第七話 世界のかけら
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天井がある。
木材と布で組まれた、簡素な天井。
外から差し込む光が角度を変え、昼ではないことだけが分かる。
アヤメは、ゆっくりと目を開けた。
体は重かった。
筋肉の一本一本が、まだ自分のものではないような鈍さを抱えている。
指先に力を込めると、じわりとした痺れが遅れて立ち上がった。
「……起きた?」
落ち着いた声がした。
視線を横に向けると、椅子に腰かけていたミラがこちらを見ていた。
茶色がかった髪をざっくりと束ね、腕を組んだまま少しだけ微笑む。
「ここ、診療所。覚えてる?」
アヤメは枕に頭を預けたまま、短く答えた。
「……うん。ここ」
声はかすれているが、言葉は途切れなかった。
ミラは立ち上がり、アヤメの額に手を当てる。
温度を確かめ、次に手首に触れ、脈を取る。
「熱はもう下がってる。心臓も、ちゃんと動いてる。……ねえ、自分で体の感じ、どう?」
アヤメは少し考え、体の各部位に順番に意識を向けた。
頭、肩、胸、腹、脚。
筋肉の疲労感はあるが、致命的な痛みはない。
「重い。でも、壊れてない」
「壊れてない、ね。……その表現、結構あってるかも」
ミラは苦笑した。
そのとき、診療所の入口が軽くノックされる。
「入るわよ」
白い布を羽織ったサラが入ってきた。
手には古びた端末とメモ。
彼女はミラと軽く目配せを交わし、そのままアヤメの枕元に立つ。
「気分は?」
「……動きづらい。でも、さっきよりマシ」
「さっきはほとんど意識なかったのよ。起きてしゃべれてる時点でだいぶおかしいわ」
サラは淡々と脈を測り、瞳孔の反応を確かめる。
小さく顎を引いて、ひとつ息を吐いた。
「心拍は少し早いけど乱れてはいない。筋肉の痙攣も今は落ち着いてる。……正直、反動で二、三日は寝たきりでもおかしくなかったのに」
アヤメは首を傾げる。
「反動、って?」
「さっきの“雷みたいなもの”よ。あれがシックスセンスだとするなら、普通のホルダーがあんな出し方をしたら、まず体がもたない。筋肉と神経が焼けついてるレベルの負担」
サラの視線が、アヤメの腕や脚をなぞる。
包帯の下にあるはずの損傷は、すでにほとんど修復されている。
「でもあなたは、筋肉痛レベルで済んでる。……応急処置しか知らない私から見ても、これは“説明できない”わ」
そこで言葉を切り、サラはミラの方向をちらりと見た。
「体の詳しいことは、今は置いておく。とりあえず命に別状はない。少なくとも、今すぐ私にできることは終わりね」
ミラが安堵したように肩の力を抜く。
「よかった……」
「ただし」
サラの声が少しだけ強くなる。
「動き回るのはまだ禁止。歩くのも最低限。ベッドから離れるときは誰かを呼ぶこと。いいわね?」
アヤメは小さく頷いた。
「……わかった」
「返事だけは素直で助かるわ」
サラは微かに口元を緩めると、診療所を出て行った。
布の仕切りが揺れ、足音が遠ざかる。
静けさが戻る。
ミラは椅子をベッドのすぐ近くまで引き寄せて座り直した。
「……世界のこと、知りたい?」
アヤメは少しだけ考えてから、頷いた。
「知りたい。知らないと、判断できない」
「判断、ね。……アヤメらしい」
ミラは息を吐き、天井を一度見上げた。
それから、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。
「まず前提から話すね。あなたが目を覚ます、ずっと前の話」
アヤメは目を閉じ、耳だけを澄ませた。
「数百年前。世界に、超巨大な隕石が落ちたの」
淡々とした声。
だがその裏には、歴史の重さを知る者の震えが少しだけ混じっていた。
