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郷に従わざるは業の道

 猛烈な勢いを保ったまま、シルゼーロマは交差点を曲がった。

 陸猩族に距離を詰められないよう、シルゼーロマは可能な限り速度を上げている。しかし、上げすぎると今度は道路を曲がれなくなってしまう。陸猩族に追いつかれず、かつ方向を変えられるぎりぎりの中間点を意識して飛んでいた。


「後ろの様子は分かりますか?カノさん」


 町中を滑空しながらシルゼーロマが尋ねる。

 香乃は肩越しに後方の様子を見る。


「……距離はだいたい同じくらいだけど、ぴったりついてきてるたいです」


「やはり、そう上手くは撒けませんか……流石は陸猩族ですね」


 現状を知り、シルゼーロマは敵ながら天晴れと言いたげな感想を漏らした。


「私達、無事に逃げ切れそうですか?」


 今度は香乃が尋ねる。その声は不安を含ませていた。

 シルゼーロマは、気遣いは無駄に不安を煽るとして、現状を冷静に捉えた自分なりの考えで答えた。


「……正直なところ、現状は厳しいです。進退のない逃走は体力的にも精神的にも負担をかけます。数は向こうの方が圧倒的に有利と考えると、このままではいずれ追いつかれるでしょう」


「そんな……!」


 香乃はショックを受けた。

 こんなにも必死なのに、いまだ不利の立場から脱出できていない。なによりもシルゼーロマが一番頑張ってくれているのに、このままではその努力も無駄になってしまうというのだろうか。

 香乃の絶望的な心情を尻目に、シルゼーロマは根拠を付け足す。


「陸猩族は五感を含め、身体能力が驚異的に発達しています。腕力は私たち天竜族より高いですし、薄暗い陸地で生活する彼らは目も耳も遥かに優れています。私たちが逃げ切れるかどうか、運に頼らざるを得ません」


 陸猩族には天竜族のような飛行能力はなく、火炎放射能力もない。その代わり、余るほどの運動能力を持ち、研ぎ澄まされた五感を駆使している。暗黒の広がる夜を自由自在に移動できる所以だった。


 陸猩族の能力の高さを聞いたイズは、望みを捨ててしまいそうな気持ちになった。向こうは精鋭が多数。対してこちらは単体。しかも移動を任されるシルゼーロマは自分や香乃を連れているせいで、本来の動きを出せないでいる。


 自分さえいなければ……。

 どれだけシルゼーロマの負担を減らせていただろうか。

 そう考えざるを得なくなる。


 一方、香乃は全く別のことを考えていた。

 現状が不利であることは分かっている。それをどうすれば打開できるのか。シルゼーロマの背中に乗っている間、そのことばかりをずっと考えていた。


 イズは自分を助けるために無茶をしてくれた。シルゼーロマも、まだきちんと顔を合わせて挨拶していない関係だというのに、イズと一緒に必死で守ろうとしてくれている。

 このままでは自分の気が収まらない。今の自分にできることはないか。そのことばかりを考えていた。


 そして、見つけた。


 イズにもシルゼーロマは知らないこと。イズとシルゼーロマにはできないこと。イズとシルゼーロマを手伝えること。

 香乃は思いつき、早速実行に移すことにした。




 気に障る。


 ビルとビルの間を抜けながら、追尾するノルバノは胸中で悪態をついていた。

 追跡を続けて、人間という種族が住まう世界まで追うことができたのは良かった。しかし、奴らとの距離を一向に縮められずにいた。


 慣れない環境であることは間違いないが、決して初めての世界でない。今同胞の手に持っている物の一部はこの世界から奪取してきたものだ。奪取する際、この世界の文明がどのようなものなのか簡易的に調査を済ませてもいたので、ある程度の慣れはある。

 しかし、この世界にも国という境界があることを失念していた。境界がある以上、国際的な交流がどの程度行われているかによって文明も文化も差が生じることがざらにある。今回は差がある代表例だった。


