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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
二章 欠けた家と湖上の月
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ふたつを凌ぐもの

 アパートの最後の階段を降りたとき、かけられた声に顔をあげた。低い外灯の横に、白髪混じりの髪の長い中年の女が立っていた。怪訝そうに桐生を見ると、二度目の声がかかった。


「うちの住人の、知り合いの方ですか?」

「こんばんは。遅くにすみません、いま帰るところです」


 桐生は足早にその場を離れ、停めた自転車にまたがった。


 女はなにも言わなかった。明らかに不審者だと疑っているような簡潔明瞭な面持ちだ。俯いたままペダルに脚をかけ、お辞儀だけした。


「あの」桐生は振り返って女に告げた。

「二〇五号室の友人の部屋に、叔父だと名乗る男が来ていて──合鍵を持っているみたいでした」


 女は一瞬表情を強張らせたが、直ぐに和らげた。

「お友達のかた? 教えてくれてありがとうございます。さっき住人から大きな物音がしたって電話があったんです。お名前、伺ってもいいですか?」


「桐生といいます」


 小雨の中、ペダルを踏み込んだ。いまの女が部屋を見に行くか、誰かを連れ添って様子を窺うかもしれない。さすがに管理人には、暴力は振るわないだろう。


 勢いよく自転車を走らせた。次第に強まっていく雨に、上着から染み込んだシャツが身体に(まとわ)わりつく。気持ちに纏わりつく不快なわだかまりが、更に増幅した。


 当然のことながらその後、ジーンから連絡は無かった。年が明けても、くだんのアパートの出来事が頭から離れない。また今年も実家には帰らなかった。あの家は桐生にとって、(つい)棲家(すみか)にもならない空虚な所在だった。


 院内ではまず出会うことのない父が昼休憩に職員食堂に現れ、桐生の隣に来た。同期たちがトレイを持って、あからさまに離れていく。


「どういうことだ」

 相変わらず出しぬけなうえに、不躾だ。


「順番にお願いします」

「年始は帰れと言っただろう」

「忙しくて」


 前を見ながら、散っていく同僚たちに申し訳なさと妬ましさが同時に募る。


「おまえ、携帯は持ってないのか」

「さすがに持ってますよ。いくつだと思ってるんですか」

「誰のおかげで、いまの生活が出来てるのか分かってるのか」


 陳腐で、且つ尖った物言いに辟易する。外科医療技術意外に、この人が抜きん出ているものはなんだろう。桐生はプラスチックのコップを握りしめた。


「淳も真琴も、会いたがっていたぞ」

「へえ」


 四歳になる腹違いの妹と出会ったことは、皆無に等しい。普段は東京に在住している連れ子の兄が俺に会いたがっているなんて、父の嘘にしては滑稽だ。再婚相手の話しが出てこないところが、傍ら痛い。失笑の代わりに咳払いで堪える。


