第16話「自覚」
ここから関係は“戻らない前提”で進みます。
もう誤りではなく、止めない選択に入っています。
昼の廊下は、騒がしい。
人の往来。
交わされる報告。
足音が、絶えない。
「グレイフォード様」
若い文官が駆け寄ってくる。
「この処理なんですが、優先度をどちらに——」
「上から三番目を先に」
視線を落としたまま答える。
間違いはない。
判断も速い。
——本来なら。
「ありがとうございます!」
去っていく背を見送る。
ほんの一瞬だけ。
(……浅い)
手応えが、薄い。
処理はできている。
精度も落ちていない。
それなのに。
以前のような“確定感”がない。
どこか、噛み合っていない。
感覚が、浮いている。
「珍しいですね」
横から声がした。
振り向く。
同僚の文官だ。
少しだけ年上。
観察するような目をしている。
「何がですか」
「今の、少し遅れましたよ」
軽く言われる。
責めるでもなく。
ただの事実として。
「……そうですか」
短く返す。
否定はしない。
できない。
「体調でも?」
「問題はありません」
言いかけて、止まる。
言葉が、引っかかる。
ほんの僅か。
「……少し、疲労が」
修正する。
それが一番近い。
「珍しい」
同僚は小さく笑った。
「あなたがそう言うの」
それ以上は踏み込まない。
それで終わる。
残る。
言葉だけが。
(……疲労)
違う。
それだけではない。
原因は分かっている。
認めていないだけだ。
廊下の先。
視線が、動く。
無意識に。
探している。
(……違う)
否定する。
すぐに。
足が、止まる。
視線の先。
人の流れの中に——
見つける。
黒い髪。
変わらない立ち姿。
アルベルト。
距離はある。
十分に。
触れられない距離。
それが、前提。
それなのに。
(……遠い)
思考が、ずれる。
ほんの一瞬。
だが、はっきりと。
違和感が残る。
そのまま、視線を外す。
関わる必要はない。
業務は終わっている。
今は別件だ。
そう、整理する。
しかし、
足が、動かない。
止まっている。
(……なぜ)
理由は分かっている。
認めたくないだけだ。
ほんの僅か。
一歩分。
距離を詰めれば——
何が起きるか。
分かっている。
思考が整う。
あの感覚が戻る。
それを。
求めている。
(……違う)
強く否定する。
それは必要ではない。
依存だ。
そうでなければならない。
それでも。
身体は、動く。
意識よりも先に。
一歩。
前に出る。
「……グレイフォード様?」
背後から、声。
さっきの文官だ。
止まる。
完全には進まない。
戻りもしない。
「……いえ」
短く返す。
それ以上は言わない。
言えない。
視線だけが、残る。
前へ。
距離の先へ。
そして。
もう一歩。
踏み出す。
わずかに。
だが、確実に。
近づく。
アルベルトが、顔を上げる。
視線が合う。
一瞬だけ。
それだけで——
理解される。
止められないことも。
止めないことも。
「……」
アルベルトは動かない。
手も伸ばさない。
距離を保ったまま。
ただ、見ている。
選択を。
そのまま。
受け入れるように。
言葉はない。
距離だけが、変わる。
触れてはいない。
まだ。
それでも。
確実に。
近づいている。
それが——
初めての、意志だった。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
自分の意思で、距離を縮めた。
——戻ることのない、一歩として。
拒絶はありません。
ただ、まだ認めていないだけです。
それでも——距離は、もう戻りません。




