食って祝うしかねえな!わっはっは!」


 二人の心情など全く気にしないで、スラスタハルは大笑いしながら手に持つ雲に大きな口でかぶりつく。


「カノさんに賞味できないのが残念だが、なかなか美味いんだよ。味もいくつかあるから、飽きることもないしな」


 言い終えて、再び雲にかぶりつく。おいしそうな様子に釣られた香乃の口には唾液がたまり、お腹が鳴った。まだ温め始めたばかりだが、体は待ってくれないらしい。

 レンゲで小皿に白菜と椎茸と汁をよそる。立ち上がる湯気とダシの香りが鼻孔をそそる。

 そろそろいい塩梅だろうか。


 白菜を食べやすい大きさに切り、口に運ぶ。

 甘みが染み出た上にダシの染み込んだ具は、空腹感など忘れてしまうほど美味しかった。疲れた体に至福の安心感が広がっていく。


「美味しーっ!」


 香乃は自然と顔が綻んでいた。

 噛めば噛むほど口の中に美味しさが満ちていく。『空腹は最高のスパイス』という俗説があるが、あれは本当にあるのだと実感した。


「こんなに美味しいご飯を用意してくれて、どうもありがとう!」


「はははっ!喜んでもらえたようで何よりだ!現地の人に食材選びを協力してもらった甲斐があったよ」


「正解!それ超グッジョブ!」


 香乃はとびきりの笑顔とサムアップで答える。少し古い言葉が漏れ出たが、そんな些細なことなど気にならないほど感激していた。


「なかなか親切な人でな、俺が必要な物を曖昧に聞いただけで手に入る場所を案内してくれたんだ。なんか困ったような雰囲気だったけど、自分の都合を二の次に考えてくれた、すごく好印象な人間だったよ」


 そういう人は珍しい。確かにいないわけではないが、スラスタハルはとても運が良かったといえる。


「食材もそうだけど、味付けも本当に最高!私たちの世界ではね、こういうのって……」


 香乃が言うよりも早く、スラスタハルは言わんとしたことを感じ取ったようだ。ズバリ、といったふうに人差し指(?)を向けて言った。


「“萌える”っていうんだろ?」


 香乃は危うく吹き出しそうになった。

 笑顔から仰天の顔に一転した香乃の様子に、スラスタハルは理解しきったような顔で続ける。


「違ったか?現地協力者から『食べちゃいたくなるほどめでたいもの』に対して使うって聞いたんだが」


 違う。絶対違う。言葉の意味は合っているかもしれないが、使い所が間違っている。あと、それの『めでたい』っていうのは『目出鯛』ではなくて『愛でたい』だ。

 買い出しに協力したのは称賛するが、異世界の国の長になんてことを吹き込んでいるんだうちの愚民は。


 小皿を落としそうになるのを必死で堪えて、香乃は質問した。


「あの……それって……」


「ん?どんな人だったかってこと?ちょっと待ってな」


 言葉の本当の意味と用途を説明しようとしたが、スラスタハルが勘違いをして遮った。

 どこに持っていたのかは知らないが、スラスタハルは再び『幻現』を取り出し、体に纏い始めた。


「幻現は体を伸縮させるだけじゃなくて、擬態もできるからな。今その人を再現するぜ」


 人相を知ったところでどうしろというのか、スラスタハルの意図がわからない。まあ、適当に相槌を打って場の雰囲気を悪くしないようにしようと思った。

 幻現の効果により、スラスタハルの姿が少しずつ変わっていく。


「確か……こんな姿だったかな?」


 変身を遂げたその姿を見て、今度は本当に小皿が香乃の手から滑り落ちた。

 見開いた瞳に映るのは、よく知っている人間だった。


 細身で短髪のシルエット。

 けだるそうに曲げられた背中。

 自分よりもはっきりとした二重。

 首筋に一つだけある小さなホクロ。


 他人とは言えない男性。知らないと白を切れない異性。

 この世界に来る直前に喧嘩をした相手。



 スラスタハルが変身した姿は、香乃の恋人だった。



 香乃は口をわなわなと震わせながら、質問をぶつけた。


「あ、あの……その人とは、どうやって会ったんですか……?」


 会った経緯を聞くなどおかしいとは思う。しかし、尋ねないわけにはいかなかった。他でもない、彼のことなのだから。

 聞かれたスラスタハルは、特に気にするふうでもなく答えた。


「カノさんをこっちの世界に招待したあと、俺はもう一度カノさんの世界に行ったんだよ。できるだけ同じ着地点にな。で、いい人はいないかと探したら、偶然その人を見かけたわけ。特に厳選したつもりはなくて、ただ一番最初に見つけたからって理由で協力を頼んだんだよ」


