第5話「予備だったはずの手が、震えていた」
身元不明の女性――その一文を、ミアは何度も目でなぞった。
フォンターナ家関係者と推定、とある。けれど確定ではない。確定ではないのだと、ミアは自分に言い聞かせる。
「調べましょう」
気づけば、そう口にしていた。エドヴァルドが顔を上げる。
「お前が、か」
「わたしだからこそ、です」
ミアは書状を机に戻し、エドヴァルドの目をまっすぐ見た。
「わたしは誰の娘でもない、ただの予備です。アネット様を知っている使用人たちも、わたしの前では気を抜きます。旦那様が直接動けば警戒される話でも、わたしになら話してくれるかもしれません」
言ってから、自分でも少し驚いた。こんなふうに、自分の立場を道具として使う発想が出てくるとは思わなかった。これまでは、ただ耐えるための盾でしかなかったのに。
エドヴァルドはしばらく黙ってミアを見ていた。その沈黙が長くて、ミアは手のひらに爪が食い込むのを感じる。
「……分かった。だが、無理はするな」
「無理、ですか」
「お前まで消えられたら、たまらない」
その一言に、ミアの心臓が跳ねた。深い意味などないのかもしれない。ただの、客用の花嫁を失いたくないという事務的な言葉かもしれない。それでも、胸の奥に小さな火が灯るのを止められなかった。
翌日から、ミアは屋敷中を歩き回った。庭師に世間話を振り、厨房のパン焼き係にお茶を淹れてもらいながら三年前の噂を尋ね、洗濯場ではロッテに菓子を分けながら少しずつ心を開かせていった。
三日目の午後、厩で老齢の馬丁からようやく手がかりを得た。
「レオンハルトか。あの子は腕のいい厩番だったが、アネット様に懸想してるのは誰の目にも明らかだったよ。けどな、本当に危なかったのは別の話だ」
「別の話、とは」
老馬丁は声を落とした。
「アネット様の侍女頭――ベルタだよ。あの人は、旦那様の後妻の座を自分の姪に継がせたがっていてな。アネット様が邪魔だったのさ」
ベルタ。その名前には、ミアも聞き覚えがあった。屋敷で一番古株の使用人で、いつも鋭い目でミアを値踏みするように見てくる女だ。
厩を出て屋敷に戻る途中、ミアはふと視線を感じて振り返った。渡り廊下の先に、ベルタが立っていた。
「ミア様。随分と、あちこち嗅ぎ回っていらっしゃるようで」
笑みの形をした口元に反して、その目はまったく笑っていなかった。
「お散歩ですよ。この屋敷のことを、少しでも知りたくて」
「結構なことです。ですが――知りすぎるのも、身のためにはなりませんよ」
すれ違いざま、ベルタはそれだけ言い残して去っていった。ミアは廊下に立ち尽くしたまま、自分の手が小さく震えていることに気づいた。
(今のは、忠告? それとも)
答えの出ない問いを抱えたまま、ミアは夕暮れの屋敷を見上げた。




