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天憫罪(旧題:浴槽は舟には成り得ない)  作者: 露おちぬ
第1章 戸は彼らを分かつもの
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第8話 石

第三校舎の一階の窓の桟を乗り越えて現れた2人は、覚悟を決めた表情をしていた。


端山が口を開いた。

「そんな姿になって…痛かったよね。寒かったよね。」

部活で指示を出し慣れていることがわかる大きくはっきりとした発音だが、口調は柔らかい。

幼い我が子に話しかけるような声音だった。

女の血走った目が、幼子のように純粋無垢な色に染まった。

怖い夢を見た子が親の声に安心するような様子に、夢で見た親子の姿が脳裏を掠める。

空知要の予想が正しいのであれば、端山と間川は夢の親子と関係がある。

空知要としては祖先が無難な線だが、生まれ変わり、幽霊が憑りついたなど、人間には想像が及ばない事象が関わっているのだろう。

何にせよ、端山と間川は目の前の巨大な女の親であるらしい。


「ああ…吾子、私たちの愛しい子…」

『お…おかあさん…おかあさん…あたまを…なでて…』

はじめて女性が言葉を発した。

端山が“母親”となれば、勇ましく地を踏みしめて女を見つめる少女こと間川が“父親”であるらしい。

端山が女の元に駆け寄り、頭部に抱きついた。

涙を流しながら、毛流れに沿って頭をなでる姿は、夢で見た母親の行動と合致していた。

間川もスカートをなびかせながら女性の元にたどり着いた。

「父さんは手を握ろうかな。」

間川は精悍さを感じさせる笑みを浮かべ、地面に転がったままの右手に抱きついた。

大きな右手がそっと動き、間川を包み込んだ。

夢と同じ構図、夢とは異なる姿

夢の中の少女と目の前にいる女は、同じ満たされた笑みを浮かべていた。


空知要の灰の瞳の奥で、うまく画面が切り替わらなかったときのように砂嵐が起きた。

1秒程度の出来事だったが、砂嵐の後、空知要の瞳には校舎裏の出来事は映っていなかった。

灰の瞳には、女の生前に起きたことの出来事(すべて)が映っていた。


女こと童心の奉神は、突如訪れた幸せを堪能していた。かつて、奉神に選ばれる前は女は人間だった。

農村で生まれた女は、貧しいながらも両親の愛を一心に受けて幸せに過ごした。常ならば同村の男子と結ばれ田畑を耕して生きていくはずであった。彼女にとって不幸だったのは、彼女の笑みが地方貴族の心を射止めたことだった。田畑を耕し、汗を拭い笑みを浮かべた彼女は地方貴族にとって輝かしく、何よりも尊いものに見えたのだ。


さて、どのような方法で地方貴族は女を手にしたのか。当時は現代よりも身分差が明確に存在していた。いずれ女を囲うにしろ、身分差の存在は厄介だったのである。地方貴族は女の身分を誤魔化すための下準備として、手始めに女の両親を物言わぬ骸と変えた。田畑は獣に荒らされたかのように細工をし、村には女の両親が失踪したことにより神の怒りを買い、村も呪われたのだと噂を流した。


かくして、地方貴族は女を手中に収めた。

正妻ではなく、屋敷の奥の奥、ただの寵愛の対象として…。夫と宣う男と夜を過ごし、迎えた何度目かの朝に女は真実を知った。口の軽い侍従たちは、女が聞いているとも知らずに会話を続けた。「自分の両親を殺した男と懇ろなんて気が知れない」と。

女は慟哭した。重たい衣のまま縁側へと駆け出す。

外へ出て村へと向かい、真実を知りたかったのだ。

しかし、女は慣れぬ重い衣の裾に躓いた。

躓いただけであれば、まだ倒れこまずに済んだのかもしれない。不運が重なり、女の存在に気付いた侍従たちが追いかけてきていたのだ。彼女が躓いたとき、侍従たちは女の裾を捉えた。複数の思いもよらぬ力が女にかかり、女は体勢を取れないままに縁側へと倒れていった。


倒れた先には夫を名乗る鬼のような男が愛でていた庭石があった。

女は庭石に頭をぶつけた。

女の記憶はそこで途絶えた。


次に目が覚めた時には、女は奉神になっていた。

不死国という、死の概念がなく神妖、奉神が統治する不可思議な世界。与えられた屋敷に閉じこもり、時折役目を熟しながらも、胸底に虚しさが募っていった。長い時を一人で過ごしたように思う。


