ズル、即ち勝つための常套手段
追跡する側として、ノルバノは暗闇の中を駆け抜けていた。
同族を引き連れ、翼ある者に劣るまいとその距離を縮めようとする。
木々の間を縫うように移動する中、ノルバノは考え事をしていた。
自分たちを助けた天竜族の目的は何か。
その一点に尽きる。
捕虜の天竜から渾身の炎を吐き出された時、ノルバノは死を覚悟した。避けても無駄だと悟った瞬間、全身の力が抜け落ちていた。
諦観の念に駆られて矢先に、別の天竜族に助けられた。
天竜族に圧倒され、天竜族に命を救われる。
怨敵を相手に、これ以上の屈辱があるだろうか。
自分たちが歯向かおうとも歯が立たず、借りまで作るなど、ノルバノのプライドが許さなかった。
一方、腑に落ちない点があるのも確かだ。
あとから闖入した天竜族はなぜ我らを助けたのか。
陸猩族と天竜族の中は険悪といっていい。知らぬほうが珍しいだろう。
消し合って当然。殺し合うのが自然。
そう思っていたノルバノには、天竜族の行動の意図が読めない。
目の前とはいえ、敵対する相手が死ぬのを阻止するだろうか。
何か、他に理由があるのだろうか。
……いや、あるに違いない。あるからこそ、敵を助けるなどといった奇行に走ったのだ。
ノルバノはそう考え、ますます逃亡する天竜族を拘束しなければならないと思った。
我ら陸猩族を助けた理由を照明できなければ、自分たちはただ敵に助けられた無力な一族に成り下がってしまう。
それだけは何としても回避したかった。
奴らをこれ以上野放しにするわけにはいかない。
陸猩族の誇りに懸けて、必ず理由を吐かせてくれる。
『全員準備はいいな?今回は特例だ。肆ノ壱を許可する。多少の傷害は構わん。絶対に逃すな』
ノルバノの命令に、一同は短く頷く。
陸猩族の数名が全体より前に出る。
彼らの肩には、先程までは所持していなかった物体が担がれていた。
視界の端で大きな翼が力強く羽ばたく。何度も何度も空気を漕ぐ。
体が上下に揺さぶられる。しかしながら振り落とされたが最後と思い、香乃は必死にしがみついている。
「い、今さらなんだけどさ!どこに行こうか決めてるの!?」
腕に力を込めていたので、声にもそれが伝播してしまった。シルゼーロマの耳元で叫ぶ形になる。
「無論です。策もなく飛びは致しません。それがたとえ敵地でも、です」
対してシルゼーロマは飛行経験が豊富なことを見せつけるように冷静だった。
いい加減に飛んでいるわけではないと思ってはいたが、きちんと目標を定めて進んでいたことに少しだけ安心した。
「で?その行き先っていうのは?」
香乃は当然の疑問を振った。
「もう少し行けば山の麓に着きます。そこから私達の国へ帰還しようと思います」
「……このあたりも麓だと思うんだけど…って、そっか、風向きね」
シルゼーロマの説明に疑問を持ったが、理由が思いついて自己解決した。
香乃の推理をシルゼーロマは肯定する。
「はい。陸猩族の集落は、狙ったのかどうかは不明ですが、追い風が吹く場所とは正反対の位置にありました。まずは私達がいる位置を修正しなければ」
「このまま天竜の国までひとっ飛び…ってワケにはいきませんか」
「山々ですが、カノさんとイズトリカムを抱えたこの状態では正直自信がありませんね。誠に申し訳ないのですが」
さりげなくダジャレを言ったことに気づいていないシルゼーロマの弁解を、香乃は聞き入れた。
だって、ここまでしてくれてるのにこれ以上のワガママは御法度だろう。
「とにかく、今は目標地点まで移動しなければ次の段階に移れません。それまでは何としてでも陸猩族の方々を撒く必要があります。多少の揺れはご了承しておいてください」
「わ、分かりました……」
香乃は変に身構えた。乗り物酔いする体質ではないが、こうも前置きされると自信がなくなる。自家用車やバスで寄ったことはないから大丈夫なはずだが、と安易な考え方をしたが、そういえば船全般に乗ったことは一度もないことを思い出し、自分から不安のどん底に落っこちた。
