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いつかこんな日が来るんじゃないかと心配で心配で夜もろくに眠れなかったぐらい恐れていた現実

 目を覚まさない香乃を見て、イズの目の前は真っ白になった。


 自分の目に映るものを現実として受け入れることができなかった。


 香乃が、横たわっている。

 こんなに騒ぎになっているのに、こんなに火が燃えて暑くなっているのに。

 瞼が開く気配がない。


 イズは香乃の体を抱え上げた。

 そっと、イズの爪で傷つけないように。

 これ以上、傷が付かないように。


 間近で香乃の顔を見る。

 どこにも力は入っておらず、その体すべてをイズの腕に預けている。

 手の平から香乃のぬくもりを感じる。だが、体を揺すっても目を覚まさない。




 まるで、死ん




 目の前で力無く横たわっている人物に、すべての感覚が向けられている。なのに、何も考えられない。


 考えて、答えを出すことを全身全霊で拒否している。


 住居は飽きることなく燃え盛り、次々と燃え殻へと変えていく。


 炎が取って代わるその行程は、イズにとってはあまりにも静かだった。


 現実として受容できなくなっている光景。

 これが夢ならば、どれだけ救われていただろうか。

 これが夢だと思い込めるのなら、どれだけ受け入れられただろうか。


 これは夢だと思い込みたい。

 心の底から現実逃避したい気持ちになってくる。

 夢だと認識しようとすればするほど、それは紛れもなく現実だという証左に成り上がっていた。


 目の前は現実。

 出来事は事実。


 香乃は、イズの手で、


 死んだ。


 背中が痛む。

 新しく開けられた翼の傷が悲鳴を上げている。


 それよりも痛いのは、カノが死んだという事実だった。

 しかも、その死因はイズのせいである。イズの炎によって、香乃は命を落とした。


 すべての原因が自分にある。他の誰でもない、自分のせい。

 自分のせいで、守ろうとしていた人の命を絶った。






 悲惨な現実を前に、イズの心は壊れた。






 思わず天を仰ぎ、声も出せずに泣いた。悲痛な涙がこぼれ続ける。

 泣いて目の前の光景が変わるわけではない。目を背けたくなる事実が直るわけではない。

 でも、イズには泣くことしかできなかった。泣きたくないのに、あとからあとからと止むことなく悲しみが溢れてくる。


 自分がもっとしっかりしていれば。

 陸猩族なんかに負けないくらい強ければ。

 香乃を守れるくらいの力があれば。


 悲しみとともに後悔が一緒に押し寄せてくる。

 いくら拒否したくても、気持ちの正直な部分が嘘をつきたがらない。

 この取り返しのつかない状況を作り出した原因は、すべて自分にあるのだ。


 未熟な自分が生み出した結果。

 いくら弁解しても意味を成さない現実。


 「あの時こうしていれば」と思い、同時に「あの時どうしてそうしなかったのか」と自責の念に駆られる。


 すべての現実を前にしたイズは、すべてが嫌になった。

 目の前で起こったことも、起こした原因として関係している陸猩族も、陸猩族がいただけで何もできなかった自分自身も。


 何もかもが嫌いになった。


 嫌いなものを否定したくなった。


 せめて、自分の心がこれ以上荒まないようにしたかった。


 自分が見たくないもの全部を消し去ってしまいたくなった。


 そうしなければ、いや、そうするまでもなく、イズの心は耐えられなかったから。



『そこまでだ!』


 イズの慟哭が響くなかで、空気を打ちのめすような声が響いた。

 声の主は、陸猩族のリーダー格であるノルバノのものだった。


『よくも我等の住み処だけでなく、我が同胞にまでも手を出してくれたな…』


 ノルバノの声は怒りで震えていた。自分の計画通りに事が進まなかったことだけが理由ではない。自分達の寝床を荒らされ、何よりも同胞から負傷者を出させたのだ。

 同族を統括する者として、今の事態は決して見逃すわけにはいかなかった。


『見ろ!貴様にはもう逃げ場はない!好き勝手に暴れるのもここまでだ!』


 イズの周囲にはいつの間にか大勢の陸猩族によって取り囲まれていた。イズがこれまでに二度対戦しているうちに、ノルバノは反撃の態勢を整えていたようだった。

 今イズを取り囲んでいる陸猩族の数は、最初にイズと香乃を包囲した時のほぼ倍が揃っていた。いくらイズ個人の戦力が高いといえども、飛行能力が失われていては抵抗することも逃げることも敵わない差となっている。