 スラスタハルの説明は実に単純で自然に聞こえる。

 だが、香乃にとってはおかしい点がすぐに分かった。


 彼と喧嘩したのは、彼の部屋の中だ。

 しかしスラスタハルは彼を外で見たという。


 おそらく彼は、喧嘩したあと、私を追いかけてくれたのではないだろうか。

 どんな思惑かは知らないが、彼が外にいた理由がそれだったらと思うと、香乃は急に怖くなった。


 もし、万が一、いまだに戻ってくるのを待ってくれているとしたら。

 香乃がこの世界に来てから何時間も経っている。それでも、いつもの彼だったら、おそらく……。


 心配そうな様子だったと見受けたスラスタハルの印象は間違っていないのだろう。

 都合のいい解釈かもしれない。自分勝手な希望が綯い交ぜになっているのかもしれない。

 それでも、香乃は彼の気持ちを信じたかった。それと同時に、自分がまだ彼のことを好きでいるということも信じたかった。


 香乃は落とした皿とレンゲを拾い、テーブルの上に置いた。


「……カノ?」


 イズを始めとした天竜族の面々が心配そうな面持ちで香乃を窺う。


「すみません、私、もう帰らなきゃいけないんです」


 香乃の気持ちは決まった。

 一分一秒でも早く、彼にまた会いたい。喧嘩はしたけど、すぐに仲直りしてやる。今はただ、彼の元へ帰りたかった。


「もう間に合わないかもしれないけど、あの人が待ってくれているかもしれないんです。私は元の世界で会わなきゃいけない人がいるから、だから……」


 あの人の顔が見たい。

 あの人の後ろ姿に頼りたい。

 あの人の雰囲気の中にいたい。


 ちょっとの間かもしれないけれど、離れてみて分かった。

 香乃は彼のことが好きだ。嫌いになんかなれない。


「大変失礼なのは承知しています。でも、すぐにでも行かなきゃ、私……」


「分かった。カノさんの気持ちはそれで充分だよ」


 香乃の言葉を遮ったのは、スラスタハルだった。ついさっきまで見せていた宴楽の態度はなく、紳士的な雰囲気が感じられた。


「祭の開始時間も遅れちまってたし、もともとは無理矢理連れてきてたんだ。帰る理由があってもおかしくねえさ」


「スラスタハル……」


「帰りは責任を持って、俺が送り届けるぜ。今度は安全飛行でな」


 そう言って口端を曲げて笑った。


「総指揮官殿。そういう役目は私がしますから……」


 シルゼーロマが代役を担おうとすると、


「お前はそこまで仕事熱心にならなくていいんだよ。それとも何だ、俺の楽しみを奪う気か?」


 スラスタハルはいたずらっぽい笑顔で返した。


「いえ、そのようなつもりでは……」


 困ったふうにシルゼーロマは口をつぐむ。


「まあほら、お前は普段からクソ真面目なんだから、こういう時ぐらい羽目を外しとけよ。今年は逢い引きの相手もいることだし」


「「ブッ!!?」」


 イズとシルゼーロマが同時に吹き出した。


「なっ!何を言っているんですか!私がこんな奴と逢い引きなど……!」


「そうだよ!シルゼーロマが困るようなこと言うなよ!」


「い、いや、困るというかな、私は、その、ただ……」


「えっ、な、何?な、なんでそんな下を向いてるんだよ……?」


 イズが窺い、シルゼーロマがわずかに面を上げる。そこで一瞬だけ視線が合うと、二人とも恥ずかしそうに顔をそらしてしまった。


「おやおや、二人はアツアツだな」


「ほんと、お似合いですねえ」


「俺もそろそろおじいちゃんって呼ばれるんだろうなあ」


 策士に嵌められたイズとシルゼーロマはあれこれと薄っぺらな言い訳を並べて反対してくるが、すでに耳に入らなかった。

 香乃とスラスタハルは意に介さず、本題を進める。


「さてと、カノさん、帰ると決まったのはいいが、いつにする?」


 元の世界に戻る時期を質問され、香乃は即答した。


「できれば今すぐにでもお願いしたいんです。少しでも早いほうがいいので……」


「よっしゃ、そうと決まれば話は早いな」


 そう言うと、スラスタハルは手を差し伸べてきた。


「俺の背中に乗りな、カノさん」


「ええ、よろしくお願いします」


 言われるがままに手に近づくと、スラスタハルは香乃の体を持ち上げ、自分の背中に乗せた。イズの背中に同じように乗せてもらったが、どこか手慣れているためか乗りやすかった。