 通路は人工的に舗装され、至る所に驚異的な高さを誇る家屋が軒を連ねている。自分たちの世界の樹木ほどではないが、中にはそれに匹敵しうる高さを持つものもある。一度の跳躍で飛び越せないことが多く、こちらの動きが大きく制限されてしまっていた。


 初見の側にとっては悪条件が揃っているようにも思えたが、道が舗装されているという点についてはこちらにとって不利とはならなかった。

 町並みを見ると、道の曲がり角はほぼ直線か直角に作られており、進む方角を限定していた。上空からの偵察隊の話によると、詳細な点を挙げればキリがないが、ほぼそのような作りになっていることで間違いなかった。


 シルゼーロマ嬢は“お荷物”のせいで高度を上げることができない様子だ。ならば、逃走経路を推理し、包囲網を張れば追いつくことが可能だと考えていた。

 しかし、現状では小康状態が続いている。これはおそらくシルゼーロマ嬢がこちらの推理した逃走経路を読み、間一髪で包囲網を抜けているためだろう。


 細かく道を変えたり狭い道へ入ろうとしたりと、こちらを撒こうとする挙動が窺える。だが、それ以上の撹乱は見られず、ただ惰性的に逃走している。

 どこか決まった場所へ向かおうとしているのかもしれないが、先程から進行方向を頻繁に変えており、決まった方角を進もうとしていない。

 遠回りか、道を見失ったか、時間稼ぎか。いずれにしても、長時間の飛行はシルゼーロマ嬢の体力を消耗させる。狙いもなくあのような逃げ方をするのは愚策としかいえない。


 この世界はどうやらあの異世界の住民の出身地のようだ。先程からシルゼーロマ嬢と何かを言い合っている。

 見知らぬ土地で逃走するなら、あの無力な種族では意見することは無いだろう。通る道筋は全てシルゼーロマ嬢が決めるはずで、あのように言い合うとは思えない。異世界の住民の知る世界だと推定するのが自然だろう。


 問題は、この土地を知る者が何を目論んでいるかだ。我々から逃げるためにどのような手段を取るのか、予想しなくてはならない。

 あの睡蓮をわずか数分で無効化した種族だ。単に体質的に抵抗力が強かっただけかもしれないが、その潜在能力は計り知れない。

 自分たちを退けるために何を考えるのか、至難だが推測しなければならない。


 逃走しながら反撃してくるか。否、この世界の文明を鑑みるに、容易に闘争を起こせる社会ではない。どの住民も闘争意識に欠けているし、咄嗟の状況判断も鈍い。自ら脅威に立ち向かおうとする者は見られず、皆安全な場所へ避難することに躍起になっている。破壊行為や殺傷行為は避けるだろう。


 罠に誘導しようとしているか。否、逃走するので精一杯なはずだ。身体能力に雲泥の差がある我々を嵌めるほどの罠を準備できはしない。


 この世界の住民の協力が来るのを待っているか。否、我々がこの世界に来たのはつい先刻だ。目の届きにくい高所を使うようにしているし、目撃された地域も広くはない。それにこちらは常に移動しているから、協力者がいたとしても合流することすら困難なはずだ。


 当の本人はシルゼーロマ嬢にしがみついているのがやっとの様子であるし、テレパシーでも使えなければ連絡など取れない。この世界の住民がそれを使う種族ではないと確信している。

 テレパシーを使用する種族は、総じて口数が少ない特徴がある。意思の疎通に発声は不要だし、中には声帯そのものが退化して声が失われた種族もあるくらいだ。


 あの異世界の住民と一度会話したが、その特徴に該当する種族ではなかった。この世界は我々と同じく、発声による意思疎通を用いている。

 その種族が短時間で大勢の仲間に連絡を取るなど不可能だろう。


 何を画策しているのかは予想しきれない。だが、猶予を与えすぎるとこちらの不利に繋がることは間違いない。

 ならば、早々に決着させるのが得策だ。


 シルゼーロマ・エンテッフォ。流石は天竜族きっての天才、我等が族長が一目置いているだけのことはある。若くして天竜族首長の補佐の地位に就いた実力は伊達ではないらしい。ここまで逃げ切ってきた貴女を賞賛する。