ある日、女の眼前に“戸"が現れた。垣間見れば、姿形は違えど在りし日の父母の面影を持つ男女が笑みを浮かべて語り合っているではないか。

女は、そっと手を伸ばした。

人間としての死以降、初めての自発的な行動であったように思う。

戸をこじ開けて、手を伸ばした先には男子がいた。

男子の背を手は通り抜けたが、女と男子の間に繋がりが生まれたことに女は気づいた。その日以降、女は父母の面影を持つ男女を、戸を通じて見守り続けた。時折、男女を泣かすような不届き者も現れた。奉神としての力で組み伏せようとしたが、あえなく返り討ちにされ、数百年ぶりに痛みに呻いた。

様々なことがあれど、女は男女の隣に行きたいと切望した。奉神は人とは異なる存在である。真体という神としての女の身体は、戸を通れなかったが気付いた時には6分割された真体が横たわっていた。

戸を利用し、現国に接続した。

以上が、女が現国に顕現するまでの流れである。


巨大な身体の部位がばらばらと地に落ちている狂気的な状況の中、かつて非業の結末を迎えた親子は、再会の幸せを享受している。女は死に目にも立ち会うことが出来なかった両親の温かさに触れて涙を流していた。


正直、展開についていけていない空知要でさえも、やや涙で視界が歪むような光景であった。


しかし、現国(うつしくに)に無許可で真体(しんたい)を表した奉神(ぶしん)は“彼ら”に捕縛される定めにある。

「ここまでは見逃してやったんだ。もういいだろうよ、童心の奉神(どうしんのぶしん)。」

女の目が空知要の隣を見つめた。

空知要の隣には、タイトなブラックスーツに痩身を包んだ男が仁王立ちしていた。

右足に重心を掛けているためか、身体は傾いでいるものの、銀幕スターのように恰好が良い。顔を覗き込めば、立ち姿の格好良さに反して目の下にクマを作り鬱屈とした雰囲気を巻き散らしている。

長い持ち柄の先に提灯がぶら下げられており、提灯の淡い朱色の光に照らされていても不健康そうに見える辺りは、手の施しようのない疲労度が窺える。

誘惑の奉神(ゆうわくのぶしん)…。現秤探題(げんしょうたんだい)…待っていてくれたの。』

鬱屈とした男は、誘惑の奉神という名称らしい。

深みのある渋い声音が、音楽室に現れたもう一人の奉神であるのだと伺わせた。

「おうよ。“すべてが開いた”二週間前から、お前さんが現国に顕現しようとしていたことは知っていたんだ。ただ、何事にも制限がある。無断で現国に干渉した罪は重いぞ。暫くお前は幽閉だな。」

『たまたま戸が開いていたからのぞいてみたら、おかあさんたちがいたの。うれしかったな。』

こてんと彼女の頭が動いた。幼子が無邪気に首を傾げたような愛らしさがあった。

「たまたま会いに来たってか。童心のお前が嘘を吐くはずもなし、嘘じゃないんだろうな。」

『からだ、ばらばらになったらとおれたの。』

「真体のまま現国に来ようとするなよ…。」

『からだがそろったら、おかあさんたちとおなじぐらいになれる?』

「すぐじゃむりだ。手続き踏めば、方法を教えてやるよ。」

『…からだ、ひとつ足りないの。』

不穏な言葉に、誘惑の奉神は眉をひそめた。

眉間の皺が深く刻まれて、爪楊枝を挟むことが出来そうである。

空知要もつられて、眉をひそめた。

確かに校舎裏に現れた時から、真体の部位がひとつ足りないとは感じていた。

ただ、時間差なのではないかと思い込んでいたのだが…。

誘惑の奉神は淀みなく端的に問いかける。

「不死国においてきたか?」

『……ううん…もってきたのに…ひとつたりない。』

「誰かに奪われたか?」

『……たりない。ない…ない…。』

落ち着いてと端山と間川が言葉をかけても、彼女の耳には届いていないようだった。

ない、ない、繰り返し呻いている。

『あしがない』

巨大な女性の姿、童子のような声、感情の抜け落ちた身体の一部位がないという申告

空気が淀み、圧が増していた。生ぬるい、気持ちの悪い風が空知要の肌を撫ぜた。

彼女の真体が顕現してから消えていたはずの白い戸が、空知要の背後に現れていた。

戸が、開いている。


ころり


戸の合間から何かが転げ落ちてきた。

転げ落ちてきた、人の小指ほどの塊は石である。

石は、足と同じ形をしていた。


『あ…』


彼女は父母を見つめた。

唇は“あ”の形を取っている。

瞬きの間もない。

目を見開いた両親と、誘惑の奉神、空知要の前で彼女は静かに石になった。

ちいさい、ばらばら

真体と同じ形をした小さな石が、陰鬱な校舎裏の地面に転がった。


白い戸が独りでに閉まる。


温かな再会の余韻は見る影もなく、端山と間川の悲痛な叫び声が響き渡った。



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