 スラスタハルの首に掴まりながら、二人の天竜族のほうを向く。


「シルゼーロマ、私とイズを守ってくれてありがとう!イズのこと、立派に鍛えてあげてね。あんまりケンカばかりしちゃダメだよ」


 会って最初の時からずっと献身してくれたおかげで、香乃とイズは無事でいることができた。

 ずっと雄々しく、時には我が身の犠牲もいとわずに、常に前に出てくれていた。

 命の恩人といっていい天竜なのに、香乃とは壁を作らず開放的に話してくれた。感謝してもしきれない。


「私こそ、イズトリカムのこと、感謝しています。本当にお世話になりました」


 シルゼーロマが凛とした姿勢で答える。


 そして、もう片方の人物も。


「イズ、この世界に来てからずっと傍にいてくれてありがとう!君ならきっといい天竜族になるよ!シルゼーロマのこと、ちゃんと守ってあげてねっ」


 何度か心の壁にぶつかっていたけど、悲しい気持ちがあったにもかかわらず香乃のことを心配してくれていた。

 後ろ向きだったかもしれないけれど、小さな一つ一つの思いや行動が香乃を守ってくれていた。

 最後には本音で話してくれたから、ちゃんと心を通わせることができなのではないかと思っている。


「僕、カノに会えて良かったって思ってる!この世界に来てくれて本当にありがとう!帰り道気をつけるんだよ!」


 イズの声は涙で滲んでいた。別れが悲しいのだろう。

 香乃も、本当はもう少しこの世界にいたかった。もう二度と来られないだろうから、天竜族のみんなとたくさん話をしたかった。


 でも、今は何よりも優先して選びたいものがある。他の誰でもなく、自分のために。

 香乃も惜別の思いに駆られながら、しかし絶対に涙など見せまいとし、笑って手を振った。


「イズ!シルゼーロマ!それに、天竜族のみなさん!またね!」


 いつか会えるようにと願いを込めて、別れを告げる。

 力任せに手を振ると、イズ達は香乃の真似をして手を振ってくれた。

 ごつごつした体躯に鋭い爪を持った手で人間のように手を振るなんて、なんて和やかなのだろう。最後の最後までこのドラゴンは笑わせてくれる。


「よーし……行くぞ!」


 スラスタハルのかけ声がかかり、香乃は掴まる腕に力を込めた。

 翼が大きく広げられ、筋が伸びきり、翼膜が全体で風を捉える。

 姿勢を屈ませ、両足の筋肉が隆起し、尾が天を仰ぐ。

 両翼が何度か羽ばたき、ならし運動を行う。風が旋回し、体の周囲に纏っていく。


 程良くほぐれたところで、スラスタハルが深呼吸を一つ済ませる。


「しゅっぱーつ!!」


 大きく広げられた翼が力強く羽ばたき、両足が跳ぶように伸張し、尾が地面を叩く。体が急に重くなったような錯覚に陥る。翼はさらに何度も羽ばたき、空気を掴んでは体を昇らせていく。


 風が全身を拭いていく。イズに乗った時は風の強さと激しい上下運動がつらかったが、今回はそうでもなかった。風を受けることはさすがに避けられなかったが、つらいというほどではない。スラスタハルが飛び方に配慮してくれているようだった。