 だが、舐められていては困る。こちらも陸猩族を代表する精鋭揃いだ。すぐにけりをつけてくれよう。


 全く、気に障る。




 香乃達は現在、駅へ繋がる大通りを飛んでいる。この辺りは整備された町並みなので、体の大きいドラゴンが翼を広げてもぶつかることはない。また、方角的には都心へ向かっているせいか道路も広く設計されてある。それでも渋滞になる時はなるのだが、空を飛ぶ側にとっては好都合だった。


「あー!また通り過ぎちゃったじゃないですかっ!ちゃんと曲がってって言ったのに!」


「仕方がないでしょう!どこを曲がればいいのか分からないんですから!」


 香乃とシルゼーロマは喧嘩をしていた。

 二人が怒っているのは、香乃の指定した曲がり角をシルゼーロマが曲がらずに通り過ぎたことが原因だった。

 シルゼーロマが遠慮なく速度を上げているので、建物が目で追えないほどの早さで後ろへ流れていく。しかし、シルゼーロマはいつでも方向転換できるように制御して飛んでいるため、速力が曲がれなかった原因ではない。


 では何が原因かというと、


「だって、吉野家の所って言えば普通分かるじゃないですか!看板にも書いてあるし!」


「ヨシノヤなんて知りません!それとこの世界の文字は読めなんですよ私達は!」


 香乃の案内が地球で使われる名称に依存しているからだった。

 ちなみに先ほど交差点を曲がったのは、香乃の予定していた場所に曲がることができなかったために取った妥協案である。


「シルゼーロマ、たぶんアレじゃないかな、道のあちこちに生えてる蛙手カエルデの木のことじゃ……」


 長らく大人しくしていたイズが口を挟むが、


「違うし!誰でも知ってる牛丼屋の全国チェーン店だし!ていうかマニアックな草食系の無駄知識なんか道案内に使うか!」


 火に油を注いだだけだった。


「とにかく!早く大通りから離れたいんですから次はちゃんと曲がってくださいね。あと四つ先の信号を右に曲がりますから」


「ですからカノさん!シンゴウって何なのか教えてください!」


「ああもう、めんどくさいなあ!」


 次元規模のカルチャーショックのせいで思うように話が進まず、香乃は地団駄を踏みたくなった。

 予定している道順ではないが、シルゼーロマが飛ばしているおかげでまだ陸猩族に追いつかれてはいない。彼女によるとすぐそこまで距離を縮められているそうだが、香乃には彼らの姿が見えない。


 時間の経過とともに夜の町の光が強くなっていく。すでに室内灯は落ちているが、町並みも商店もデパートや商店が増え、人や車が多く行き通うようになっている。間違いなく駅のほうへと近づいている証拠だ。

 駅を通り過ぎる頃が勝負所だ。そこでどう動くかで陸猩族に後れを取らせられるかどうかが決まる。


「シルゼーロマ、確認しますけど、さっきの話は本当なんですね?」


 香乃は勝負所に着く前にシルゼーロマに話しかけた。香乃の計画通りに進めるには、シルゼーロマから聞いた情報が正しくなければならない。仮に一部でも間違いがあるなら、香乃達だけでなく駅にいる人達全員を巻き込むことになるかもしれない。

 計画を無事に進めるには、シルゼーロマの情報と香乃の解釈に語弊をなくす必要があった。


 香乃の問いに、シルゼーロマは答える。


「本当です。彼らにも誇りがあるように、犯してはならない禁忌も存在します。次元を渡り、異世界に干渉できる側の者として遵守しなければならない当然の規則なのです。例外はありませんし認められません」


