第28話 雪山を駆ける狸の少女と、黄金の豚汁
西の地の商都『白景』での温かな炊き出しを成功させ、さらに『霊位三階(上階)』へと位階を上げた私は、妖空艇に乗り、いよいよ『霊峰永煌山』の麓へとたどり着いた。
妖空艇から降り立った私たちの前にそびえ立つ霊峰は、万年雪とぶ厚い氷の鎧にすっぽりと包まれ、山頂付近からは今なお、周囲の生気を根こそぎ凍てつかせるような不気味な青白い冷気のオーラがもうもうと吐き出されている。
その玄関口となる麓の村は、霊峰から吹き下ろす猛烈な暴風雪に晒され、村人たちの姿もまばらにしか見えないほどひっそりと静まり返っていた。
「うぅ……っ! さ、寒いです……! 地上の寒さは、空の上とはまた違ったものがありますね……!」
私は防寒用の厚手の上着をしっかりと体に巻き付け、ガタガタと震えながら身を縮こまらせた。
隣に立つ凱様は、持ち前の分厚い毛皮と強靭な肉体のおかげで「おう、これぞ雪山って感じだな!」と豪快に笑っている。
蒼さんは、青い瞳の奥に鋭い光を宿し、「あそこから発せられている冷気の魔力は、ただの自然現象ではないね。やはり、あの山頂に巣食う『氷室の暴竜』が意図的に放出しているものだ」と静かに分析していた。
そんな私たちが、どうやってこの誰も近づこうとしない霊峰の山頂へのルートを見つけ出せばいいのかと思案していた、まさにその時だった。
「おーーい! そこのお兄さんとお姉さんたち、もしかして今から霊峰のほうへ登ろうとしてるのかぁ〜!?」
白銀の雪景色に、底抜けに明るく元気いっぱいな少女の声が響き渡った。
その声の方向に目を向けると、雪まみれの小さな丸太小屋の陰から、ピョンピョンと軽やかに飛び跳ねながらこちらへ近づいてくる一人の少女がいた。
人間の年齢に換算すれば十代前半くらいに見える。頭の上からは、ふさふさとした茶褐色のタヌキ耳がぴこぴこと機嫌良そうに動き、お尻のあたりからは同じくモフモフとした太い尻尾がパタパタと楽しげに揺れている。彼女は防寒用の可愛らしいポンチョを身にまとい、雪山を歩くための特製のカンジキを履いていた。
「はじめまして! あたし、この麓の村に住んでる日鞠って言いまーす! よろしくね!」
日鞠と名乗ったその狸のあやかしの少女は、私たちの目の前までやってくると、寒さを微塵も感じさせない満面の笑みを浮かべ、元気よくパッと敬礼してみせた。
「ひまり、ちゃん……?」
私が驚きに目を丸くしながら鸚鵡返しに呟くと、日鞠ちゃんは「そうだよ!」と胸を張って頷いた。
「ねぇねぇ、さっきから見てたけど、あなたたち、ものすごく立派な格好をしてるし、もしかしてあなたたちが、あの山頂にいる『氷室の暴竜』をやっつけに行こうっていうカッコいい冒険者さんたちなの!?」
「あ、はは……まあ、そんな感じだけど……。私たち、実はあの霊峰の登山道があまりよく分からなくて、ちょっと困っていたところなんだ」
私のその言葉を聞いた瞬間、日鞠ちゃんは両手をポンと打ち鳴らし、さらに目を輝かせた。
「やっぱり! じゃあ、あたしがぴったりじゃん! この霊峰の裏道も、野生のケモノたちが通る秘密のショートカットも、この日鞠に任せてもらえれば、どんな吹雪の中だって完璧に案内してあげるよ!」
「本当かい、お嬢ちゃん? いやぁ、それはめちゃくちゃ助かるぜ! この広大な雪山で道に迷っちまったら、それだけで氷の彫像になっちまうからな」
凱様が大きな体をかがめながら、日鞠ちゃんの頭を優しくポンと撫でて豪快に笑った。
日鞠ちゃんが「えへへ、おじさん、任せてって!」と得意げに胸を張る。
おじさん、と呼ばれてわずかに頬を引きつらせた凱様のを、私は横目で見ながら心の中でそっとクスリと笑った。
「心強い味方が現れたものだ。君の名前は日鞠だったね? 私たちの案内人として、その力を貸してくれるか?」
蒼さんがいつもの優雅で紳士的な笑みを浮かべながら、日鞠ちゃんにそう声をかけた。
蒼さんのその只者ではない気品あふれる雰囲気を察知したのか、日鞠ちゃんは「うわぁ、このお兄さん、すっごいカッコいい……!」と目をハート型にさせながらも、シャキッと姿勢を正す。