「その衝突で、海が盛り上がって、大地は裂けて……人類の半分が死んだって言われてる。正確な数なんて、もう誰にもわからないけどね」
アヤメの脳裏に、廃施設で見たような瓦礫の光景が重なっていく。
崩れたビル。割れた道路。ねじ曲がった鉄骨。
「でも、本当の地獄はそこからだった」
ミラの声が、ほんの少し低くなる。
「隕石の落下と一緒に、世界中に“何か”が広がった。目に見えないまま、空気とか水とか、大地に染み込んで……そのうち、形を持ち始めた」
アヤメはうっすら目を開けた。
薄暗い天井の向こうに、紫色の皮膚がよぎる。
「それが、ヴォイド」
ミラはゆっくりと言う。
「人間でも動物でもない、名前のない生き物。意思も、怒りも感情も見えない。ただそこにあるものを、片っ端から“喰って”いく。食料も、街も、人も、全部まとめて」
淡々とした説明。
その中に、かすかな苦味があった。
「そのせいで、人類はさらに半分以上消えた。隕石の前から比べると、もうどれくらい減ったのか、誰にも正確にはわからない。今、私たちが暮らしている場所はね――」
ミラは指を一本立て、宙に描く。
「地球の表面のうち、だいたい五パーセントくらいしか“人が安全に住める場所”がないって言われてる」
「ご……パーセント」
アヤメは数字を頭の中で並べた。
広さの感覚はない。
けれど、“ほとんど残っていない”ということだけは分かった。
「隕石と同じ頃、“ゼノ・マトリクス”って呼ばれる正体不明のエネルギーが世界を覆ったの。原因は隕石だって説もあるけど、今となっては確かめようがない。ただ――」
ミラは右手を握ったり開いたりしながら、続ける。
「そのゼノ・マトリクスに“適合した”人たちが出てきた。普通の人じゃなくて、世界の環境そのものと噛み合った人たち。彼らは、火とか氷とか雷とか……自然現象みたいな力を扱えるようになった」
アヤメは、雷膜の感触を思い出す。
皮膚の下を走った光。
骨を叩いた振動。
音の消えた一瞬。
「その人たちを、“ホルダー”って呼ぶの。ゼノ・マトリクスの力を“持つ者”。火、氷、雷、風、土。五つのうちどれかひとつに目覚める」
ミラは、アヤメの目を見た。
「あなたのは……雷、でいいのかな」
アヤメは少しだけ視線をそらした。
「……わからない。でも、あれは、雷みたいだった」
「うん。私もそう見えた」
ミラは微笑む。
その笑みは、驚きや恐怖よりも先に、安堵を含んでいた。
「ホルダーは世界の人口の二割くらいって言われてる。多いように聞こえるかもしれないけど、ヴォイド相手に戦える戦力としては全然足りない。しかもね――」
ミラは指で小さな円を描く。
「“適合率”っていうのがあるの。ゼノ・マトリクスとの噛み合いの良さ。生まれた瞬間に数値が決まって、一生変えられない」
「……数値?」
「うん。ざっくり言うと、十五パーセントくらいが普通。二十を越えると優秀。三十なら、どこに出しても一流のホルダー。五十パーセントなんて聞いたら、みんな腰を抜かす。人が耐えられる限界だって言われてるから」
アヤメは黙ったまま聞いていた。
自分がどこに属するのか、その時点ではまだ分からない。
ただ、“限界”という言葉だけが耳に残る。
「適合率が高いほど、シックスセンスの威力と密度は上がる。火なら温度が、氷なら凍結範囲が、雷なら出力が……ね。でも、同時に身体への負荷も跳ね上がる」
ミラは自分の胸のあたりを軽く叩いた。
「だから、鍛える必要があるの。シックスセンスの“精度”を。どう出して、どう抑えて、どこで止めるか。それができないと、自分の力で自分が死ぬ」
アヤメはぼんやりと指先を見つめた。
そこには今、何の光も走っていない。
「ゼノ・マトリクスに適合した人たちは、ヴォイドに対抗するために集められた。ホルダーを中心に組織された戦線。それが――ゼノス」