「うん、それなら大丈夫です」


 情報の再確認ができたところで、香乃は計画通りに進められることに安堵する。

 それに心配がないとすれば、残された不安要素はあと一つ。


 香乃は駅に着く前までに、イズとシルゼーロマにこの世界の常識を叩き込むことにした。




 イズとシルゼーロマに道路交通に関する説明を簡単に済ませた香乃は、


「あーもう!!電線じゃまー!!」


 町中に張り巡らされている送電線に悪態をついていた。


「邪魔なら切りましょうか?あれぐらいなら少しの火で焼き落とせますが」


「やめなさい!!このへんが一遍に停電しちゃうっての!!」


 やはり天竜族の感覚はどこか違う。


「もー!!なんでそんな乱暴なことしようとするかなあ!!」


 考え方の違いを知ると、この町の命運は香乃の手にかかっているような気がした。


「ところで、カノさん」


「何?」


「どうして先程からそんなに声を張り上げているのですか?」


 つい先程から、香乃は人が変わったように騒ぎ立てている。いや、声を上げるのは変わっていない。そこは訂正する。

 おかしさを感じたのは、意味もなく喚いていることだ。冷静さなど欠片もなく、がむしゃらにうるさくしているだけに見える。


 シルゼーロマの指摘に、香乃は不敵な笑みを浮かべた。


「確信しているわけじゃないんだけどね……」


 そう前置きを置いてから、悪戯っ子のように口元を歪めながらシルゼーロマに囁いた。イズも耳を傾ける。


「……――」


 香乃の目論見を聞いたイズとシルゼーロマは、目が点になった。


「そ、そんなことが起きるんですか?」


 シルゼーロマは香乃の予測する現象を簡単に信じられないでいた。


「別に特別なことじゃないですよ?今時大人になれば持っていないほうが珍しいですし」


「…香乃もできるの?」


 イズが遠慮がちに聞いた。もしできなければ不躾なことを言ったと心配だからだろう。

 香乃は風ではためく上着の、ポケットの中にある重みを確認した。


「うん、できるよ。今はしがみつくので手一杯だけどね」


 そう答えて、あはは、と苦笑する。


 一方、イズとシルゼーロマの内心は、それぞれの理由によって穏やかではなかった。


 特にシルゼーロマは、今まで往路で香乃の指示に従えず、陸猩族を撹乱できなかったことを後悔した。

 香乃の指示通りに動けていれば、もっと早くこの事態に対応できていた。

 それほどの打開策を、香乃は身につけていた。


 天竜族よりも素早く動けず、空を飛ぶこともできない異世界の民を、侮っていたのかもしれない。長時間逃走を続けていたせいか、逃げきれるかどうかは自分にあると思い込んでしまっていたのかもしれない。

 シルゼーロマは己の過信を恥じた。


 イズはこんな時にでも何もできない自分自身が恥ずかしかった。

 シルゼーロマは追いつかれまいと必死で飛んでくれ、香乃は逃げ切るための妙案を提案している。


 それに比べて、イズは何をした?空も跳べず、何の考えも出さず、香乃とシルゼーロマに頼り切っている。ただの負担でしかない。

 こんな時でさえ何もできない自分が腹立たしい。


 せめて飛べれば。

 本当にそう思う。


 僕がいないほうがいいんじゃないか?

 そういう言葉で、どうしようもなく聞きたくなる。


 でも、それを言ったあとの香乃とシルゼーロマの返事が怖い。表情が怖い。どんなことを言われて怒られるか分からない。どのような悲しい顔をするか分からない。

 そんな気持ちにさせるために言いたいんじゃない。

 真剣に、今の状況を見て考えたイズなりの打開策なのだと主張したい。


 言えるだろうか。

 勇気を出せるだろうか。


 イズは一つ深呼吸をして、声を出した。


「……あのさ、」


「イズトリカム」


 言おうとした矢先にシルゼーロマに名前を呼ばれ、肩が跳ね上がった。

 読まれたのだろうか。今から自分が言おうとしていることを。そして、何も聞かずにそれを叱責するのだろうか。


「一緒に吠えるぞ。協力しろ」


「…………え?」


 今度こそ予想外なことを言われ、イズは思考が停止した。


「要は、できるだけ広い範囲の人間の方々に、私たちの存在を知らせればいい。ついでに言えば、予想しやすい方向へ私たちが向かっていけばいい。そうですね?カノさん」


「はい。そういうことです」


 香乃が肯定する。


「そういうことだイズトリカム。事態は一刻を争う。さっさと実行するぞ」


 シルゼーロマの目はすでに決意が固まっていた。

 それに比べて自分はいつまでおろおろと迷っているのだろうかと、イズは卑しい気持ちになる。が、それも一瞬だけで、すぐに言われた依頼を全うしなければならないという気持ちに切り替わった。