「前期が終わったら家に戻れ」

「どうしてですか」

「おまえ、女は」

「食堂でする話しじゃないでしょう」


 次第に鬱々としてくる。コップに残ったぬるい水を飲んだ。


「入れあげるなよ」

「なんのことです」

「家格に傷を付けるなと言っている」


 押し黙ったのは、腹立たしさが理由ではない。猛烈な嫌悪感が押し寄せたからだ。

「おとうさん」

「なんだ」

「俺が見た、最後の家政婦とは関係を持ちましたか?」

 答えない父に、ほくそ笑む。じぶんはこの男とは違う。


「出来が良いと思ったことはないが、やはりおまえは母親似だな」


 憶えてもいない、死んだ母親さえも愚弄する。嫌悪が憎悪になる前に切り出した。

「良かった、誘われたんですが断りました。危うく兄弟になるところだった」


 音を立てて椅子から立ち上がり、トレイを持った。昼休憩も残り少なく、食堂内の職員はまばらだった。無駄な時間を過ごした。


「座れ、まだ話しがある」

「午後からオペが入ってますから」

「座れっ」

 食堂内に声が反響する。ここで飯を食っている奴らで、父の顔を知らない職員なんていなかった。


「いい歳をして、熱くならないでください」

 いきり立ちそうなのは桐生の方だった。胸ぐらを掴みたい気分だ。


「桐生先生」

 声に視線を投げた。よく知っている顔と小さな身体で、父子の前に立ちはだかる人物。救世主の登場に、胸を撫で下ろす浅ましい自分がいた。


「先生……蓮さんは、なんていうか」

 救世主の割には頼りない物腰だ。桐生は鼻を押さえて苦笑した。

「蓮さんが、お正月に帰宅できなかったのは……」


 上出来だった。充分なお膳立てだ、ありがたい。

「行こう」

 同期の川本結衣(かわもとゆい)を促した。小走りで着いてくる気配を他所に、厨房のカウンターにトレイを置いた。

「ごちそうさまでした」

 食堂で顔馴染みの、吉木(よしき)さんが手を上げて応えてくれる。


 結衣と連れ立って歩き出す。

「ごめんなさい」

「どうして」

「なんだか中途半端で」

「中途半端? なんで」

「あれじゃ、教授に分かってもらえないよ」


 中途半端もなにも、はじまってさえいない。しかし助かったことには変わりない。

「ありがとう、助かったよ」桐生がそのまま口に出す。


「本当に? 蓮の役に立った?」

 結衣が嬉々(きき)とした足取りで、桐生を見上げる。


「勿論、二つを(しの)いでいるからな。手強いんだ」

「なに、それ」

「自炊と一家団欒(だんらん)

「よく分かんない」


「当直無いから、今夜メシでも食う? さっきの礼に奢るよ」

「本当っ、じゃあ終わったらいちど家に帰っていい? 着替えたいから。あとになって用事が出来たとか、ぜったいに無しだよ」


 見なくても結衣の目の輝きが伝わる。いったい自分なんかのどこがいいのだ。六年越しの同期である結衣の期待に、どうしても添えない自分がいた。


 数ヶ月の間、ずっと考えていた。二つの疑問符が入った封筒が、目の前に投げ出さている。中身は知り得ないが、外側には〈瞭然〉という文字が見える。


『モウ ネタノカ』『キミニハ ムリダヨ』

 子どもじみた挑発に違いないが、そこには深い意味が在るように思えて仕方なかった。

 ジーンの生い立ちは、夕飯をご馳走になったときに掻い摘んで聞いていた。奴はこうも言った。


〈君のたいせつな僕のジーンが怪我をするよ〉

 不可解極まりない言動だった。


 何故ならあの夜、叔父が部屋に入ってきてから、ジーンが急に怯えるような反応をしだしたからだ。口調や顔色及び表情、声色からもよく解った。あまつさえ危険が及ぶのを恐れ、自分を逃がそうとなんども叫んでいた。ジーンが普通に日常の元で過ごせるのであれば、それで良かった。


 要は叔父を名乗る男だ。あの足蹴りを見た限りでは、日常的に暴力が行われている可能性が高かった。このまま引き下がったら、あの人の行き先はこれからどうなるんだ。面識が無いにもかかわらず、もう寝たのかと二度も訊いてくる。


 二つの言葉を安易に考察する限りでは男の嗜好、いわゆる性癖がジーンに向けられているという結果に辿り着く。しかしそんなことを初対面の他人に対し、明け透けに述べるものだろうか。あれではまるで、ジーンは自分の所有物だから他の誰にも渡さないと、大っぴらに豪語しているのと同じじゃないか。


 これは考えたくもないことだが、繰り返し行なわれていたであろう叔父を名乗る男からの加虐、ともするとそれは性的虐待だということか。これは上下の発生する関係性において、上位の者がその力を濫用もしくは悪用して、下位の者の権力・人権を無視して行う性的な侵害行為のことだ。


 昨今では〈BEAMS〉が医療機関に導入されており、院内でも講義を受けた。しかしこれらは幼い子どもや、十代の若者たちが主だった対象者だ。但し、今のこの国の法律に於いて〈性的侵害行為〉は不同意性交等罪に当たり、十六歳以下では合意の有無も問われない。叔父であろうが無かろうが、事実関係を把握さえすれば法に則り裁きを受けさせることが出来る。


 だがこれには被虐者の供述調書を元に、加虐者との関係性が白日の元に晒される訳で、それに対し加虐者は実刑をくらったとしても、五年以上の有期拘禁刑だ。悪質さを考慮したとしても、服役は長期に亘らない怖れがある。


 頭を抱えたくなる。さいごのジーンのことばや見解からしても、真偽の程は分からない。考察は自分の全くの憶測の範中であり、本人に直接訊けるはずもなく、桐生は思わず嘆息を吐いた。




「蓮っ」

 バーの棚のボトルがドミノ倒しになりそうなくらいのデカい声に、顔を上げる。左に座る結衣の鬼の形相が、逆に可愛く思えた。


「何で、ずーっと黙ってるの? ため息つきながら考えごとがしたいなら、マンションに帰ってひとりになってからにして」


「ごめん、昼間のことが気になって」

 ここはひとまず穏便にすませよう。放置していたハイボールに口を当てると、濡れそぼったグラスから水が滴った。


「教授のこと? うーん、いちど顔を見せに行ってあげたらどうかなあ。だって蓮、最後に家に帰ったのはいつ?」

「覚えてない」


「お父さんの気持ちも少しは汲んであげないと。お母さんだって、たまには蓮に会いたいんじゃないかな」

「まさか」

「蓮くんは、オンナ心に疎いのだねえ」

「再婚相手を、女の括りにいれるなよ」


 頬を膨らませる結衣が、今夜はやたらと可愛く見える。疲れが溜まっているということか。


「つぎ、何にしましょうか」

 配慮の行き届いた女性のバーテンダーが、結衣にドリンクメニューを渡す。


「これお願いします」

「僕は同じもので」ついでに桐生もオーダーを通す。

 