ミラは少しだけ遠くを見る目をした。
「ゼノスは世界に七つ、拠点を持ってる。そこは、都市って呼んでいいくらいの規模。厚い壁と防衛線と、そこそこ安定した生活。……私たちみたいな小さな集落は、その周りでなんとか生きてる」
「ここは、ゼノスの拠点じゃない?」
アヤメは問いを挟む。
「違う。ただの辺境の集落。ゼノスからは“管理対象のひとつ”くらいの扱いかな。たまに物資が回ってきたり、巡回の部隊が立ち寄ったりはするけど、守ってもらえる保証はない」
ミラの声には、諦めとも現実主義ともつかない調子が混ざっていた。
「だから、ここにいるホルダーはみんな、ゼノスの正式部隊じゃなくて、拠点を守るための半分素人の戦力。ガレンも、ルカも、エマも」
「でも、強かった」
アヤメは思い出す。
炎の弧。
白い霜。
盛り上がる土の壁。
ミラは小さく笑った。
「うん。あの子たちは頑張ってるよ。……でも、さっきの中型みたいなのが出てくると、本当は力が足りない。正直、今回だって運が良かっただけ」
「運じゃない。わたし、やった」
「そうね。あなたがやった」
ミラの視線が、一瞬だけ鋭さを帯びる。
それから、言葉を選ぶように続けた。
「その話を、ちゃんとしようか」
ミラは椅子から立ち上がり、診療所の片隅へ歩いていった。
棚の上から、金属容器を一つ取る。
蓋を開け、中身を慎重に布の上に置いた。
アヤメは上体を起こし、覗き込む。
そこには、黒く変色した“何か”があった。
岩の欠片のようでいて、どこか有機的な線を残している。
内側は炭のように砕け、表面には細い亀裂が蜘蛛の巣状に走っていた。
「……中型の、欠片。胸の辺りの組織よ」
ミラは視線を落とし、低く言った。
「ガレンが少しだけ切り取ってきてくれた。燃やして倒したのか、氷で砕いたのか、それとも圧殺したのか……確認するためにね。でも、どれにも当てはまらなかった」
アヤメは指先を伸ばそうとして、ミラに軽く制される。
「触らないで。安全は確認したけど、念のためね」
布越しに見えるその断面は、自然な破壊ではなかった。
熱で溶けた痕とも違う。
外からの衝撃で砕けたのとも違う。
あまりに細かすぎる断裂。
まるで内部から同時に壊されたような痕跡。
「焼けてるのに、焼け落ちてない。砕けてるのに、砕けた方向がバラバラ。……何度見ても、私には理解できない壊れ方」
ミラは小さく息を吐いた。
「サラも言ってた。“こういう崩れ方をするのは、普通の熱や衝撃じゃない。もっと高密度の、瞬間的な何かだ”って」
アヤメは自分の胸に手を置いた。
あの瞬間の感覚が蘇る。
体を締めつけた光。
皮膚の内側を満たした圧力。
外へ弾け飛んだ“膜”。
「……わたしが、やった」
「そう。あなたがやった」
ミラははっきりと言う。
「普通のホルダーがあんな真似をしたら、さっき言ったみたいに死んでる。ヴォイドもろとも、自分の神経も焼き切ってね」
アヤメは黙って聞いていた。
「でもあなたは、生きてる。息もしてるし、話もできる。筋肉も、少し寝ただけでここまで動いてる。……正直、怖いくらいに“普通じゃない”」
ミラはそこで言葉を区切り、アヤメの目をまっすぐ見た。
「だからって、敵だって決めつけるつもりはない。あの中型を倒してくれたのは事実だし、私を庇ってくれたのも、ここにいるみんなを守ろうとしたのも事実」
アヤメは視線を落とす。
「わたしは……ミラを守ろうとしただけ」
「知ってる」
ミラは即答した。
「だから、これだけは先に決めておきたいの。あなたのことを、ここではどう扱うか」
「どう、って?」
「“得体の知れない兵器”として怖がるか、“よく分からないけど一緒に生きてる人間”として見るか」
アヤメは少し考えた。
