使命の味方よりご案内申し上げます
空を覆う雲は変わらずに色濃い厚みを保っている。星の明かりは時折雲の隙間から漏れる時でしか注がれることはない。
その時折の光によって、鬱蒼とした密林に明かりが届けられていた。
生ける者の眠りを包む常闇。しかし完全な闇はならず、気まぐれに光を忘れない。
活動するには不向きな密林の中を、香乃とシルゼーロマは飛び抜けていく。
香乃はシルゼーロマの首元に腕を回し、振り落とされることがないように懸命に掴まっている。シルゼーロマもまた、香乃が落ちないように飛行の姿勢に注意して飛んでいた。
シルゼーロマの両腕にはイズが抱えられている。頭部への一撃がうまく決まったようで、ずっと気絶している。
「大丈夫でしたか?カノさん」
不意にシルゼーロマが尋ねた。いまだに違和感を持ったままの香乃は、狐につままれたような気持ちをぐっと堪え、平常心で返事をする。
イズの時もそうだったが、日本人どころか人間でない者が自分と同じ言語を使っていると非常に違和感がある。日本語が流暢な外国人のグレードアップ版というか、カレーライスのほうが美味しいラーメン屋みたいな、そんな感じだ。
しかし、相手が香乃の言葉を使ってくれていることは感謝しなければならないことだろう。彼女が意識して言語を変えてくれているからこそ、香乃は不便を感じなくて済んでいるのだ。
香乃はなんとか沈着に事実を受け止めようと気持ちを入れ替えた。
「はい、私は大丈夫です。でも、イズが……」
香乃は返事をする。背中に乗せてもらったままでは格好がつかないが、声をかけられて何も返さないわけにはいかない。
だが、自分を背中に乗せているこの天竜族はイズを攻撃した。素直に礼を言う気持ちになれなかった。
「彼には痛い目に遭ってもらいましたが、仕方がなかったのです。理由は追々説明します」
暴力を振るわれなければならない仕方なさというのは何だというのか。香乃はシルゼーロマの目論見が読めなかった。
だが、今はその他にも優先すべきことがある。今の香乃とイズは、シルゼーロマにかかっているのだ。
曖昧な説明をした理由は、きっと陸猩族のことだろう。
彼らが見ている前で逃げ出したのだ。このまま何事もなく済むはずはない。
いつまで逃げ切れるのか、いつ追いつかれるのか。逃げる側としての不安を、香乃は抱かずにはいられなかった。
「……まだ、あなたに名乗っていませんでしたね」
これから起こると予想される事態に口をつぐんでいた香乃は、シルゼーロマから話しかけられてようやく思考が現実に戻った。
相手がいるというのに、それを無視して不吉に捕われるなんて、なんて自分勝手だろうと反省した。
そんな香乃の心境を察し、シルゼーロマは香乃の返しの言葉をもらうより先に話した。
「私はシルゼーロマ・エンテッフォ。天竜の国で治安組織の指揮官補佐を務めています。宜しければお見知り置きを、カノさん」
シルゼーロマと名乗った天竜族の女性は、適度な堅苦しさで自己紹介をした。
天竜族の女性が名乗ったので、香乃も自己紹介しようと思った。
だが、ふと思い出す。
シルゼーロマはさっきから香乃の名前を呼んでいる。
彼女に名乗った覚えはない。
「あの……私は、榎本香乃といいます……」
香乃は釈然としなかったが、礼儀を優先して一応名乗った。
「エノモト・カノさん、ですね?よろしくお願いします」
シルゼーロマは初めて聞いたかのような振る舞いだ。
「ちょっといいですか?どうしてさっき、私の名前を知っていたんですか?」
香乃の質問に、シルゼーロマはさも当然のように答えた。
「先程、イズトリカムがあなたをそう呼んでいたからです」
先程……というのは、陸猩族に取り囲まれていた時のことだろうか。その頃の香乃は気絶していたため、イズとシルゼーロマとの間にどんな会話があったのか知らない。
そもそも、イズとシルゼーロマはどのような関係なのかも、香乃は知らないままだった。
「シルゼーロマさん、あの……」