「いくぞ。……カノさん、合図を」


「う、うん…!」


 シルゼーロマの鶴の一声により、イズとシルゼーロマは大きく息を吸い込む。


 限界近くまで吸い込んだと頃を見計らい、


「いくよ……せーのっっ!」


 香乃の合図により、二者は肺から空気を押し出した!




 グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンン!!




 全身全霊をかけた二者分の咆哮は、香乃の町全域に鳴り響いた。ビルのガラスは戦慄し、コンクリートで固められた道路さえ震え上がり、誰もが不意に夜空を見上げては不安に駆られた。


 夜の日常を切り裂いた絶叫は人々の視線を空に向けさせる。仰ぎ見る人の一部に、町の光で星の見えなくなった夜空に大きな影が過ぎるのを目撃した。

 非日常的な現象に遭遇した人々は、我先にとその場を逃げ出し、少しでも安全な所へと向かう。

 逃げるだけでいっぱいいっぱいな者もいれば、ある程度精神的に余裕を持つ者もいる。余裕のある者は、皆共通して懐に手を探り入れた。


 取り出したのは携帯電話だった。


 異常な現象を発見した場合、報告するのが住民の義務だ。義務付けられていることを知らなくても、対抗機関に対処を依頼することは幼少から教育づけられている。

 対抗機関というのは、警察機関だ。携帯電話を取り出した大半は緊急通報『一一〇』を押し、中には回線の混雑を予想して警察相談専用電話『♯九一一〇』を押し、現状の報告と対処を依頼する。


 警察機関の中央窓口では、住民からの電話対応に追われていた。この一時間のうちに内容の一致する報告が多数寄せられており、今もなお報告が途絶えることがないのだ。

 場所も同じ。翼を持った巨大な影も同じ。恐ろしい鳴き声も同じ。そして、住民全員が恐怖に陥っていることが推察された。


 初めは報告される数もさほど多くなかった。「巨大な影が飛んでいる」というオカルト紛いな報告で、警察も対応するかどうか腕を拱いていた。

 しかし、この数分間だけで同一と思われる報告が爆発的に増え、半信半疑のまま対応することを決定した。


 まずは現状を正確に把握するため、現場に最も近い派出所から捜査官を派遣した。

 報告を受けたパトロール中の警察官はサイレンを鳴らし始め、中央管理室からの報告を聞きながら標的の向かっている場所へと向かった。




 あまりの大声だったので、香乃はまだ耳鳴りが続いていた。

 イズとシルゼーロマの巨大すぎる咆哮から五分ほどが過ぎた。まだ香乃の予想した展開にはなっていない。


 シルゼーロマは速度を落とさないように頑張ってくれている。だがスピードを落とさなかった結果、人口が密集する駅まですぐに到着してしまいそうだ。それまでには何とかしたいのに、まだ町に変化はない。


