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食い意地

「何やってんのよ!」

 同僚、菊池沙耶香の強烈な拳を僕は躱さなかった。衝撃を受けた刹那、目の裏が眩しくなる。その衝撃は立っていられなくなるほどのもので思わずうずくまる。

「菊池……、痛い……。」

 殴られた理由はわかっている。Bakery-Nのパンを菊池の手元に届けなかったからである。

「アタシの心が痛いわよ!午後の体力どうすればいいのよ!」

「ば、売店でなんか奢るから」

 こんなに菊池が怒るのも珍しいのだろう。ここは詰所の奥ではあるが、周りの同僚もざわつきながら仕事なり休憩なりに立ち去る。

「売店?!アタシは、ベーカリーエヌのパンが食べたかったのよ!」 

 さっきから口調が若干女らしい感じになっているのは謎だが指摘すればもう一発拳をもらいそうになるため言わない。口調は女らしくなっても、顔にはどんどんシワが寄って男みたいな顔つきになっている。かくいう僕もこんなに菊池に怒られたのは初めてであった。いつもは軽く貶す程度の菊池がここまで怒るというのは、余程あそこのパンが食べたかったに違いない。

「なんで、買わなかったの?」

 一文字一文字にアクセントをつけながら菊池は僕に問う。うずくまる僕は菊池を見上げ、見下ろす菊池の眼光はより鋭いものへと変わる。

 菊池になんて言おうか。

 いっぱい並んでいて買えなかった。何故並ばなかったと聞かれるだろう。そもそもまだお昼休憩は30分以上残っているのだ。その言い訳は苦しい。店にはすぐ買えるテイクアウト用のパック詰めされたようなものもあるのだ。人がたくさんいたからといって買えないようなことはない。

 お腹が痛くなった。言い訳の王道だが先ほどお腹を殴られる前にそういったニュアンスを仄めかしていなかったからすぐにバレるだろう。大体お腹が痛くなってパンが買えないというのこそ結びつかない。