「私の呼称に敬称は付けなくて結構ですよ。皆そう呼びます」
「……シルゼーロマは、どうしてこんな所まで来てくれたんですか?」
香乃の疑問に、シルゼーロマはやや唸った。
「カノさんとイズトリカムを連れ戻すためです。誰の命令ではなく、私の独断ですが」
シルゼーロマは答えるが、真っ当すぎるためにかえって不明瞭さが浮き出ている。
香乃はそのあたりを訊いてみた。
「でも、天竜族にとっては、雲の下は立入禁止だってイズが言ってましたよ?そんな所に、治安組織の指揮官レベルなあなたがたった一人で来るものなんですか?」
香乃の鋭い指摘に、シルゼーロマは感嘆した。
族長から知能の高い種族だということは聞かされていたが、成る程推理が的確だ。
「……その通りです。実は、カノさん達が雲の下に降りた事実は、町の外周部に住む同族からの目撃情報から知ったのです。お恥ずかしいことに、今夜はカノさんを歓迎する宴をご用意していまして、準備のために外部監視が手薄になっていました」
香乃がこの世界に連れてこられた理由は、天竜族の祭に参加してもらうためだ。行事のために、多くの天竜族を割いて準備しているのだろう。
香乃とイズはその忙しい中を誰にも言わずにこっそり抜け出してきたのだ。目撃者がいたとはいえ、すぐに連れ戻されなかっただけでもおかしくはない。
「目撃情報を聞いた私は、手遅れになる前にここへ急行しようとしました。しかし、充分な照明がない上に、大した特徴がない樹海の中からカノさん達を見つけ出すのは困難を極めました。ですが、イズトリカムが吠え上げたことで大まかな位置が分かり、樹木や陸猩族の住居を燃やしたことで煙が見え、ようやく追いつくことができたのです」
途中の出来事は香乃の身に覚えがないのだが、それもまた自分が気絶していた時のことなのだろう。シルゼーロマが話すように、香乃とイズを発見することにかなりの捜索時間を費やしたのだと察した。
しかし、いくつか腑に落ちない点がある。
天竜の国に連れ戻すために助けに来たという、シルゼーロマの話。
イズを気絶させるという、彼女が取った行動。
納得するにはどうにもしっくり来ない。
それに、香乃が目を覚ました瞬間の、あの状況もまだ分からないままだ。
どうして陸猩族の住処が火の海に変わっていたのか。
気絶していたとはいえ、香乃が無関係だと決めつけられなかった。
「シルゼーロマは、私達を助けに来てくれたことは分かりました。でも、どうしてイズを気絶させたんですか?今こうやって運ぶ手間になることくらい、あなたには予想がついていたでしょ?」
シルゼーロマの両腕にはイズが抱えられている。彼女は隠そうとしているが、香乃が乗っているのも合計して、飛行の負担になっている様子が窺える。
「イズトリカムをあのままにしておくわけにはいかなかったのです。こちらの言葉も聞き入れられないような状態で、協同して脱出するのは難しいと判断しました」
「あのまま……?」
香乃が目を覚ました直後のイズは、うろ覚えだが、なんだかひどく驚いていたような気がした。同時に、今まで遇ったことのないような怖い物を見たような表情でもあったような気がする。
化粧でも崩れたのだろうかと思った香乃は顔をぺたぺたと触りたかったが、両手が塞がっているので諦めた。
「イズに、何があったんですか?教えてください!」
香乃は事情を知っているかもしれないシルゼーロマに訊いてみた。
迫るような剣幕で質問する香乃に、シルゼーロマは質問で返した。
「私がお教えする前に、まずは私が来るまでに何があったのか、教えていただけますか?あなたが途中で気を失っていたのは知っていますので、最後に見たところまでで構いません」
香乃はシルゼーロマに事の流れを話した。
とは言っても、シルゼーロマの言う通り、香乃は途中から気絶していた。また、香乃にはこの世界の言葉が分からないので、イズとノルバノが話していた内容までは聞き取れなかったことを白状しておいた。
イズと出会い、部屋で話をしたこと。
