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四葩の月  作者: 八興 心湖翔
二章 欠けた家と湖上の月
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裏表紙の記憶


「それ、気に入ったんですか?」

 古い本の背表紙を見詰めたまま動かない姿に、桐生は目を細めた。


「夕飯、どうしましょうか」

 書斎の本棚に張り付いて離れないジーンに、声をかけた。


「あ、そうだね、どうしようか? でも凄い量だね、これぜんぶ読んだの?」

「ああ、大学のときのやつもあるから」


「きみって、賢いんだね……あ、お医者さんだから当然か」

 振り向いたジーンが、決まり悪そうな笑みを浮かべた。


「学校の勉強と同じ、専門分野に特化してるだけですよ」

「そうかなあ……日本語なのに、この本見てると日本語に見えないよ。レンは外科専門の研修医なんだよね。なんだか遠いひとみたいで」


「本、好き? こっちの棚に単行本と文庫本がありますよ。そこは文献ばかりだから」

 しばらく本を漁るジーンにブラインドからの斜光が差し込み、長い夕日影を落としていた。


 九月も終わるというのに、初夏のようないちにちだった。ジーンが身じろぎもせず、一冊の古い本の裏表紙を凝視している。

「気に入ったんですか? 持って帰っていいですよ。でも、それはかなり古いかな」


「ううん、大切にしてるってことだよね。きみの部屋に来たらいつでも見られるから、いいんだ」

 ジーンが壊れ物でも扱うような仕草で、本棚にそっと古書を戻した。


 桐生が近づくと、ジーンの後ろから腰に手を回した。

「ずっと、ここに来てくれるんですか」


「当たり前でしょ、きみが嫌にならなければ……」

「どうして俺が嫌になるんですか」

「……だって」


 腰に回した手が下に降りていく。首筋に唇の感触が伝わった。

「あ、待って」


「夕飯、どうしますか……」

「レン、あの」

「食べたいもの、ありますか……」


 ジーンが桐生の手を掴んだ。

「いっ、ちょっと」


「好きなもの、教えて……」

 耳元に口を寄せる声と吐息に、ジーンの肩が跳ねる。


「ここに……引越してきませんか」

「――え?」


「あのアパートより、ここの方がセキュリティも完備してるし……上の部屋だったら安心だから……会社からもそう遠くはないですよね?」

「いや急にそんな……無理だよ」


「なにかを変えないと――変えたいんです。だって、変わったら向こう側の見通しが良くなるかもしれないでしょう?」

「向こう側?」

「上の部屋は見通しがいいから、ジーンさんの好きな宍道湖がまいにち一望できますよ」


 あの夜、レンの部屋の窓から見た宍道湖に架かる橋のリフレクションを思い起こした。護岸に行けば潮の香が漂う、汽水湖がいま目の前にある。レンが生活している一階の部屋からは、立ち木と塀に阻まれて湖は見えなかった。


「好きでしょう?」

「え」

「宍道湖」

「あ……うん、でも」

「決まりですね」

「……決まらないよ」


「あの面倒見の良さそうな白髪の管理人には、俺が交渉します」

「もう、勝手に決めないでよ、それにあの人は」

「夕飯、外で食べます? その前に湖の護岸歩いてみますか」

「え、いいの?」

「そりゃ、目の前ですから」

「じゃあ、夕焼け……公式サイトの写真みたいな……あの美術館から見える? いま行っていいの?」

「勿論、そんなに好きなんですね。あ、待って。夕日指数を見てみます」

「夕日指数?」


 桐生がスマホの画面をタップする。

「そういえば、来月誕生日ですよね? なにか欲しいもの考えといてくださいね」


 欲しいもの――欲しいものってなんだろう。いま欲しいもの? この満たされた空間でこの人の世界と同じ、いまを生きる。生きている。もう充分じゃないか、満たされている。宍道湖を一望しながらこのひとの家で暮らすなんて、自分には至って分不相応な提案だ――。


「また良からぬこと考えてません?」

「えっ」


「ジーンさんの好きなアウトドアブランド……なんでしたっけ? ほら鳥のロゴの」

「アークテリクスだよ」


「ジーンさんがよく行ってた店、神戸に姉妹店があるみたいだから……直ぐに約束できなくて悪いけど。どうせ今年も積もらないだろうし、三月くらいに行ってみますか? 店舗が大きいから品揃えも多いと思うし」