 結衣からメニュー表を受け取ると、ショートヘアのバーメイドが棚からブランデーを選び、ホワイトキュラソーとレモンを絞ったボディに入れる。軽くシェイキングして、グラスに注いだ。

 コースターにサイドカーを置く、華奢な肩に目を向ける。ピンと伸びた背筋から繋がる輪郭と首の細さが、ジーンに似た雰囲気を漂わせていた。


 身体を調べれば分かることなんじゃないか──不意に、桐生の脳裏に浮かび上がる。しかし即座に打ち消した。如何にも医学的な発想で、自分に吐き気がした。


〈BEAMS〉に則って言うならば、身体的虐待の外傷の部位は、臀部や大腿内側などの脂肪組織が豊富で柔らかい箇所、頸部や腋、外陰部などに顕著に表れる。


 だからと言って確証と友人を天秤にかけたら、もうそれは醜悪でしかなかった。あの叔父を凌駕する罪悪だ。ジーンを犠牲にして真実を追求しても、なにも救われない。それこそ罪と罰ってやつだ。


 ガラス張りの店内から外を見る。窓越しに映る、暗闇より手前に自分がいた。


 華やいだ繁華街の街並みに目を落とした。街中のネオンが、渇いた夜に欲を与えていた。


 なにかを変えなければならない。自分が変わらなければならない。闇より手前なら、まだ捨てたもんじゃない。行き着く先に見通しだってある。


「蓮、あのね」

「なに」

「あの、いちど行ってみたいんだ」

「どこに」


 結衣が言い淀む。消え入りそうな濁りのある口調で続けた。

「蓮の住んでるところ」


 グラスに浮かぶ、琥珀色の氷を見ながら呟いてみる。

「がっかりするだけだよ、俺なんて」


 結衣は可愛いし、賢い。同期の友人たちが口を揃えて言う。なぜ、おまえなんだと。おまえが羨ましいと。桐生にとって、羨ましいものなどなにも存在しない。結衣に申し訳なさが募る。


「好きなひとがいるんだ」

 結衣の視線を浴びながら、こぼした。「ごめん」


「え……そうなんだ。そんな風にみえなかったから、私ったら、勝手に……」


 サイドカーを一気に煽った結衣に、桐生が繰り返す。「ごめん……」


 俯きながら、言下に問い質してくる。

「だれ? 佑香? 愛菜? もしかして奈々美?」

 結衣が同期の名前を連ねる。返す隙もない。(まく)するように吐露(とろ)しはじめる。


「蓮の好きな人、知りたい」

 声が潤みがかり、ショートグラスを持つ荒れた指が微かに震えている。


「ねえ教えて、大学の人? 部外者?」

 ブガイシャということばが、結衣の矜持(きょうじ)を象徴しているような気がした。


「結衣の知らない人だよ。もう遅いから帰ろう」

 バーメイドにチェックしてくれと伝える。


「先に帰っていいよ、まだ飲みたいから」

「だめだ」

「蓮は、いまから好きな人のところに行けばいいでしょう? 私、まだ帰らない」


 結衣の横顔に涙が筋を引いている。桐生は構わず腕を掴んだ。


 強引に手を引っ張り、店を出た。雑居ビルの古いエレベーターに乗り込む。一四八センチの小柄な結衣の上から嗜める。


「飲み過ぎ」

「そんなに飲んでない」

「送ってくよ、タクシーと俺で」


 小さな指が、桐生のコートの袖を掴む。絡んだ視線から目が逸らせなかった。


「あのさ、好きな人がいてもいいんだ。いるに決まってるよね、当然だよね。菜々美も佑香も、ローテートの科の看護師の人たちも言ってる。蓮が素敵だって、あんな人が彼氏だったらなって。でも気にしない。私は蓮のことが七年近く、いまもずっと好きだから、みんなとは違う。だから蓮に好きな人がいても気にならない」


 潤んだ結衣の装った声が、上擦っていた。涙を湛えた瞳で桐生を見上げる。歪んだ眉の下の、赤く染まった頬を見た。


 扉が閉まり一階のボタンを押す前に、白いコートの肩を掴んだ。腰に手を回し、持ち上げるように上を向かせて唇を押し当てた。硬くなった身体を引き寄せ、薄く開いた口から中に入ると、結衣から力が抜けていくのが分かった。




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