第15話「不足」
ここで一度、関係がはっきりと動きます。
これまでの“曖昧さ”が崩れ始めます。
業務に、問題はない。
書類は整っている。
判断も正確だ。
遅れもない。
——本来なら。
「……もう一度説明を」
自分の声で、気づく。
わずかに、遅れている。
「はい?」
向かいの文官が、目を瞬かせた。
当然だ。
同じ説明を求めることは、ほとんどない。
「いえ、問題ありません」
すぐに訂正する。
受け取った書類に視線を落とす。
内容は理解できる。
処理も可能だ。
だが。
(……遅い)
思考の立ち上がりが、鈍い。
以前なら——
この段階で、結論まで到達している。
ほんの僅かな差。
それでも、明確に分かる。
「……失礼しました」
短く告げて、その場を切り上げる。
これ以上は、効率が落ちる。
そう判断する。
廊下に出る。
人の気配が減る。
静かになる。
それだけで。
(……落ちない)
整わない。
いつもなら、この程度で戻る。
だが、
戻らない。
理由は分かっている。
触れていないからだ。
(……不要です)
否定する。
強く。
あれは異常だった。
正しい状態に戻っただけだ。
そう、結論づける。
それでも。
足りない。
明確に。
何かが。
「グレイフォード」
名を呼ばれる。
振り向く。
アルベルトが立っていた。
距離は、保たれている。
手は——
伸びてこない。
「……問題ありません」
先に言う。
それしかできない。
「そうか」
短い返事。
それ以上は、何もない。
書類を差し出される。
以前よりも。
明確に、距離を取った位置で。
(……遠い)
受け取る。
触れないように。
意識して。
距離を守る。
それが前提になっている。
それが、正しい。
そうでなければならない。
「確認を」
「……問題ありません」
答える。
わずかに。
遅れる。
「……」
沈黙が落ちる。
短い。
だが、確実に。
見られている。
観察されている。
踏み込まずに。
ただ、測られている。
(……問題ありません)
繰り返す。
自分に言い聞かせるように。
それでも。
精度が、戻らない。
「……失礼します」
これ以上は無理だ。
そう判断する。
視線を切る。
距離を取る。
そのまま、通り過ぎる。
「グレイフォード」
呼び止められる。
足が止まる。
振り向かない。
「無理はするな」
低く言われる。
短く。
それだけ。
触れないまま。
距離を保ったまま。
「……問題ありません」
反射的に返す。
自分でも分かる。
説得力がない。
「そうか」
それ以上は、何も言われない。
追ってこない。
触れない。
距離を保ったまま。
終わる。
——意図的に。
(……これでいい)
繰り返す。
それが正しい。
それが本来の形だ。
そうでなければならない。
それなのに。
足が、止まる。
ほんの一歩。
進めない。
理由は分かっている。
(……戻らない)
あの状態に。
あの距離に。
触れていた時の。
あの感覚に。
戻らない。
それが、
こんなにも——
不安定だとは。
「……っ」
呼吸が、わずかに乱れる。
抑え込む。
問題はない。
そうでなければならない。
それでも。
理解している。
もう。
前と同じ状態には、戻れない。
戻れないまま——
進むしかないことを。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
満たされない理由から、
目を逸らしきれなくなっていた。
そして——
それを、
“必要だと認める寸前”にいた。
距離は、選ばれました。
まだ名前はありませんが——もう、誤りではありません。