「ほんとう? いいの? きみ、そのころ忙しくないの?」

「境界線決めておかないと、よく分からなくなるから。大丈夫ですよ」

 頬を緩ませ目を輝かせるジーンに、桐生の口元が綻んだ。


「じゃあ俺もその店で全部ウェア揃えるから。ジーンさん、選んでもらえますか? ジーンさんのも一式買うから。好きな鳥のやつで、ぜんぶ」


「え、装備品もウェアもとりあえず持ってるからいらないよ……アークテリクスって高いんだ。トータルなんかで揃えたら息できないよ」


「の割には、目が輝いてますよ」

「も、ちが……」


「本当は紅葉シーズンがいいんだろうけど……今季はちょっと無理だから、神戸でぜんぶ揃えて五月か六月にいきます? 梅雨入り前に」

「え? どこに?」

「山にです、勿論」

「一緒に登るの? レンと?」


「鍵束峠って奥出雲山ですよね。俺、登山は全く詳しくないから。因みに、俺が持ってるジャージとかリュックや靴じゃ無理?」


「神戸でレンの装備品、ぜんぶ選んであげるっ」

 高揚感を隠せないジーンに、桐生が目を瞬いた。


「ニット素材は駄目なんだ、隙間から虫に刺されるでしょう? 山は色々な種類の虫がたくさんいるから。一緒に登った同僚なんて、十五箇所も刺されてアナフィラキシーショックになって大変だったんだよ。リュックも山専用は便利だよ。肩掛けのところにボトル金具もついてて、水筒も小さいのを小分けにして四本入るし、ポケットも痒い所に手が届くような造りなんだ。あっ、靴も登山用がいいよ。ウェアは、虫除け機能を兼ね備えてるFOX fireっていうのがあるんだけど、アース製薬が開発したんだ。アークテリクスは少し根が張るけど、機能的でデザインがお洒落なんだ。ロゴが一見、鳥に見えるんだけど、始祖鳥なんだよ。発見された化石の中で最も状態の良いベルリン標本を元に、デザインされてるんだ。空を飛ぶために羽毛を進化させた、地球上初の爬虫類なんだ。アルケオプテリクスが名前の由来なんだ。素敵な由来でしょう? あとは靴下も普通よりは分厚い……」


 いつになく饒舌に語るジーンが、言葉尻を濁した。笑みを湛える桐生の視線から、目を逸らせた。

「ごめん……いまたいせつな時期なんだよね、二年目だもんね、山なんて……」


「凄く詳しいんですね。アークテリクスのロゴのシンボルは、始祖鳥の化石だったんだ。アース製薬は服までつくってるのかあ。防虫機能搭載のウェアなんて凄いですね」


「来年の梅雨入り前……レンは三月生まれだから、そのころは二十六歳だね? 三年目の後期研修だから、研修医は卒業して、ついに新人外科医?」


「調べたの?」

「だって、知り合ってもう一年なのに、きみの仕事のことあまり知らないから」

「他は知り尽くしたのに?」

「やっ、違……そんなこと言ってない」


 俯くジーンに、桐生がスマートフォンの画面を見せる。

「今日の入り日指数、一〇〇だって。十九時です」


 ジーンが桐生の差し出したスマホを覗き込む。

「わあ、綺麗。入り日指数って、宍道湖に映える夕日が見える度合いのことなんだ。あ、ホントだ。今日は、はっきりと夕日が見られそうって書いてある」


「じゃあ、山と引越しの話しは、宍道湖見てメシ食った後ってことで。夕飯、ジーンさんの好きなあん肝がある、例の鮨屋に行きますか」


 ジーンが眉を下げながら桐生を見た。瞼の裏が熱くなった。鼻の奥がツンとした。手を伸ばしたくなった。でもいちねん経っても、上手くできなかった。伸ばせない手のひらを握り締めた。


 鼻を赤くして俯くジーンの横顔が、桐生の瞳に映り込んでいた。一歩、ジーンに歩み寄った。

 真っ黒な瞳が、緑がかった瞳と綯い交ざった。そのまま合わさると、寄り添うように重なっていった。






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