「うん、任せて! この日鞠が一番安全で温かいルートで、あの山頂までしっかり案内してあげるからね!」
こうして、底抜けに明るい狸の少女・日鞠ちゃんが私たちの強力な案内人として加わり、いよいよ私たちは未知なる雪山へと足を踏み出すことになった。
§
日鞠ちゃんの案内は、本当に完璧だった。
彼女が「こっちの岩陰なら、冷たい風が当たりにくいから歩きやすいよ!」とか「あそこの吹きだまりは雪が深すぎるから、この丸太橋を渡るの!」と、まるで自分の庭を歩くかのようにスイスイと先導してくれたおかげで、私たちは猛烈な吹雪に体力を奪われることなく、順調に標高を上げていくことができた。
けれど、どれほど日鞠ちゃんが巧みなルートを選んでくれるとはいえ、ここは古の暴竜が棲む呪われた霊峰だ。
標高が上がるにつれて周囲の気温は氷点下をはるかに下回り、吐き出す息は一瞬で凍りつき、足元の雪はガチガチに硬まった氷の斜面へと変わっていった。
「ひゃあ……! さすがに、このあたりまで来ると、空気がキリキリしてて肌が痛いよ……!」
さすがの日鞠ちゃんも、標高中腹の険しい崖っぷちに差し掛かった頃には、自分のモフモフとした尻尾をギュッと丸め、ブルッと身を震わせながら小さな悲鳴を上げた。
見渡す限りの銀世界。容赦なく吹き荒れる冷たい強風が、私たちの衣服の隙間から容赦なく体温を奪っていく。
「お嬢ちゃん、大丈夫か……? あと少しで山頂だが、このままじゃ凍えちまうぞ……」
凱様が心配そうに私を振り返りながら声をかけてくれた。
私は凍えそうになるかじかんだ両手をこすり合わせながら、力強く首を横に振った。
「大丈夫です……! 私たちには、こういう時のために最強の秘密兵器があるんですから!」
私は皆を安心させるようにニッコリと微笑み、その場で大きく両手を掲げた。
「ここで、居酒屋『やどりぎ』を展開します!」
私のその宣言に、日鞠ちゃんが目を丸くして「えっ……? こんな何もない雪山の真ん中で、お店を出すの……!?」と驚きの声を上げる。
私は空間に向かって、はっきりと命じた。
「店舗顕現!」
瞬間、パチパチとまるで薪が爆ぜるような温かな音が響き渡り、白銀の吹雪のなかにぽっかりと、古風で居心地の良さそうな木造建築の居酒屋が実体を持って姿を現した。
店の軒先では、この極寒の世界を拒絶するかのように、あたたかなオレンジ色の光を放す赤提灯がふわりと揺れ、藍色の暖簾も、冷たい風にパタパタとはためいている。
さらに、私はすかさず新しく追加された機能を発動させる。
「そして、結界、展開っ!」
その呪文を唱えた瞬間、『やどりぎ』の周囲の空間が、目に見えない黄金色の美しい光のドームでふわりと覆われた。
その瞬間、あんなに狂おしく吹き荒れていた猛烈な暴雪や、骨まで凍りつくような冷たい強風が、まるで何事もなかったかのようにピタリと遮断されたのだ。
「うそ……! あんなにあんなに荒れてた吹雪が、一瞬でピタッと止まったよ……!?」
日鞠ちゃんは自分の目を疑うようにパチパチと瞬きさせ、それから店の中へと続く温かな空気を肌で感じ取って、「わぁ……! 中から、ものすごくいい匂いがする……!」と歓声を上げた。
「さあ、皆さん! 中に入って、冷え切った体を温めてくださいね!」
私が藍色の暖簾をくぐって店内に招き入れると、凱様、蒼さん、そして日鞠ちゃんが次々と温かな店内へと滑り込むように足を踏み入れた。
「ふぅ……! 生き返るぜ……! この暖かさ、まるで別世界だな!」
凱様がカウンターの席にドカッと腰を下ろし、ホッと大きな息をついた。日鞠ちゃんも、蒼さんとともにその隣にちょこんと座り、「ぽかぽかしてて、すっごく気持ちいい……!」とタヌキの耳をピコピコと動かしている。
「さてと……。この極寒の雪山で、冷え切った私たちの身体と胃袋を最高に温めてくれるものと言ったら……やっぱり、あれしかないですよね!」
私はエプロンの紐をキュッと締めると、厨房のカウンターへと素早く回った。
頭の中で『八百万神恵堂』のメニュー一覧を開き、霊位三階に上がったことで新たに仕入れられるようになった最高級の薬膳素材と、極上の豚肉を次々と交換する。