 売り切れていた。これは有り得ないだろう。まだお昼なのだ。すこし待てば次のが焼き上がるでしょなどと言われれば何も言い返せなくなってしまう。

 お金が足りなかった。……違う意味で再び殴られそうだ。

 どうしようか。菊池に対して答える言葉がない。もはやこんなに時間をかけていたら今からどんなに辻褄があったことを言おうとすべて言い訳で処理されてしまうだろう。

「人に、会ったんだ」

 僕は正直に言うことにした。

「人?」

 言い訳にもならないことだと判断されたのか、ただ驚いただけなのか、菊池は素っ頓狂な声を上げた。

「うん、その人と会って、話をしたんだけど、途中できまずくなって、逃げてきた」

 逃げてきたと発したワードにチクリと体のどこかが痛むような感覚を覚える。そうだ、僕は逃げたのだ。

「お、おう」

 見上げる菊池の顔は呆気にとられていると感じるものだった。

「ごめん」

 沈黙に耐えれず僕は許してはもらえないと確信できる謝罪を述べる。

「その人って?」

「えっ、あ、眼科の患者さん」

「は?なんでアンタと眼科の患者さんが接点あるんだよ。知り合い?」

 僕は驚いていた。知り合いと指摘されたことではなく、何故菊池がこの話題を掘り下げているのかということで。掘り下げて嘘の言い訳かどうか確認しているのだろうか。

「知り合いってわけでも、ない、かな……?むしろ今日初めて知り合った……と言いますか?」

「なんで聞く。嘘なのか?」

「いやいや、嘘じゃあない。断じて、うん」

 一度は普段の表情に戻って会話が出来たのに、再び菊池の顔は般若のごとく……これを口に出したら腹にパンチどころじゃ済まないだろう。

「嘘では?」

 覗き込む様にして菊池の顔が迫る。いくら般若のような形相でもこいつは女子だし、顔立ちは整っている。こんなに近づかれるといくらなんでも少し照れる。

 お互いの鼻と鼻との距離が三センチくらいに近づいたところで菊池は静止する。お互いの視界は、いや僕の視界はすべてが菊池になる。

「ない」

 僕は震えた声でそう口にした。菊池の吐息が頬にあたってくすぐったい。菊池も同じなのだろうか。

 再び沈黙が襲うが今回は短かった。

「わぁーかったわ。もういい腹減った」

 菊池は素早く立ち上がる。立ち上がる際に菊池の短い髪が起こした風はりんごの香りがした。そのまま僕に人差し指を向け言い放つ。

「売店でなんか奢れよ」

「わかった」

 せっかく許してくれそうなので敢えて反抗はせずに受け止めることにした。菊池は満足したように表情をころっと変え、笑顔になったかと思うと僕に向けた指の形をほどき手を差し出す形にした。この手を取り僕は菊池に立たされる。視界は急に転換し、軽い立ちくらみを覚える。

「あっ、今度誰かになんかちょっとオシャレなお店でとっても美味しいものおごってもーらおっ!」

 普段の口調ではないかわいらしい女の子のような声で誰に言うでもなく菊池は発した。

 わかってる、売店なんかじゃ許してはもらえないことは。

 ほら、いくよ、と菊池に腕を引かれながら歩く。明るい茶色の髪の毛が動く速度と同じ速度で歩く菊池の顔はもう怒ってはいないようだった。機嫌が直ってくれたようで安心する。同時に財布の中身の余裕に不安を覚えたのは言うまでもあるまい。


 売店に着くなり菊池は今まで握っていた僕の腕を放し一人で店内へ行く。やがてバランスを保ちながらおにぎりを三つと、大きい牛丼と親子丼を抱えて再び僕の前に現れる。

「僕の分まで買ってきた……ってわけじゃないんだよな」

「あたりまえだろう」

 いやいや、女の子がこんな量食うのは全然当たり前じゃない。おにぎりも見れば焼肉カルビとか肉マヨネーズなどと脂の多そうなものばかりだ。

「菊池……お前、いつもこんな量を食べているのか?」

 看護師は結構体力を使うため、同じ同僚の女の子でも普通の女子よりは食べるのは気付いてはいたが。

「三年もいて気づかなかったのかよー、お腹すくんだよ」

「たしかにお腹は空くからな……。ん?まて、三年もいてそういえば初めてじゃないか、こんなこと」

「んー?そうだなー」

 菊池は僕の話半分で今度は傍のお菓子を選んでいる。僕が普段ご飯を食べに売店来るときはみんなと時間が合わなかったからなぁ。そもそもこんなにお昼でまったり出来るのさえ何ヶ月ぶりかという感じだ。まだお昼休憩は三十分くらいある。思ったよりパン屋にいた時間は短かった。あの件もほとんど一瞬で実はあまりよく覚えていない。担当の看護師と嘘を吐いたのは微かに覚えている。

 今度はこれの言い訳も考えなければ……。

 などと考えていると菊池はお菓子を弁当の上に器用に載せている。僕に持てと言わんばかりに厭らしく菊池は弁当の上にスナック菓子の袋を積む。

 僕はカゴを取りに行き、その途中でおにぎりを二つとって菊池のところへ戻る。

「ほら、これに入れ」

「サンキュー!」

 僕が言い終わる前に菊池は積んだものをぽいぽいとカゴに入れる。おにぎりが二つしかなかったカゴは重くなり僕が入れたおにぎりは見えなくなっていた。

「……しかし、パンが食べたいと言ったのに買ったのはご飯モノばっかなんだな」

 しまった、今のは言わない方がよかったか。と思う前に菊池はもう口を開いていた。

「あはは、相川くんってそんなこと聞いちゃうんだー?」

「……悪かった」

 売店のパンはあまり美味しくないことで有名なのをすっかり忘れていた。普段も僕はご飯モノを好んで昼食にしていたのだから。

「で、せっかく今日久しぶりに美味しいパンが昼食で食べれると思ったらコレだよ。おい、どうなってんだぁ、相川くぅん?」

 口調も表情もコロコロ変えて器用なやつだ。

 菊池はさらにおにぎりを三つ、僕のカゴに入れて会計へ送り出した。

 

 総額2350円。逃げた代償と余分なことを言った罰は思ったより僕の心と財布を抉る結果となった。

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