承諾の返事を聞いたシルゼーロマは、香乃の不安な心境を考えるよりも優先して、翼に意識を集中した。
香乃とイズがいることを気にして今まで少し加減して飛行していたが、追いつかれる恐れが浮上したからには手を抜くわけにはいかなくなった。
自分の意志で動けない二人には申し訳ないが、シルゼーロマは全力で飛行する予定に変更した。
大きく翼を羽ばたかせ、今までの速度にさらに上乗せする。空気の力を最大限に生かし、空気抵抗を最小に抑え、暗闇の先に視線を集中し、飛行する。
シルゼーロマ達が飛び抜けたあとには突風が巻き上がり、大木の幹を撫で、黒く染まった枝葉を騒がせる。
翔る輪郭が霞む彼らは、まさに風だった。
決して直線に飛ぶことはなく、しかし速度を緩めることはない。
逃亡する側の者が取るべき手段を駆使して、シルゼーロマは飛ぶ。
逃亡する時は、ギザギザに屈曲しながら遠のく方法が効果的であると言われている。直線に逃げるのに対して、距離を稼げるとはいえない。しかし、障害物の死角を利用することで追う側の目から逃れやすくなる。
追いつかれなくする目的で逃亡する以上、その利点を念頭に置くことは定石だ。
この方法で逃れられればいいとシルゼーロマは祈りたかった。
しかし、しばらく飛行して、その祈りは無情にも砕かれた。
「……駄目ですね、追いつかれそうです」
「えっ?」
香乃が訊く。何のことかは分かりきっているが、事実が予想した結果と反していたから質問するような感情が声になって漏れただけだ。
「距離は辛くも拮抗状態を保てているようですが、撒くまではいかないようです。流石は陸上を支配する種族ですね」
シルゼーロマは呑気に相手を賞賛している。
「そんなことはどうでもいいから!なんとかならないんですか!?」
「現状ではなんとも……。逃げ切れるとは思えませんし、攻撃することは極力避けたいです。このまま目的地点まで追いつかれないように努めるしかありません」
「そんな……」
対抗できる手段が春香に少ない事実に、香乃は先行きが不安になった。
少しでも早く目的のポイントまで移動しなければならない。
そのためには追っ手の陸猩族に追いつかれてはならない。
目的地点まで移動できても、陸猩族から邪魔されてはいけない。
邪魔を振り切っても、そこに至るまでにシルゼーロマの体力を温存してもらわなければならない。
現状で突きつけられる課題は多い。本当にこれらを全て乗り越えられるのだろうか。
「私もできるだけのことはしてみます。少々荒くなるかもしれませんが」
「どうぞ好きなだけ!こうなったら捕まらないだけマシって思えますから」
「それもそうですね」
香乃の同意を得たシルゼーロマは、危険のために今まで捨てていた対抗手段を改めて考慮に入れた。最低でも追いつかれないよう、逃走の算段をつけていく。
どんな手段が効果的か。
どんな方法が生産的か。
互いのメリットとデメリットを背景に、シルゼーロマは策謀する。
シルゼーロマが黙考し始めたので、香乃はせめて陸猩族が今どのあたりにいるのかを確認しようと思った。
シルゼーロマに掴まる腕を緩めないようにしながら、できるだけ後方に視線を回す。
広がる暗闇。
次々と後ろへ消えていく巨木。
その中に、あの黄色い双眸が見え隠れしていた。この辺りは気に茂る枝葉が少し薄いのか、陸猩族の姿も朧気ながら見ることもできていた。肩越しに後ろを向いているから後方全体を見渡せているわけではないが、かなりの数がすぐそこまで追いつかれていることを知った。
このまま本当に逃げ切れるのだろうか、と香乃が不安に感じた、直後。
香乃達に一番近い陸猩族が何かを肩に担いでいた。
太くて長い、筒状の物。
先端を香乃達のほうに向けている。
木々の枝葉からわずかに漏れた光を反射させる、金属質の肌。
(ッ!?)