 自分の気持ちに余裕があることに気づき、香乃は目を開けた。

 すでに空高く舞い上がっている。空には地球とは違う星空が広がり、夜を彩っている。

 眼下には『久厳峰』が広がっている。その頂には天竜族の国がある。


 数時間の滞在だったが、いろいろなことがあった。

 悲しいこともあった。苦しいこともあった。

 だが、それらと同じだけの、嬉しいことと楽しいことがあった。


 天竜の国の一角に、先ほどまでいた集会場を見つけた。そこには天竜族の面々と、イズ、シルゼーロマの二人も見つけた。

 よく見ると、ずっとこちらを見つめ、手を振り続けてくれていた。


 どうかお幸せに。

 二人の幸福を願いながら、香乃はもう一度手を振った。天竜族は夜目が利きにくいほうみたいだが、見えていなくてもよかった。その代わり、この願いが届いてほしい。


「そんじゃ、次元を渡るぜ」


 スラスタハルは出発の合図を出した。


「シルゼーロマのやり方は少々荒かったかもしれないが、俺のは平穏だから心配しなくていいぜ。次元渡航ってのは、正確には“現在所在している世界を変える”って意味でな、安定したやり方なら揺れたり揺さぶられたりすることはないんだよ。周りに他の物質が極力存在しない空間でやるってのもコツなのさ。位置の調整に多少移動することはあっても、基本的には動かねえから」


 そう前置きのような説明をすると、スラスタハルはその場で滞空した。


「それでは、カノ様のおなーりー」


 戯けた合図を言うと、カノとスラスタハルの周りの景色が一気に変わった。見える景色に星空も天竜の国もなく、ただ一色の黒が占めている。一方で、照明はないはずだが、自分の姿やスラスタハルの姿はよく見えた。


「カノさんの世界は………………これだな」


 何も見えない空間でスラスタハルは独り言を呟く。


「位置を調節するから、ちょっとだけ動くよ。まあ、何の障害もないんだけどな」


 そう言って、移動を始めた。今は翼を羽ばたくことなく、姿勢を前に傾けるだけで動いているようではある。周囲が真っ黒であり、空気抵抗も何もないため、今ひとつ実感はない。

 数十秒の時間が経過して、体を元の姿勢に立て直す。


「んじゃ、カノさんの世界に入るぜ」


 合図を終えると、周囲の景色が明らかに変わった。


 見覚えのある星空。

 見覚えのある風景。

 見覚えのある町並み。


 間違いない。

 今、香乃達は香乃の住んでいる町の上空を滞空していた。


 懐かしい気持ちが溢れてくる。帰ってきたという安心感が沸き上がってくる。

 今まで生きてきて、こんなにも自分の町が愛おしいと思ったことはなかった。


「どこに降りようか?カノさんが知った場所がいいんだけど、人間が多い場所だと混乱するからなあ」


 スラスタハルが辺りを見回して、手頃な着陸地点を探していた。

 町の中で人のいないところなど見つけるほうが難しいのだが、多少の目撃は妥協するべきだと思った。


 どうせスラスタハルは元の世界に帰ってしまうし、マスコミが騒いで香乃を追うことがあっても白を切ればオカルトで済む話だ。

 町中で天竜族と陸猩族を大勢の人に目撃されているが、今いる場所は駅前から多少離れているから大きな問題にはならないだろう。


 香乃はスラスタハルに場所を指定し、目的地の最寄りの駐車場に向かってもらった。駐

 車場なら開けているし、人がいなければ問題ない。それに、指定した駐車場は恋人の住む場所にも近い。


 スラスタハルは指示通り移動し、すぐに目的地の上空に到着した。

 翼を優雅に動かし、ゆっくりと下降していく。途中で気圧の変化で耳が痛くなったが、地上に到着する頃にはなくなっていた。


 集合住宅の最上階よりも下がり、電柱のてっぺんが触れるような高さになり、程なくしてスラスタハルは駐車場に足を着ける。降り方に気をつけてくれたようで、着地時の音は予想以上に響かなかった。


 スラスタハルに抱えられて、香乃は彼の背中から降りた。久し振りの地球の地面。コンクリートを踏むその感触が妙にしっくりする。


 香乃はここまで送り届けてくれたスラスタハルを見上げた。


「ありがとう。何から何まで。スラスタハルのような天竜があの世界にいてくれてよかったって思ってます」


「お褒めに与り、光栄です……なーんてな」


 スラスタハルは戯けてみせるが、すぐに表情を苦笑へと変える。


「カノさんにはもう少し楽しんでもらいたかったんだがな、せがれの世話でとんだ迷惑をかけちまったって申し訳なく思ってんだ。……すまねえ」


 柄にもなく謝罪の言葉が出てきて、香乃は笑顔で答えた。


「そんなことありませんよ。むしろ、イズやシルゼーロマに会えましたし、行ってよかったって思ってます」


「それならいいんだがな。……今回の件で、イズトリカムはカノさんのおかげで助けられた。たった一人の息子を更正してくれて、俺は感謝しきれない思いでいっぱいなんだよ。今年の招待客がカノさんで本当によかった。息子ともども礼を言わせてくれ。……ありがとう」