 最近は緊急性のない通報が増えているらしく、到着まで時間が遅くなっているのかもしれない。

 いや、そもそも目的のものが飛んだり跳ねたりして非常識な速さで移動しているからかもしれないが。


 このまま何も起こらなかったらどうしよう。

 香乃の脳裏に一抹の不安が過ぎる。


 その時、今までにない音が耳に届いた。

 飛行して風切る音で包まれる中で、香乃はサイレンの音を聞き取った。本当に来てきれるか不安になったが、確かに期待した物の音を聞いた。


 香乃は後ろへ振り返る。

 自分達の後ろには、陸猩族がぴったりと追って来ている。そのまた後ろには、夜の街中で点滅する赤いライトを見つけた。

 ライトの持ち主であるパトカーから、騒々しいほどの大音量で緊急避難勧告が放送される。


『パトカーが通ります。道をあけてください。市民の皆様は、付近の警察の指示に従い、安全な場所へ避難してください』


 その音が町中に響いた瞬間、追尾していた陸上族が一斉に転倒した。


「があああっ!!」


 音に堪えられなかった陸猩族の一行は苦しそうに耳を塞いでいる。

 予想していたよりも高い効果に、香乃は唖然としてしまった。


「お見事」


 シルゼーロマが短く称賛する。


「……なんか、かわいそうなくらい効いちゃったみたいね」


「そ、そうだね……」


「まあ死にはしませんし、今まで攻められた分、あれぐらい効いてもらわないと」


 香乃の素直な感想に、イズは同意し、シルゼーロマはさりげなくねちっこいことを言う。

 シルゼーロマから陸猩族について詳しく聞いた際、香乃は気になる証言を聞いた。


(「陸猩族は五感を含め、身体能力が驚異的に発達しているのです。腕力は私たち天竜族より高いですし、薄暗い陸地で生活する彼らは目も耳も遥かに優れています。私たちが逃げきれるかどうか、運に頼らざるを得ません」)


 一見自分達が不利であることの証左でしかない情報だった。


 しかし、香乃は偶然にもひらめいた。

 自分達だけではどうにもならなそうなら、周りの人に協力してもらえばいい。

 大騒動を起こせば、おそらく国家機関が動くだろうと踏んだ。


 都合よくも、現在地は香乃の地元だ。社会の仕組みならイズやシルゼーロマよりも詳しい。

 そう考え、香乃はできるだけ大きな声で叫んで、より広範囲の人に気づいてもらおうとした。


 結論から言えば自分よりもイズとシルゼーロマのほうが効果があったようだが、結果オーライというやつだろう。


「小癪な……!」


 派手に転倒したノルバノは苦虫潰したような顔をしながら起き上がった。敵の奇策によって無様な格好をさせられ、ノルバノの一族の誇りを侮辱されたような気持ちになった。


「異世界の民の分際で、我等を愚弄するのかあ!」


 体勢を立て直した陸猩族はすぐに追跡を再開する。


「あちゃー。怒らせちゃったみたいね」


「左様ですね」


「うわ……どどどどうするんだよ……!」


 香乃とシルゼーロマは呑気に見ており、イズだけ焦っていた。


「できればもうちょっと寝ててくれると、こっちはゆっくりできるんだけどな」


 さてどうしようか、とシルゼーロマが傾斜をつけて交差点を曲がりながら、次の案を考えようとした時だった。


 反対側の角から別のパトカーが疾走してきた。別経路から追跡していたほうが合流してきたようだ。

 パトカーは可能な限りの速度を出して、自分達に追走してくる。


 その必死な走り方を見て、香乃ははっと気づいた。


 思えば、イズやシルゼーロマはこの騒動の根本原因だ。陸猩族の妨害はそのおまけでしかない。

 今の警察には、天竜族は恐ろしい怪物にしか見えないだろう。


 日本は拳銃の使用に対して使用の妥当性とか傷害した場合の責任問題とかにうるさいくらい問い詰められるから消極的だ、とは聞いたことがある。

 だが、もしも発砲してきたらどうしよう!?


 香乃の頭に最悪の展開が浮かんでしまった。ここまで事が起きてから、危険性を考えていなかった自分の浅慮を恥じた。


「シルゼーロマ!急いでパトカーから逃げて!」


「カノさん?」


 香乃の一変した様子に、シルゼーロマは首を傾げる。


「いいから早く!じゃないと……!」


 理由を説明しようとパトカーへ振り向いた香乃は、ぎょっとした。

 すでにパトカーの助手席の窓が開けられ、警官が身を乗り出している。


 香乃は一気に青ざめた。脳内で最悪の流れが想像される。発砲してきたらどうしよう。弾がイズかシルゼーロマに当たったらどうしよう。自分に治せるのか。医者に頼むことなんかできるのか。そんなことになったら陸猩族から逃げきれるのか。


 助手席の警官が片手で掴まりながら、もう一方の手で何かを取り出そうとしている。


 どうしよう。どうしよう!