香乃の背筋に怖気が走った。
「シルゼーロマ避けてッッ!!」
香乃の切迫した叫びに、シルゼーロマは素早く反応した。今から通過しようとしていた経路を急遽変更し、すぐ脇に逸れる。
方向を変えたすぐあとに、何かの爆発音が聞こえた。間髪入れずに何かが凶悪な轟音を立ててシルゼーロマの横をかすめる。ほぼ直線に突き進んだそれは進行方向に立っていた樹木に衝突すると、破砕音とともに灼熱の爆炎を上げた。
突然吹き荒れる熱風。密林に満ちた宵闇を退かせる。
視界の端でそれを見たシルゼーロマは驚愕した。
今さっき起きた一連の現象を初めて見たためだけではない。陸猩族が爆発物を取り扱っているという情報を聞いたことがないからだ。
基本的に狩猟をする時は棍棒や槍のような原始的な武器を使うことが多い。その他には補助的な役割で弓矢や特殊な果実を使って狩猟をする。
それがシルゼーロマの把握している陸猩族の狩猟手段だ。
だが、今この瞬間、その情報は大いに書き替えなければならなくなった。
それも、自分たちにとって分の悪い方向へと、だ。
一方、もう一つの疑問があった。
「なっ……なんであいつら、バズーカ砲なんか持ってるのよ!?」
自分の背中に乗るこの人間は、どうして陸猩族が持っている物の危険性だけでなく名前まで知っているのか。
とりあえず、シルゼーロマは香乃の質問に答えることにした。
「おそらく、他の世界の文化品を押収してきたのでしょう。彼らも次元を渡ることができますから」
律儀に返答するシルゼーロマだったが、問題はそこではない。
次元渡りという言葉を久々に聞いた香乃は、天竜族もそれができるというイズの話を思い出した。だが、それは天竜族だけにしかできない特技だと勝手に思い込んでいた。他の種族、例えば陸猩族も同じ芸当ができるとは今まで思っても見なかった。
シルゼーロマは変更した経路を修正しながら、香乃に疑問をぶつけた。
「カノさんは、彼らが持っている物が何なのかご存じなのですか?」
訊かれた香乃は答える。
「知ってるも何も、あれ、私がいた世界で使われてる殺人兵器だもん!」
なるべく平常に尋ねたシルゼーロマだったが、その配慮を無に返すぐらいに香乃は切羽詰まった様子でいた。
長い歴史の中で積み重ねてきた殺し合い。
信念と使命のぶつかり合い。
理想を現実へと変えるための犠牲。
戦争。
地球の歴史を語るのに欠かすことはできない、人間の業。
敵に勝つために、今もなお生み出され、流され続けている狂気。
陸猩族が持っているのは、その片鱗だった。
「……こう申し上げるのは大変失礼ですが、カノさんの世界では、あんな物が平気で使われているのですか?」
「そうよ」
香乃は即答した。
「私の世界ではいくつもの国がありますが、国内や国同士で戦争をすることがよくあるんです。私の生まれ育った国はそこまでじゃないんですけどね。でも、昔から、今日この日も、どこかでは殺し合いをしている。……あれはその証拠なんです」
香乃の声色が沈む。
「人の命を奪うためだけに作られた、悪い物ですよ……!」
またもや爆発音が聞こえ、シルゼーロマは再び回避行動に出る。今度は一発ではなく複数打ち込まれ、より大きく避けなければならなかった。
必死で飛行しながら、シルゼーロマは思う。
香乃のいた世界はどんなところなのだろう、と。
人間という種族はどんな歴史と文化を育んでいるのか、と。
興味はあったが、今は訊かないことにした。今訊いたところで、好印象の情報を聞けるとはとても思えない。
今は、そう、逃げ切ることだけに専念するべきだと改めて思った。
「ねえ、シルゼーロマ」
前触れもなく香乃が質問した。
「なんでしょうか?」
「このまま、逃げ切れそう?」
単刀直入に訊かれて、シルゼーロマは即答し損ねてしまった。
確かに、今の状況は芳しくない。今通っている場所は完全に陸猩族の縄張りだ。彼らのほうが地の利がある。また、今は辛くも追いつかれてはいないが、少しでも油断した瞬間に距離を詰められるだろう。距離を拮抗させていても、再びバズーカホウとかいう武器に襲われ続ける可能性が非常に高い。