 イズは、全ての逃げ道を失っていた。




 だから、何だというのだ。




 ノルバノの包囲宣告を受けても、イズにとってはどうでもいいことにしか聞こえなかった。


 数で負けていることなど事の始まりから承知している。今さら取り囲まれている事実を聞いたところで、遅かれ早かれ起きることが起きたのだから驚くことではない。

 それに、イズは飛ぶことができない。飛行能力を失っているのだから、逃げることは叶わないことくらい理解している。徒歩で逃げ切れる勘違いな自信を持つつもりもない。


 すべて分かりきっている状況だというのに、ノルバノの自信に満ちた声が気に入らなかった。この状況下でさえ、イズはノルバノの支配から逃れてはいないのだと誇示しているかのように聞こえた。


 確かに、逃亡する力をイズは持っていない。

 だが、何も抵抗せずに終わるつもりなんかなかった。


 目の前の敵たちに一矢報いてやりたい。

 どんな方法だっていい。手段なんて構うものか。


 同族が二人も敗北したというのに、しつこく捕縛しようとする陸猩族の執拗ぶりが気に障った。


 香乃をこんな目に遭わせた陸猩族全員が、憎らしかった。


 香乃を不幸に陥れた元凶を、自分が動けるうちに壊したかった。


 自分たちから生きることを奪っていくこの世界そのものを、無くしたかった。



 そうだ。無くなってしまえばいいんだ。


 こんな世界なんかいらない。


 傷ついてばかりで、傷つけてばかりで、つらい思いしかしないこんな世界なんか、最初から無ければよかったんだ。


 香乃だって巻き込まれることはなかった。アイツだってそうだ。


 最初から無ければ、みんな苦しい思いをしなくて済んだんだ。


 こんな世界、有るべきじゃなかったんだ!



 イズは、自分の中で無限に溢れ続ける悲しみが、怒りに変わった。



 ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンンン!!!!!



 イズの巨大な咆哮。

 長く、低く、響く。


 森の中をデタラメに鳴り響く声は、大地を震わせ、幾千幾万もある巨木を振動させた。森の中を住処とする生物を叩き起こされ、悲鳴にも似た鳴き声があちこちから聞こえてくる。震撼は大気にも伝播し、それを聞いた鳥たちは次々と空へ逃げていく。


 腹の底から全身へ伝わる叫声。ビリビリと響き、鼓膜ははち切れそうになる。

 声を聞いているだけなのに、全身が震える。

 体が震える。

 まるで、恐怖しているように。


 皮膚に、筋肉に、骨に、内臓に、脊髄に。

 体を構成するすべてを震わすその咆哮に、陸猩族たちは目の前の獲物を恐れ始めていた。



 イズの声が途切れたあとにも、陸猩族たちの鼓膜にはイズの怒りの声が響き続けている。

 声が脳裏を離れない。

 恐怖が消えない。

 炎がすべてを飲み込もうとしている中、動こうとする者は誰もいない。


 状況は、たった一声によって大きく変わってしまった。

 数なら陸猩族のほうが圧倒的に多い。手には武器もある。多少の差はあれど戦闘経験もある。

 状況的に有利でしかない陸猩族は、眼前にそびえる怪物にいつしか部族の誇りである使命感を削ぎ落とされていた。


 そして、リーダー格であるノルバノでさえ、恐怖の芽は宿っていた。

 数を揃え、陣を組み、絶対包囲を配置することに成功した瞬間、事態の軍配がどちらに挙がるか確信した。否、敵のほうに挙がるほうがおかしいのだ。何はともあれ、これで事態の収拾がつくと思われた。


 その矢先だった。


 天竜族の全力の叫び声を聞いただけだ。それ以外は何もない。

 そのはずなのに、一体どうして自分は目の前の天竜族に恐怖しているというのだ?