「ミラは、どっち?」
「後者」
迷いのない声だった。
「私はあなたを拾った。あそこで見て見ぬふりしたら、きっと一生後悔したと思う。……だから、怖くても、その結果からは逃げない」
アヤメは、ほんの少しだけ瞬きをした。
「でも、ゼノスがこの話を聞いたらどうするかは、正直分からない。あなたみたいな出力のホルダーを、“欲しがる”のか、“危険視する”のか」
ミラは金属容器の蓋を閉じた。
「だから、今のところこれは、ここにいる数人だけの話にしておきたい。ガレンとルカとエマと、サラとジェイドと……私。あなたが嫌じゃなければ」
「……隠す?」
「隠すっていうより、“全部は言わない”って感じかな。中型を倒したのがあなたなのは事実だけど、どれくらいの出力だったかまでは、他所に言う必要ないでしょ」
アヤメは少しだけ考え、こくりと頷いた。
「わかった。ミラがそうしたいなら、それでいい」
「それ、だいぶ危ない考え方だよ」
ミラは苦笑した。
「もっと自分を基準にしていいんだよ。“自分が嫌かどうか”とかさ」
「まだ、わからない。自分が、どうしたいか」
「そっか」
ミラは椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
「じゃあ、ゆっくり考えよう。世界のことも、自分のことも。ここは辺境で、ヴォイドも出るし、物資も少ないけど……少なくとも、考える時間くらいはあるから」
アヤメは天井の節目を見つめた。
その先に広がる世界の形を、今はまだ想像できない。
隕石。
ヴォイド。
ゼノ・マトリクス。
ホルダー。
ゼノス。
そのどれにも、自分の名前はない。
けれど――
「わたしのことも、どこかに、ある?」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
ミラは驚いたように瞬きをし、それからゆっくりと笑った。
「あるよ。絶対にある。……世界のどこかに、アヤメが“ここから来た”って言える場所が」
アヤメは、その言葉を胸の中で何度か繰り返した。
“ここから来た”と、言える場所。
それを探すことが、自分のやるべきことのひとつだと、何となく理解する。
「世界の話、まだたくさんあるよ。ゼノスの都市のこととか、別の拠点の話とか、中型よりもっとまずいヴォイドの噂とか」
「聞きたい」
「今日はここまで。サラに怒られる」
ミラは伸びをして立ち上がる。
「とりあえず、もう少し寝て。反動が完全に抜けるまでは、動き回るのは禁止」
「……わかった」
アヤメは素直に横になる。
体の重さはまだ残っている。
だが、意識の中にはさっきよりも多くの“情報”が積み上がっていた。
隕石が落ちた世界。
ヴォイドに喰われた大地。
五パーセントの生活圏。
七つのゼノス拠点。
二割のホルダー。
十五パーセントの適合率。
五十パーセントの限界。
そして、自分の中で弾けた雷膜。
それらはまだ、ばらばらの破片にすぎない。
けれど、いつかどこかで線になる予感だけが、かすかに胸の奥で光っていた。
まぶたを閉じると、遠くで風の音がした。
集落の外をなでる、かすかなざわめき。
世界は広い。
その広さの中で、自分がどこから来て、どこへ向かうのか――。
答えはまだ、どこにもない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
アヤメ・スターリングは、もはや“知らない世界の外側”にはいない。
そこに組み込まれ、影響を与え始めた存在なのだということ。
静かな診療所の灯りの下で、少女は再び目を閉じた。
世界のかけらを胸に抱えながら。
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