 どうすればいい?どうすればいい?どうすればいい?どうすればいい?どうすればいい?

 どうすればいいの!?


 パニックに陥った香乃に構わず、警官は片手を外に出そうとしている。香乃にはその動きがひどく緩慢に見える。

 警官が取り出した物から、


 音が発した。




『君!大丈夫かー!』


 警官が持っていたのは、携帯型の拡声器だった。


 警官は取り出したそれを口元に当て、必死に香乃に声を張り上げている。ついでに「キーン」とハウリングも起きて、周囲に迷惑極まりない音を撒き散らしている。

 香乃は全身全霊で脱力した。自分が心配したのは一体なんだったのか。


「カノさん、呼ばれているようですが、答えなくて宜しいのですか?」


「……うん、ちょっと無視したい気分なの」


 焦りで前進から吹き出ていた汗が、今では風に吹かれてやけに寒い。


 陸猩族はどこまで来ているだろうかと思い、何気なく後ろを向いてみた。すると、陸猩族はまたもや転げ回っていた。

 拡声器の音も陸猩族にとっては堪えがたい高音らしい。


 それに気づいた香乃は、にたりと不気味な笑みを浮かべる。己の内に眠る小悪魔が目を覚ました。


「イズ、シルゼーロマ、ちょっと大声出すね」


「分かりました、どうぞ」


「う、うん、いいよ」


 両名からの承諾をもらった香乃は、大きく息を吸い込む。肺に目一杯の空気を取り入れると、一気に押し出すと同時に声を乗せる。


「助けてーっっ!!」


 香乃は自分が出せる精一杯の声量で張り上げた。


「いやー!お願い!早く助けてー!!」


 イズとシルゼーロマは、香乃の叫ぶ内容に驚きを隠せなかった。香乃の世界の住民に助けを求めたのだ。


 自分達といることは苦痛だったのだろうか。いや、香乃は天竜族と知り合ってまだ半日も経っていない。今まで何事もなく接することのほうが不思議だった。

 積み重なった壮絶な経験が香乃を精神的に追い込んでしまったのかもしれない。


「カ……カ、ノ?」


 イズは不安で堪らなくなり、声を震わせながら名を呼ぶ。

 自分達から離れようとしている香乃の言動は、裏切られる気持ちにさせる。


 両名の胸中を何となく察した香乃は、声の音量を元に戻して付け足すように言った。


「ああ、これ演技だから。本気にしちゃダメだよ?」


 本音を聞くと、自分達の予想が容易く外れたことで、別の形で裏切られた気持ちになった。

 香乃の狙いが何かは知らないが、彼女の言動に一喜一憂している自分が情けなくなった。


 イズとシルゼーロマが憮然とした表情になっている間も、香乃は大声を出し続けている。

 すると、香乃の声に追跡していたパトカーが反応した。


『大丈夫かー!?今助けるからな!そのまましっかり掴まっているんだぞ!』


 香乃の身を案じる警官の声が夜の町中に響く。拡声器を持っていた助手席の警官は一度車内に体を引っ込ませ、中に設けられてある無線機で何かを報告している。おそらく謎の飛行生物に人が乗っていることと応援要請の報告だろう。


「あれ?戻っちゃった。もうちょっと言い続けててほしかったんだけどなー」


 香乃の独り言にイズとシルゼーロマは首を傾げる。


「カノ、何を狙ってたの?」


「陸猩族のみんな、拡声器の音も苦手みたいなの。キーンって鳴る音もね。だから、あの警官に拡声器をもっと使ってほしくて大声を出してたわけ」


「カクセイキって、あの変な形の道具かな?凄いね、こんな小さな物からあんなに大きな音が出せるなんて」


「でしょ?もっと人間を褒めちゃって!」


 両名はすでに感嘆していた。


 一方、


「足止めは上手くいったようです。あとは、このまま逃げ切れればいいのですが……」


 シルゼーロマだけは懸念を拭えなかった。




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