 何故獲物を握る拳がこんなにも震えるのだ?

 何故大地を踏みつける両足にこんなにも力が入らないのだ?


 一体自分はどうしてしまったというのか?

 自分の前にいる奴は、一体何なのだ…!


 ノルバノは自分にも理解できない恐怖があることに困惑していた。

 さっきまで矮小に見えていた天竜族一頭が、今は触れてはならぬ邪神に見える。



『お前らがいたせいで…』


 咆哮後静かにしていたイズが、ぽつりと呟いた。

 森の中に静寂が戻ったかと思った途端の、突然の独り言だった。


 前触れのない声に、陸猩族の体はびくりと跳ね上がった。

 先程の叫声のせいで、イズの声は陸猩族の恐怖の種になっていた。


 そして、イズの発言の内容。

 独り言のようだったが、確かにはっきりと“お前ら”と言っていた。


 陸猩族に意識を向けて。


 まだ終わらない。

 恐怖はまだ終わらない。

 その場にいる陸猩族は、これからの展開を悟った。


『お前らなんかが、いたせいで…!』


 イズの歯ぎしりの音がやけに鋭く聞こえた。

 とても小さな音でさえ、陸猩族たちには敏感になっていた。


 イズの怒りがひしひしと伝わる。イズの悲しみがじわじわと伝わる。

 陸猩族たちの住居を焼き落としている炎が、彼の感情そのものに錯覚してしまう。


 イズは息を大きく吸い込んだ。

 炎を放射するつもりだ。誰もがそう予感した。

 だが、逃げようとする者はいない。

 その場にいる者は全員、足が竦んでいた。


 逃げようとしない標的に、イズは狙いを定める。

 すべてが憎い。全員が嫌いだ。

 その中でも、特に。

 香乃とイズをこんな目に遭わせた首謀者。

 イズを取り囲む陸猩族の群れの中に、独特の雰囲気を持つ標的を見つけた。


 そして、イズは、

 全身の力を振り絞って、巨大な炎をノルバノに向けて吐き出した。


 今までにない火力。

 触れる物すべてを焼き尽くすであろう、その熱量。

 見たこともないその大火球が自分へ向かってくるのを前に、ノルバノは逃げること以外のことを考えていた。


 父も、こんな気持ちだったのだろうか。

 空に住む異種民族に焼き殺されそうになった時、こんな気持ちだったのだろうか。


 迫り来る大火球の熱が肌で感じられるようになり、我に返ったノルバノの恐怖は絶頂に達した。


『うわあああああああああああ!!』


 逃げることも許さなかった炎は、ノルバノを含め陸猩族十数名のいた所に着弾した。

 凝縮された熱が膨れあがり、触れるものすべてを灰に変えようとする。

 ゆだるような熱さが辺りに撒き散らされる。大火は強い風を生み、その場にいる者たちを煽った。


 他者の妨害を許すこともなく、イズの火炎は目標を焼いたのだ。


 焼かれずに済んだ陸猩族たちは、ノルバノという指揮者が葬られたことにショックを隠せないでいた。自分たちの代表が、一族の誇りともいえるあのノルバノが、焼き殺された。

 自分たちが動けば助けられたかもしれない。後悔はすでに生まれているのに、事実として何も手を出すことができなかった。


 炎の勢いがわずかに収まる。

 なけなしの同情のように、炎の規模が少しだけ小さくなる。

 火が小さくなることで、火の中の様子がわずかに見えるようになる。


 イズの炎が燃えた跡には、




 一頭の天竜族が立っていた。



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