 スラスタハルは真剣なまなざしで謝礼を述べる。


 確かに、イズとぶつかったり、陸猩族に追い回されたりと、思えば酷くて面倒くさい渦中にいた時もあった。時には命すら危うい場面もあった。

 しかし、イズに会い、シルゼーロマに会い、様々な人物に会い、感情同士で言い合い、自分の本音を再確認し、普通の人ではまず体験できないことをたくさん経験した。

 これがなぜ迷惑だといえるだろう。


「天竜族のいる世界に行くことができて、私はかけがえのない思い出が作れました。今年のお客さんに私がなれて、本当によかった。私を選んでくれたスラスタハルにも感謝していますよ」


 偽りのない感想を言われたスラスタハルは、心配そうな顔をぱっと晴れさせた。


「そう言ってくれちゃ、今年の祭は大成功だな!」


「ふふっ、そうですね。また誘ってくださいね?今度はいきなりじゃなくて紳士的に!」


「わはははっ!誘うのはいいけど、あとのは難しい注文だぜ!」


 駐車場に二人の笑い声が響く。近所迷惑になっているかもしれないが、笑わずにはいられなかった。


「それじゃ、そろそろお暇するかな。誰かに見つかっちゃ大変だ」


 言うや否や、スラスタハルはその大翼を羽ばたかせ、すぐに離陸した。

 民家の屋根と同じくらいの高さまで飛ぶと、そこで振り返った。


「今年の招待にお越しいただいて、ありがとうございました。またいつの日かお会いしましょう」


 初めて聞くスラスタハルの丁寧な挨拶に、香乃はちょっとだけ吹き出した。

 もしかしたら本当に紳士的にしてくれているのかもしれない。


「スラスタハル、その言葉遣いは似合わないよ!」


「けじめだっつの!けーじーめー!」


 つっこむと、いつものスラスタハルの返事が返ってきた。


「それじゃあな!」


 別れの挨拶とともに、スラスタハルは手を振った。こっちの世界の挨拶を覚えてくれたらしい。香乃もそれに応える形で手を振った。

 スラスタハルはどんどん上昇し、月と重なるまで飛ぶと、まるで雪が溶けるように消えていった。


 振っていた手を下ろし、香乃は空に向かって言った。


「じゃあね。ありがとう……」


 香乃は深呼吸をして、気持ちを切り替えた。

 これからが自分にとっての本番だ。

 彼から本音を聞き出さなければいけない。

 彼と本音で言い争わなければいけない。


 恐怖はあると思うが、今の香乃には勇気のほうがたくさん持っている気がした。

 話さなければ分からないことがある。話してみて分かった実例を思い浮かべて、自分もそうなれるようにと胸に手を当てた。


 世の中は難しいことが多いだろうけど、思っているほど小難しくはないと信じる。

 人と人との関係に言葉は必要不可欠なのだ。


 できることを全部やろう。

 なりたい理想を叶えよう。

 できることなら誰かと一緒に実現しよう。


 思い描く自分の夢に嘘をつかず、そのために必要なことを挙げて、

 そして、香乃は思い人の住む場所に向かうため、駐車場をあとにした。


          FIN


こんにちは、作者の甘森礎苗です。


この度は『夕闇のいざないと鬱ドラゴン』をお読みいただき、おつかれ様でした。

去年の2月に連載を開始し、ようやく完結させることができました。いろいろと試しながら、時には仕事に阻まれながら、構想をほとんど立てないままの見切り発車でしたが、いかがだったでしょうか。


予想ではもっと短い話のつもりだったのですが、書きたいことをだらだら並べていったら、気づけば文庫本サイズ(42文字×17行)で380ページという長編に…。これはもう誰かにダイビング土下座したくなります。


更新しては読んでいただいた方、お気に入り登録、ブックマークで愛読していただいた方、たまたま目が留まって興味本位で読んでいただいた方、本当にありがとうございました。お世辞にも多いとはいえない閲覧数でしたが、なければ続けられない作品でもありました。この場を借りてお礼を申し上げます。もしよろしければご評価・ご感想をいただけると幸いです。次の作品に活かします。

どうもありがとうございました!

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