ファンタジック・風のいたずら
「いいか白井、仕事にはな、忘れちゃならない心構えってもんがあるんだ」
黒木は隣で一緒に飲んでいる部下に話しかけた。
二人は今、屋台で構える飲み屋に寄っていた。この店の席は少なく、外付けの延長席などないから五人ほどしか座れない。しかし、駅から離れているため徒歩でわざわざ寄りに来る人間は少ないので、二人ほどの人数なら席を取りやすい。出す酒や料理も悪くはないので、知る人ぞ知る都合のいい店である。
今日の仕事も終わり、あとは家路に着くのみとなった黒木だが、たまには部下を連れて同じ酒を飲んでみたくなった。
そこで、部下である白井を誘い、この店で同じ酒を飲んでいるのである。
黒木は積極的に酒を飲み下し、白井にも半ば無理矢理飲ませ、いつしか二人は互いに顔を真っ赤に染めていた。
仕事を忘れ、疲れを癒すために束の間の享楽を味わう。それが明日の仕事への活力になりもするのだと知っている黒木は、白井にもそれを知ってほしくて飲ませていた。
説教でも始めるような切り出し方をしたものだから、白井は一瞬身を縮ませる。だが黒木はすでに酔っていたので、特に気に留めずに口が動くままに話を続けた。
「上司だろうが部下だろうが、売り手だろうが買い手だろうが、男だろうが女だろうが、世の中を上手く渡るには絶対に必要なことがあるんだ。それはな……」
黒木は今年から営業部の主任を任されている。
いくつかの班に分かれているうちの一つに過ぎないが、三十三歳にしてようやくこの地位まで出世できた。
白井から見た黒木は“堂々とした上司”という印象だった。
決断が早く、行動すると決めた時には班の人間に指示を出している。そのかけ声には迷いが感じられず、白井が入社してからその鶴の一声に何度も圧巻されてきた。
この人について行けば間違いはない。そんな先入観さえ根付いてしまいそうなくらい頼り甲斐がある上司だった。
一方、黒木から見た白井の印象は“期待のできる新人”だった。
白井は黒木班の人員の一人だ。白井は今年入社したばかりの新人で、不況のご時世の中でも実力を買われた若者だ。
度胸や思い切りに物足りなさを感じることはあるが、言葉遣いや態度の丁寧さに好評があり、パソコンなどの機械にも自分より遥かに詳しい。
現代の若者らしさとともに、教育の仕方によって成長の期待できる人材だった。
成長の見込みのある人間に自分の教訓を伝え、頼り甲斐のある人間へ変える一役となる。
もし今日の言葉が白井の何かに良い影響を与えることができるのならば、職場の先輩としてなかなか喜ばしいことではないか。
そう期待を込めて、黒木は自分の経験を踏まえたアドバイスを送る。
「どんな時でも思いやりが欠かせないってことだ。職場内でもそう、得意先との電話の時だってもちろん大事だ。俺たちの会社の利益っていう肝心なところは忘れちゃいけないのは確かなんだけどな、自分のワガママを押しつけるばっかりじゃいけないんだよ。職場内だったら、誰かが困っていたら、自分から気づいてあげて手助けする。その代わり、今度は自分が困ったら無理をしないで手伝ってもらう。先方との交渉の時も同じだ。俺たちの会社の利益のことばかり考えず、相手にもできるだけ利益が出るような話で進めるようにするのがベストなんだ」
無論だが、先方が抱える赤字を一緒に返済していくという意味ではない。共倒れになることが予想できるのなら契約を結ばないのは当然だ。
今教えてもいいのだが、これは経験の量も関係するから言葉で説明しても実感が湧かないだろう。現状は現場の見込み期間でもあるのだから、利潤のノウハウは今後経験を積み重ねると同時に身につけていってもらえば良い。
今は白井がこれから会社のために働く上で基礎となることを教えたいと、黒木は考えた。
「お前はまだ若い。でもな、若いことは力でもある。これからいろんなことを頼まれていくと思うが、自分にとってプラスになる経験だと思って取り組んでみろ。いつでもアンテナを張りながら、いろんな角度の見方を身につけていくといい」