落ち込む香乃を励まそうとイズが外へ連れ出してくれたこと。
香乃の提案で雲の下へ行ったこと。
降りた森の中で陸猩族に拉致されたこと。
ノルバノと話したあと、木の実をぶつけられ、そのあとの記憶がないこと。
全てを嘘偽りなく話した。
「カノさんがぶつけられたという木の実ですが、おそらく睡蓮ですね」
「すいれん?」
「中身に揮発性の高い果汁が内包しており、それには睡眠作用があるのです。陸猩族はそれを使って狩猟することがあると聞いたことがあります」
「へえー、便利なモノがあるんですねー」
香乃はぶつけられた時のことを思い出し、心なしか額がひりひりした。
「ごめんなさい。全部私のせいなんです。イズに、雲の下に行こう、なんて言ったから……」
「いえ、お気になさらないでください。無事で何よりですし、正直に話してもいただきました。それに、事情を聞いて、私も合点が行きました」
そう言ったシルゼーロマは一度大きく羽ばたき、飛ぶ速度を上げた。
「……私も、事情の全てを知っているわけではありません。お話ししたように、私はいわば乱入者ですので、直接見ていません。飽くまで私個人の推察となりますが、よろしいですか?」
事実を元にした謙虚さで前置きされるが、香乃はそれでも構わないと答えた。今は掴めるなら藁でも葦でも良かった。
それに、天竜族は理解力が高いことを知っている。肩書きや言葉遣いからエリートだと分かるから、信頼してもいいだろう。
香乃の縋るような態度に杞憂を感じたシルゼーロマは、最初から教えるつもりで話す。
「カノさんとイズトリカムが別々の場所で監禁され、カノさんだけは眠らされた。おそらく、そのあとでしょうね。イズトリカムが暴れ出したのは」
シルゼーロマの口から出た言葉に、香乃は耳を疑った。
「あ、暴れた!?イズが?なんで!」
衝撃を受けた香乃は、言葉が纏まらないまま疑問を吐き出した。
「正確な理由は私にも分かりません。ただ、彼が陸猩族の住む場所で力のままに暴れ、彼らの住処を焼いたのはイズトリカムで間違いありません」
「そんな、どうして……!」
香乃は予想もしていなかった顛末に困惑せざるを得なかった。
シルゼーロマに力無く抱えられているイズが、どうしてそんなことをしたのか。
イズを心配し始めた香乃の様子に、シルゼーロマはある可能性を有力視した。
「……確証がないまま考察を他者に話すのは私の流儀に反するのですが、」
シルゼーロマは話しづらそうに切り出す。
「イズトリカムが暴れた理由は、カノさんだと思います」
不明だった理由の可能性に自分自身が挙がり、香乃は不意打ちを受けたように驚いた。
「ど、どういうことですか?」
「気の弱いイズトリカムがそう簡単に乱暴な手段を取るとは考えられません。暴れたくなるほどの理由があったと考えるのが筋です。その理由が、一番近くにいたカノさんではないかと思ったのです」
説明されるが、香乃にはさっぱり飲み込めなかった。
「彼はあれでも下手に責任感が強い奴です。自分が雲の下に連れてきたのに、カノさんに万一のことがあったらと思い、居ても立ってもいられなくなったのでしょう。いくつかある方法の中で、イズトリカムは力ずくで助ける手段に決めたのかと」
「だからって、何も住む場所まで焼いただなんて……」
香乃は不思議がっているが、シルゼーロマにはそれに関わる可能性を考え出していた。
シルゼーロマがイズに追いついた時、彼は香乃を大事そうに抱えていた。我を忘れ、怒りを剥き出しにしていた。
まさかとは思うが、イズは麻酔という言葉を知らなかったのではないだろうか。
中枢神経を抑制した睡眠状態は外からの刺激を加えても覚醒することは稀で、呼吸を観察しなければ死亡したと誤認することもありえる。
そんな可能性の一つを、シルゼーロマは思いついていた。
「……それだけ、彼にとっては大きなことだったのかもしれません」
ただの可能性でしかない。何の確信もない。
それ故、シルゼーロマは香乃にその可能性を話さなかった。
イズが無知であったという可能性は、確信がないまま話すのは無礼であり無責任でもある。
香乃に対してではなく、イズ本人に対して、だ。
「カノさんがノルバノから聞かされたように、現在の天竜族と陸猩族の関係は劣悪です。数の多少にかかわらず、鉢合わせれば諍いが起きるのは目に見えていました」
「……それが、“手遅れ”ですか?」
香乃はここぞとばかりに確認した。
シルゼーロマの話の中にあった、他の疑問点。
聞いたところだと重要そうなのに、具体的な内容までは話されていなかった。
「はい。闘争状態に陥らせたくはありませんでした。死者が出なかったことが不幸中の幸いでしょう」
治安組織の統率役であるシルゼーロマは、両方の種族が衝突しないように警戒していた。今回はその責務に泥が塗られたのだ。
話の途中でシルゼーロマの声のトーンが落ちたことに香乃は気づいた。
香乃から見たシルゼーロマの印象は、使命感は強いがお堅い性格だった。今までの言動は全て自分の仕事から来るもののように感じていた。
しかし、イズの気持ちを考える一言には彼女の感情が滲み出ているような気がした。
情に流されないと思っていたシルゼーロマが見せた感情。その理由は何なのか。
香乃は聞いてみたくて、遠回しに尋ねてみた。
「……イズは、シルゼーロマが言っていた組織の一人なんですか?」
「え?違いますよ。どうしてそう思ったのですか?」
「いやー、シルゼーロマって、やけにイズを理解しているんだなーって思いまして」
シルゼーロマの推察には、イズの性格や傾向が含まれていた。万人の心理を推察したのではなく、イズ個人の動き方として推察していた。
香乃はそれが気になった。単なる知り合いくらいでは分からないのではないかと思ったのだ。
イズから自分に話題が移ったシルゼーロマは、ぴくんと反応を露わにする。
「知らないのも無理はありませんね。カノさんは天竜族どころか、この世界に来たばかりなのですし」
速度を維持したまま、シルゼーロマは抱えているイズを一瞥する。
「私とイズトリカムは、昔ながらの親友なのです」
今度は予想を超えた答えに、香乃は素っ頓狂な声を上げた。
「えーっ!親友なんですか!?」
「もっとも、彼はどう思っているのかは知りませんが」
「……なんか妙な言い方しますね?イズはそう思っていないんですか?」
「確認したことも、誓いを交わしたこともありませんから」
「あー、だから躊躇いもなく頭をがつんと殴れたワケですか」
「これで嫌われてしまったかもしれませんね」
シルゼーロマは自嘲する。彼女から冗談を聞かされるとは香乃は思わなかった。
シルゼーロマと話をしていると驚かされるばかりだった。
そもそも、香乃がイズ以外の天竜族に会うのはこれが初めてなのだ。
イズが話さなかったこと、イズが知らなかったことを聞かされる。この世界をまだ一握りも知らない香乃にとっては嬉しい情報源だった。
もう少しイズのことを聞いてみたくて話そうとした時、シルゼーロマから制止の一声がかかった。
「詳しい話はまた後ほど。追いつかれたようです」
シルゼーロマの冷静な一言に、香乃の全身に緊張が走った。
背後に耳を傾けてみると、確かにがさがさと何かが木々の間を抜けてくる音が聞こえたような気がした。
「速力を上げます。振り落とされないよう、しっかり掴まっていてください」
香乃の返事を待たずに、シルゼーロマは羽ばたきに力を込めた。大量の風が後方に送り出され、推進力を生み出す。
「待って!あなた、ちゃんと見えてるの!?イズは見えないって言ってたけど!」
「ご心配なく!鍛えてますから!」
シルゼーロマはよく分からない自信に満ちた返事をした。
ますます暗闇が濃くなり、香乃にもはっきり見えるわけではない。その中を猛スピードで飛び抜けているのだ。ぶっちゃけ怖い。
香乃は追跡されることとは別の心配を抱かされながら、もう一度シルゼーロマに掴まっている腕に力を込め直した。