すでに危険度は最高値にあるといっても過言ではなかった。
「言うべきではないのですが、正直先行きが見えません。ここは彼らの詳しい土地ですし、あんな遠距離武器を持ち込まれたのでは……」
本当はシルゼーロマのプライドとしては言いたくなかった。自分の力では逃げ切れないと自信をなくすことも、これを言うことで香乃を失望させることも、あってはならなかった。だが、見栄を張って仮初めの自信を答えたところで希望にはならない。悔しくても、現実と向き合わなければならなかった。
シルゼーロマが口を苦くしているのとは裏腹に、香乃は現状を打破するべく提案した。
まだ残る手段の中から無理矢理希望を捻り出すために、香乃は提案した。
「だったら、ここから別の所へ行きましょう」
シルゼーロマは香乃の意図が読めなかった。理解しようにも、今度は香乃が何を考えているのか何も読み取ることができない。
いや、読み取りたくない。それが一番近い感覚だった。
だが、シルゼーロマは聞かなければならなかった。せっかく香乃が考え出してくれた提案を、シルゼーロマは恐る恐るでもいいから聞く義務があった。
「べ、別な所って、どこですか?」
「そんなの決まってます!」
香乃は答える。今の状況を変える提案を。
「私がいた世界、地球へ!」
シルゼーロマは耳を疑った。いや、逃げる手段の一つとして取り上げてはいたが、危険が伴うために早々に却下したのだ。
だが、香乃は何も恐れずそれを口にしている。本当に実践しようとしている香乃の真意を疑いたくなった。
「無茶です!危険すぎます!」
シルゼーロマ達には都合がいいかもしれない。こちらには香乃がいるから逃げるにあたって優位に立つことができるだろう。
しかし、香乃の世界にいる住民に迷惑がかかる。天竜族のような巨大な飛行生物だけでなく、陸猩族のような毛深い陸上生物が鬼事を繰り広げたら、どんな被害が出るか予測がつかない。陸猩族がチキュウでバズーカホウを使ったら死傷者が出かねない。
払う代償が多すぎる。
そう考えたシルゼーロマは、すぐに却下するべきだと思った。
「でも、このままじゃ逃げ切れないかもしれないんでしょう!?イズだって、今度捕まったら絶対に殺されちゃいます!」
シルゼーロマは両手にかかる重みが何かを思い出した。
ただの同族ではない。幼少時代を共にした親友。失いたくない仲間が抱えられている。
守りたいもの。守るべきもの。
守るために、危険を冒さなければならないこと。
いつだったか、総指揮官に言われた言葉だった。それが分かったら、初めてお前は一人前だと。
言われた当時は何のことか理解できなかったが、今ならあやふやながら理解できるような気がした。
「……本気なんですね?」
シルゼーロマは再度確認した。
「もち!」
香乃は景気よく答える。
シルゼーロマは香乃の意志に敬意を払い、覚悟を決めた。
「分かりました。ではカノさんの世界へお邪魔させていただきます。……少しの間目を瞑っていてもらえますか?」
香乃はきょとんとするが、理由を尋ねるような余計な時間はないと思い、言われるままに目を閉じた。
「少々荒れます。しっかり掴まっていてください!」
シルゼーロマの掛け声に従って、香乃は腕の力を入れ直す。
前方から雷のような音が聞こえたかと思うと、全身の感覚が軽くなった。何かに包み込まれ、五感が鈍くなる。無重力状態というのはこういうものなのだろうかと錯覚してしまうような感覚。
なんとなく気持ちがいいと思った瞬間、耳を劈く音が聞こえ、目を閉じているのに眩しい光に包まれた。
瞼に当たる光がなくなったかと思うと、風が髪を撫でた。それも自然の風ではなく、生活臭を帯びた風だった。
夕飯のものだろうか、食欲をそそる匂いや、酒の匂い。入浴剤でも入れたのか風呂の匂いもかすかに混じっている。
そして、すぐ傍から聞こえてくる自動車のエンジン音。
香乃は瞼を開く。
目の前に広がっていたのは、香乃が慣れ親しんだ町並みだった。