この仕事を選んだ以上は誰でも通る道なのだが、今後自分に降りかかる仕事を案じたのか、白井は一瞬怯えたような目をする。
そんな青い新人を見て、黒木は笑い上げた。
「心配すんな。最初のうちはプリセプターか誰かが一緒にやるから。いきなりお前一人に任せたりはしないっての」
黒木はそんな助け船を出しながら白井の肩をばんばんと叩いた。
少々痛かったが、白井はその手洗いスキンシップに気持ちが楽になったような気がした。
入社してからは毎日のように気を張りっぱなしだった。仕事を早く覚えなければいけないという気持ちと、先輩社員にも気を遣わなければならないという配慮が続き、負担が募るばかりだった。新人のうちは心身ともに追い込むのが当然だと思ってしまい、正直早くも仕事が嫌に思ったこともあった。
だが、こんなふうに自分を気遣ってくれる人が身近にいると分かると、自然と気持ちが楽になった。
気を抜いたという意味ではなく、今よりもリラックスしてこれからの仕事を意欲的に取り組めるようになる気がしたのだ。
いつの間にか、白井の心には黒木に対する尊敬の念が生まれていた。
自分に大切なことを教えてくれた黒木という上司に恩返しをしたい。そのためには、もっともっと仕事ができるようになりたい。
白井は今の自分にできる一番近い恩返しを考えて、それを実現できるように努力しようと思った。
黒木がおもむろにコップを口に運び、白井もそれに倣うように酒を飲んだ。
その時、遠くのほうから怪獣の鳴き声のような音が聞こえた。
町中からは車や歩行者信号から流れる音楽がそこかしこから聞こえてくるが、騒音の中でもはっきりと聞き取れた。
黒木と白井は同時に顔を見合わせる。互いに音の正体が思いつかない。
他の客も同じような様子で、屋台の店主に目で尋ねても首を捻っている。
こうなれば考えるよりも見たほうが早い。
興味本位で音のしたほうを見るため、屋台の暖簾の外へ出る。
刹那。
二人の頭上を巨大なものが飛んだ。
長い首と尻尾に巨大な翼を羽ばたかせるそれは、視界の端から端へ一瞬で飛び抜け、通過する時に暴風をまき散らす。
二人のいるところにも突風が吹き荒れ、屋台の屋根や幟が風で煽られ、コップがいくつか倒れては地面に落ちて割れた。
風が通り抜ける途中、白井は見てしまった。
目を疑うが脳裏に焼き付いたそれは忘れることができなくなっている。
認めたくはないが、事実としてすでに現れている現実。
黒木の頭から髪の毛が飛んでいた。
黒い固まりは風の中を優雅に回転しながら飛び、なかなかの距離を飛んだあとに大きな音を出すこともなく地面に着地した。
目の前で起きたことに白井だけでなく黒木も呆然としてしまい、自分たちから離れた場所に落ちた黒木の男のプライドをただぼんやりと見つめている。
数秒、感覚では何分も経った頃、黒木がようやく我に返り、自分の頭に載っていた物を取りに行こうと慌てて足を踏み出す。
再び突如として何かが頭上を飛び越え、黒木が向く方向へ着地する。ズシンという重い音を出すがそれも一瞬で、すぐに跳んでいってしまった。
跳んでいったものはとても巨大で、成人の背丈を遙かに越えていた。
重量もかなりあるようで、それが踏んだ跡のコンクリートには小さな凹みとひび割れが残っている。
狙ったのかどうかは知らないが、その小さな凹みの中央には、黒木が取りに行こうとしていた男の見栄っ張りが踏み潰されていた。
黒木は目の前が真っ白になった。
一連の流れを見ていた白井は、得体の知れないものが目の前を飛んでいったこと、尊敬していた上司が若ハゲだったこと、彼のプライドが踏み潰されて泥まみれになったこと、それぞれに大変なショックを受けた。
頭が上手く働いてくれないので、目の前で打ちひしがれている黒木に何と声をかければいいか思いつかず、尊敬する人間をただただ見守るしかできなかった。




