第六話 チカラ
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空気が、揺れた。
中型の獣が喉の奥で低く唸り、巨体を前へと押し出してくる。
四本の足が地面を踏むたびに、砕けたアスファルトと土が跳ね上がった。
高さおよそ四メートル。
肩から腰にかけて盛り上がる筋肉は、薄い岩の殻に覆われているかのように硬そうだった。
紫の皮膚に走る筋のひとつひとつが、動くたびに生き物のようにうねる。
その前に立ちはだかるのは、火と氷と土のホルダー三人。
息は荒く、額には汗。
それでも引かずに構えている。
「ガレン、もう一度焼け! ルカは足を凍らせろ! エマは前に壁だ!」
ジェイドの声が飛ぶ。
「了解!」
ガレンの腕から炎が噴き上がる。
赤い炎が弧を描いて中型の側面を舐めた。
皮膚が黒く焦げる。
だが、止まらない。
ルカが地面に手をつく。
冷気が走り、地表に白い霜が一気に広がった。
脚元が凍りつき、中型の動きが半歩だけ鈍る。
そこにエマの土壁が立ち上がる。
瓦礫混じりの土が盛り上がり、巨体の前に障害をつくる。
中型ヴォイドが前足を振り下ろした。
轟音。
土壁に亀裂が走る。
エマが力を込めて補強しようとした瞬間、二撃目が落ちた。
壁が崩れた。
砕けた土と石が雨のように降り、ホルダーたちの身体を打つ。
「っぐ……!」
エマが膝をつく。
ルカも肩をかすめた破片に顔を歪めた。
中型は少しだけ歩みを緩めただけで、そのまま前へ進む。
その先にあるのは、集落の柵、そして人がいる場所。
アヤメは、その光景を少し離れた位置から見ていた。
距離。
速度。
足場。
それらが、視界に入った瞬間に数字に近い感覚で頭の中に浮かぶ。
「……間に合わない」
ホルダー三人の力では、止めきれない。
それは、見ているだけで分かった。
ジェイドが振り返り、アヤメを見つける。
「おい! そこにいるなって言ったはずだ!」
アヤメは答えなかった。
一歩、前へ進む。
柵の内側では、住民たちが怯えた顔でこちらを見ていた。
子どもを抱きしめる親。
震えながら祈る老人。
診療所の方角から、ミラの声が飛ぶ。
「アヤメ、戻って!」
叫びは届いている。
意味も分かる。
でも、足は止まらない。
中型の前足が、地面を叩いた。
巨体がたわみ、次の一歩を踏み込もうとする。
「エマ、下がれ! ルカ、右へ回れ! ガレン、やれるだけ撃て!」
ジェイドの号令に、三人が動く。
だが、疲労した体は思うように反応しない。
エマが後退しようとしたとき、中型の頭がわずかに横を向いた。
視線の先には、診療所から駆けてきたミラと、負傷者を支える数人の姿があった。
ミラは腕に簡易包帯を巻いた少年を支えながら、戦場を横切ろうとしていた。
――危ない。
アヤメの中で、なにかが跳ねる。
「ミラ、止まれ!」
ジェイドが叫ぶ。
同時に、中型の四肢が踏み切った。
巨体が斜め前方へ跳ぶ。
狙いはホルダーではない。
負傷者と、それを支えるミラたち。
ルカが氷を張ろうとして腕を伸ばす。
間に合わない。
ガレンの炎も、軌道上をかすめるだけ。
巨影は、そのままミラの頭上へ落ちようとしていた。
アヤメは考えなかった。
ただ、走った。
足が地面を蹴る。
筋肉が勝手に動く。
視界の端で砕けた石が跳ねるのが見える。
中型の暗い口腔が開く。
牙が露出し、前足が振り下ろされる。
ミラの顔が、恐怖で固まる。
――死ぬ。
このままでは、ミラが死ぬ。
その認識だけが、アヤメの中を強く満たした。
胸の奥で、何かが裂けた。
熱ではない。
冷たい、硬い何か。
それが一気に全身へ流れ出す。
「っ……!」
アヤメの皮膚の下を、光が走った。
青白い線が、血管とは違う経路で身体を駆け巡る。
骨の周り、筋肉の隙間、神経のそば。
それは瞬く間に密度を増し、皮膚の内側に張り付くように広がった。
次の瞬間、光は皮膚を破らないまま、“膜” になった。
青白い雷膜。
アヤメの身体を覆う薄い電気の薄皮。
髪が浮き上がり、周囲の空気が震える。
乾いた音が、耳の奥で連続して弾けた。
ミラの前に飛び込んだアヤメの背中が、彼女と中型ヴォイドの間に割り込む。
巨体の影が全てを覆った。
振り下ろされる前足。
牙。
それらが、アヤメの頭上に迫った瞬間――
雷膜が爆ぜた。
音が、消えた。
一瞬だけ、世界から全ての音が抜け落ちた。
その代わりに、青白い光だけが視界を塗りつぶす。
膜は内側から膨張し、球状になって外へ押し出された。
空気が弾かれ、砂が舞い、砕けた石が宙に浮く。
中型の前足が雷膜に触れた。
その瞬間、皮膚の表面が泡立つように崩れた。
筋肉が黒く変色し、骨の内側から光が噴き出す。
雷は線ではなかった。
枝分かれしながら走る稲妻ではなく、面として押し寄せる圧力だった。
高密度の電撃が、一度に全ての神経を焼き切る。
中型の巨体が、あり得ない角度で反り返った。
胸の中で、何かが破裂する音がした。
青白い光が、背中側へ抜けていく。
次の瞬間、巨体は後方へ吹き飛ばされた。
地面が揺れる。
砂埃が立ち上り、黒い煙がその中に混ざる。
雷膜は、周囲にも波紋のような痕跡を残していた。
近くの瓦礫の金属片は茶色く変色し、ひび割れ、割れた。
地面には細い黒い筋が走り、焼け焦げた跡が蜘蛛の巣のように広がっている。
アヤメを中心にした半径数メートルの範囲だけが、一度電気の海に沈んだようになっていた。
静寂。
中型ヴォイドは動かなかった。
胸部から背にかけて、大きく抉れたような穴が開いている。
内部は炭のように黒く、所々で青白い火花がまだ消えきらずに弾けていた。
即死。
誰が見ても、それは明らかだった。
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「……嘘だろ」
最初に声を漏らしたのは、ガレンだった。
炎を使い果たした腕をぶら下げたまま、ただ唖然とその光景を見ている。
「今の……シックスセンス、なのか……?」
ルカがかすれた声で言う。
彼の氷は、先ほどまで中型の足元をかろうじて鈍らせていたが、その影響力など今の一撃の前ではまるで意味を持たないように思えた。
エマは黙っていた。
だが、全身がわずかに震えている。
ジェイドもまた、言葉を失っていた。
彼はかつて多くのホルダーの戦いを見てきた。
火も、氷も、土も、風も。
中には雷のシックスセンスを持つ者もいた。
だが――
今の一撃は、他のどれとも違っていた。
青白い光。
音を喰い、空気を削り、巨体を丸ごと押し返す圧力。
それは “技” というより、“災害” に近かった。
「アヤメ!」
ミラが我に返り、アヤメの肩を掴んだ。
アヤメは立っていた。
膝はかすかに震え、呼吸は乱れている。
汗が額に浮かび、瞳の焦点はぼんやりとしていた。
「大丈夫!? 今の、何……?」
「……わからない」
アヤメはかすれた声で答えた。
自分の身体に何が起きたのか。
どうやって雷を出したのか。
そもそも、あれが何なのか。
分からなかった。
分かるのはただひとつ。
さっき、ミラが死ぬと思った。
それを嫌だと感じた。
その瞬間、身体が勝手に動いたということだけだった。
痺れが遅れて来た。
指先から腕へ、腕から肩へ。
脚の筋肉が引きつるように硬直し、重力が急に増したかのように体が重くなる。
「……からだ、うまく動かない」
アヤメはそう言って、わずかによろめいた。
「ちょっと、座って!」
ミラが慌てて支える。
その腕も震えていた。
恐怖と安堵。
両方が混ざっている。
目の前で、自分を庇って立った少女が、青白い雷で巨大な獣を吹き飛ばした。
信じがたい光景だった。
「サラ! サラ、来て!」
ミラが叫ぶと、少し離れた場所からサラが駆けてくるのが見えた。
彼女はアヤメの脈を取り、瞳孔の反応を確かめる。
「心拍は速いけど、乱れてはいない。神経が一時的に過負荷を起こしてる。……これは、シックスセンスの反動というより、もっと直接的な“電気の使いすぎ”ね」
「危ないの?」
「このまま放っておけば危ない。でも、今すぐ死ぬ状態ではないわ。回復力も異常だから、身体の方が勝手に立て直そうとしている」
サラの声は冷静だった。
けれど、その目は珍しく驚きを隠していない。
「今の出力……普通のホルダーじゃありえない。適合率がどれだけ高くても、身体が持たないはず」
「シックスセンス、なのか?」
ジェイドが近づいてきた。
まだ中型の死骸をちらりと振り返りながら、アヤメを見る。
「わからない」
アヤメは正直にそう答えた。
ジェイドはしばらく彼女を見つめ、それから短く息を吐いた。
「……少なくとも、今の一撃でこの拠点は救われた。それは事実だ」
後ろでは、住民たちがざわめいている。
「見たか……あれ……」
「あの子、前に運ばれてきた……」
「人間なのか? 本当に……」
感謝とも、恐怖ともつかない声が交錯していた。
ミラはアヤメの肩を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。
「怖くない」
アヤメがぽつりと言う。
「私は、ミラを守った。それだけ」
ミラは一瞬だけ目を見開き、それから困ったように笑った。
「……そういう言い方、ずるい」
涙と笑いが混ざった声だった。
「ありがとう。でも、今度からはもう少し自分のことも守って。死ぬかと思ったのは、こっちの心臓だから」
「わかった。次は、もう少し考える」
「絶対だよ。約束」
アヤメは少しだけ考え、頷いた。
「約束」
サラが立ち上がる。
「話はあと。今は診療所に運ぶわよ。歩ける?」
「……多分」
アