戦闘本能の挑戦状
イズと守衛は睨み合う。
炎が住居を焼いている。
広漠たる密林に覆われながら、炎は衰えることなく燃え上がっていた。
炎の周りには沢山の陸猩族が悲鳴を上げている。
一刻も早くこの場所から離れたいと生存本能に従う者。
自らの危険を二の次にして、同族の救助に奔走する者。
状況に完全に飲み込まれて身動きの取れなくなった者。
危機的状況に陥った現場では、生き残るために必要な行動をおのおの取っていた。
パニックに陥っている状況下で、それを意に介していない者たちがいた。
片や、陸猩族一の英雄と噂され、牢屋の守衛を務めていた戦闘の天才。
片や、今夜拉致されたばかりでこの場を焼き払おうとしている張本人の天竜族。
双方ともに互いのことしか視界に映っておらず、相手の一挙手一投足に息を鎮めて観察していた。
炎がやむことなく燃えている。
燃え続ける住居の一つが、音を立てて崩れた。
その音を合図にしたように、守衛が力一杯踏み込む。
イズに向かって真っ直ぐ走り寄り、一気に距離を詰める。
守衛の接近を見ていたイズは、彼が自分に向かって直線上に来るのを見た瞬間からすでに息を吸っていた。相手の姿を見逃さないまま、イズは口から火炎を放射する。守衛はイズが息を吸い込む呼び動作を確認した瞬間、すでに右に跳躍していた。速度を維持しつつ体が完全に地面から離れないような足捌きを意識する。イズの口から炎が見えた瞬間に右に回避し、そのまま回り込む。
イズも放射を短く抑え、その姿を追う。守衛はイズが方向転換する前に距離を詰め、攻勢に出た。大地を縫うように疾走し、向かって右側、すなわちイズの左足に狙いを定める。
頭部でなく側部を狙うのには理由があった。守衛がイズにダメージを与えるのに最も効果的な部分は頭部だ。
しかし、守衛とイズとは身長差があるため、そこを攻撃するには跳躍するなどして高低差をなくさなければならない。
だが、跳躍して地面から足を離してしまうと先の同族のように咄嗟の軌道修正ができなくなり無防備も同然の状態になる。
高低差をなくすには、自分の高さを変える方法の他に、もう一つある。それが、相手の高さを変える方法だ。
つまり、イズの頭部の高さを自分の攻撃が届くところまで下げさせればいい。
そのために、まずは体を支える足下を掬い、急所を自分に近づけさせるという段階的な戦略を採るつもりだった。
守衛は自分が出せる敏速さを持って接近し、イズの足下に向かう。イズは向き直るのがわずかに間に合っていない。守衛はその隙を逃さず、自身を速度に乗せたままイズの大腿部の外側へ体当たりした。
自分に強い衝撃が伝わる。同時にイズの体もぐらつくと予想していた。しかし、目の前の天竜はぐらつくこともなく、さらに体当たりした左足が遠ざかっていくのが見えた。
守衛は閃光のように発想し、後ろ向きに飛びすさる。先程まで守衛がいた場所に、イズの太い尻尾が唸りながら通り過ぎた。
守衛は着地すると少し距離を離した場所に居直る。イズもゆっくりと守衛の姿を目視する。
イズは守衛に体当たりされる直前、右足を軸にして構えていた。守衛が左足に体当たりする寸前に体を回転させ、足から伝わる衝撃を殺しつつその衝撃を利用して自転を加速させ、尻尾を振るう力に変換した。守衛は体当たりした左足が不自然に離れていくのを見て瞬時に予測し、回避に移ったのだった。
呼吸を忘れてしまう攻防。
一瞬の判断が勝敗を分ける時間。
自分の生死をかける瞬間がそこに存在していた。
守衛はその現実を前に体が震えていた。
長年望んでいた瞬間が与えられたことは確かに嬉しい。だが、同時に恐怖心も芽生えていた。
味方はいない。
武器も持っていない。
作戦も何もない。
嘘偽りなく自分の身一つで敵と対峙している。
嬉しいはずなのに、不安が拭えない。これほど自分自身の実力を疑いたくなった時はなかった。
今までの成功は全て他者の協力によるものであり、決して己の実力そのものではなかったのだと思ってしまった。
今まで甘えていた自分。
疑心に駆られた守衛は、一度己を見直す。
果たして全てが自分の実力無しにやり遂げた成功だったのだろうか、と。
本当に自分の力は凡庸なものなのだろうか、と。
卑下の思いに駆られそうになった守衛は、頭を振って己に問うた想像を否定した。
自分は誰かの協力がなければ何もできない奴ではない。今まで築いた成功の数々は錯覚ではない。
それを照明する方法が、目の前にある。
守衛たちの燃え上がる住居を背景に自分を睨みつけている、この惨事の元凶。
ノルバノの父を殺した天竜族という種族。
この敵を自分だけで倒すことができたのなら、今度こそ己の強さに確信を持つことができると守衛は思った。
イズの攻撃パターンは単純だ。
遠距離なら火炎放射。
近距離なら尻尾回転。
場合によっては足下に火炎を吐いて全方向への攻撃を取る。
これだけだ。今のイズに飛ぶことはできないから、飛行能力を加味することは無駄と言ってよい。
イズの動作に注視して決定打を受けなければ、守衛一人で充分対戦できる相手だと踏んだ。
守衛が攻め方を分析していると、イズはすかさず火を吹き放った。動作を見逃さなかった守衛は自慢の敏捷さでそれを左に避ける。
守衛の位置が動いたのを観察していたイズは、今度は火を吐き続けながら首を振った。そうすることで直線上にしか飛ばなかった火炎が弓状に広がり、広範囲の攻撃となる。守衛は横方向に移動しただけでは避けきれないと考え、高く跳躍して近くの大木によじ登った。
炎を回避できたことを確認すると、守衛は最も近くにある住居に向かって飛び降りた。
ほとんどの住居の傍には道具が積まれて置かれている。それは寒さを凌ぐための毛皮だったり、住居を補強するための材料だったり、狩猟する時に用いる投擲の道具だったりする。
守衛が目を付けたのは木を削って作成した長い棒だった。それを両手に一本ずつ手に持ち、再びイズの元へ近づく。
イズは守衛が住居の近くに降りた時点で焼き払おうかと思っていたが、それはできなかった。なぜなら、守衛が近寄った住居は、まだ香乃がいるかどうかを確認していなかったからだ。
今までは香乃がいないと分かっていたから躊躇なく燃やしていたが、まだ未確認の対象を燃やすことはできなかった。
守衛はイズに近づきながら、片方の棒をイズに向かって投げつけた。
槍投げのように先端を向けながら軌道を描く棒を、イズは火炎を吐いて対処する。
だが、イズの炎がいくら高熱であっても高速で飛ぶ棒に対しては焼き尽くせなかった。
イズは炎の中から飛び出てきた棒を見て咄嗟に体を半身に反らし、それを避ける。
守衛はそれを待っていた。
イズの意識が守衛から棒に移ると、必然的に守衛を見逃すことになる。
守衛はそれを狙い、イズが対処しにくそうだった投擲攻撃を繰り出した。
それが功を奏し、守衛はイズの背後に回り込むことができていた。
イズは守衛の位置に気づいておらず、必死で守衛の姿を探している。チャンスだと守衛は確信し、全速力で距離を詰め寄る。
イズは守衛が踏み出した音に敏感に反応して背後を振り返ろうとするが、遅かった。
守衛はすでに棒を構えてイズに突き立てる準備ができている。狙いは膝の裏だ。関節への集中的な打撃は激痛を生むし、加減によっては脱臼させることもできる。
『おらあ!』
守衛は渾身の力を込めてイズに棒を突き出す。
棒の先端が狙いの部分に衝撃を与える、
刹那。
守衛の視界の横から何かが遮るように現れた。守衛は驚くが、全身の力を込めた攻撃は止めることができない。
繰り出された棒はイズの膝裏をつく前にその何かを突いた。渾身の力が込められていた棒はそのまま突き破り、代わりに勢いを殺されたために止まってしまった。
守衛は横槍を入れられた何かを見た。
柔らかくて弾力があるが、簡単には破れない材質。
あちこちに穴が開いている何か。
所々に浮いている血管と、棒を突き刺したところから新たに吹き出していた鮮血。
それは、イズの翼膜だった。
イズはすでに使えなくなっている翼をさらに犠牲にして、守衛からの攻撃を防いでいた。
突然の敵の対応に守衛は視界をほとんど奪われ、何が起きたか状況を掴み切れていなくなっていた。
イズはその隙を突いた。
握り拳を作り、翼膜に開いている穴に向かって繰り出す。
翼膜によって死角だらけだった守衛の顎下にイズの拳が当たり、その場に叩きつけられた。
顎下に衝撃を与えられた守衛は脳を揺さぶられ、抵抗する力を出せないまま昏倒した。
二人の勝負は、イズの拳によって幕を下ろされた。
守衛を返り討ちにしたイズは、目の前に倒れる陸猩族を見下ろしていた。
やはり、今の自分になら何でもできるのだ。
錯覚ではなく、事実としてイズの力量が実証された。
目の前の戦果にイズは、自分にはこれだけのことができるほどの力があるのだと思った。
敵を倒すことができる。敵の集落を襲うこともできる。これだけの力があって、できないことなんてあるだろうか。
イズは自らの力に陶酔していた。
目の前に倒れる守衛が簡単に起き上がれないよう、追い打ちをかけようとした時だった。
『待て!それ以上手を出すな!』
声のしたほうに振り返ると、一騎打ちの一部始終を見ていた守衛の相方が声を張り上げていた。
『汚らわしき竜の民よ!早くクレムから離れろ!』
見ると相方の手には睡蓮が握られている。クレムという名前に聞き覚えはないが、おそらくは目の前に倒れている陸猩族の名前だろうとイズは推察した。
イズは相方に対してどう対処しようかと考えていた。
相方の要求を呑んでクレムから離れれば何もされないかもしれない。
だがクレムのように、ここで逃すとどこまでも追跡してくるような気もある。
どうしようか。イズには闘って勝てるだけの実力はある。
ならば、どう転んでもいいように、守衛同様ここで潰しておくべきだろうか。
そこまで瞬時に考えを巡らしたイズだが、そのわずかな時間も相方にとっては長かったらしい。相方はイズに向かって睡蓮を投げつけた。
イズは今さらの攻撃と、余裕を持たせながら火炎を放射してそれを焼き払った。火炎はそのまま相方のほうに飛ばされていくが、相方はそれを回避する。
当たるものがなくなった炎はすぐに勢いがなくなるわけではなく、惰性でさらに置くまで飛ばされていく。
その先には、イズがまだ確認していない住居があった。
『!』
炎はその住居に迫り、止まりそうな勢いで緩やかに住居を焼き始めた。
イズは背筋が氷りそうな思いになった。まずい、という判断。嫌な予感。
イズは相方と対峙していることも忘れて、今さっき燃え始めた住居のもとに急いで近寄った。相方もイズの態度の急変に戦闘せずに済みそうだと直感で思い、クレムのもとへ駆け寄った。
すでに屋根のほとんどに火が回っており、壁も反対側まで火が回りそうだった。
イズは焦る気持ちを止められず、夢中になって壁に爪を立てる。燃える木はやはり本来の堅固さを失ってはいるが、燃えて間もないために若干の強度が残っている。切り崩すのに予想以上の時間がかかり、それがさらにイズを焦らせる。
手が入るくらいの大きさが空くと、イズはそこに手を入れてこじ開けるように壁を力ずくで開いた。
中にはまだ火が回っていなかったが、イズが外との出入り口を作ったために瞬く間に勢いを強め始めた。
イズは火の粉を浴びながら住居の中を見回す。
最初に目に飛び込んだのは、頑丈そうな木材で作られた檻だった。
向こう側には椅子代わりの丸太と、本来の出入り口であろう扉がある。
そして、檻の手前を見た。
手足を投げ出すように横になっている、人間という種族がいる。
イズにとっては馴染みのある顔が、今はこの惨事の中でも固く目を閉じている。
そこに、香乃が、倒れていた。