雪山の登山で冷え切った身体の芯から温まり、失われたエネルギーを爆発的に回復させるためのメニュー──。
それは、具だくさんで、心底ホッとする『アツアツの特製豚汁』だ。
私は大きな平底の鍋をコンロにかけ、勢いよく火をつけた。
まずは、神恵堂から取り寄せた極上の厚切り豚バラ肉。余分な脂を丁寧に落としながら、香ばしく軽く焼き目をつけ、そこにゴロゴロと大きめに乱切りした大根、ニンジン、サトイモ、そしてごぼうなどの根菜を次々と放り込む。根菜類は、じっくりと煮込むことで体の芯からじわじわと体温を高めてくれる最高の食材だ。
トントン、トントン……と、静まり返った店内に、私の心地よい包丁の音が響く。
さらに、霊峰の過酷な冷気によって強張った筋肉や神経を優しく解きほぐすため、森の霊気をたっぷり含んだ特製の『霊茸』の薄切りをたっぷりと鍋に投入する。
そこに、かつお節と昆布から引いた黄金色の特製合わせ出汁をたっぷりと注ぎ込み、コトコトと静かな火加減でじっくりと煮込んでいく。
しばらくすると、鍋の中から、根菜の優しい甘みと、豚肉の芳醇な旨味、そして霊茸の清らかな香りが絶妙に混ざり合った、言葉を失うほど魅惑的な出汁の匂いが立ち込めてきた。
仕上げに、厳選された風味豊かな自家製の合わせ味噌を、大きなお玉でゆっくりと溶かし入れていく。
黄金色のスープに味噌が溶けていくたびに、芳醇で香ばしい香りが厨房いっぱいに爆発するように広がり、カウンターの端で見守っていた日鞠ちゃんが、思わず「くぅ〜っ……! いい匂い……!」と大きな鼻をヒクヒクと震わせた。
「お待たせいたしました! 『霊峰の寒さを吹き飛ばす、極上の特製豚汁』になります!」
私は手際よく大きなお椀に、具だくさんの豚汁をたっぷりと思い切って盛り付けた。仕上げに、細かく刻んだシャキシャキの青ネギと、香り高い生姜のすりおろしをそっとトッピングする。
その熱々の豚汁のお椀を、凱様、蒼さん、そして日鞠ちゃんの目の前へとそれぞれ丁寧に差し出した。
立ち上る湯気とともに、味噌と生姜、そして豚の旨味がギュッと詰まった最高の香りが鼻腔をくすぐり、全員の視線が釘付けになる。
「うおおお……! こりゃあ、たまらねぇ……!」
凱様は待ちきれないといった様子で大きなお箸を手に取り、まずはゴロゴロと入った厚切りの豚肉と大根を口へと運んだ。
そして、次の瞬間──。
「うまーーいっ……!!!」
凱様の身体がビクリと大きく跳ね上がった。
「なんだこれ……! 柔らかい豚肉の旨味が口いっぱいに広がるのはもちろん、この出汁の深さと、生姜のピリッとしたアクセントが、凍りついていた胃袋を内側から一気に叩き起こしてくれたぜ……! 身体中の血液がドクドクと熱く巡っていくのが分かる……!」
隣で日鞠ちゃんも、お椀を両手でしっかりと抱え込み、ふうふうと息を吹きかけながらお汁を一口すすった。
「はぁぁぁ……美味しい……! お出汁がすっごく優しくて、お腹の底からポカポカと温かくなっていくよ……! こんなに美味しいご飯、食べたことない!」
日鞠ちゃんは目をキラキラと輝かせ、夢中になってサトイモやごぼうを頬張った。タヌキの耳が、嬉しそうにピコピコと可愛らしく上下している。
蒼さんもまた、スプーンで丁寧にお汁をすくい、じっくりと味わったあと、穏やかで美しい笑みを浮かべた。
「本当だね……。外の極寒の吹雪がまるで嘘のように感じられる。この豚汁に込められた霊気と温もりが、私たちの疲れた身体を完璧に回復させてくれるよ。千歳、素晴らしい腕前だ」
皆が夢中になって私の作った豚汁を平らげ、みるみるうちにその顔色に血色が戻っていくのを見ながら、私は胸の内で大きな達成感に満たされていた。
外では世界を凍てつかせようとする暴竜の冷気が猛威を振るっているけれど、この『やどりぎ』の中には、温かな笑顔と最高のご馳走がある。
「さあ、皆さん! おかわりはいくらでもありますからね。しっかり食べて、英気を養ってください!」
極寒の雪山にあたたかな赤提灯を灯す小さな居酒屋の店内は、明るい笑い声と温かな熱気で包まれていた。




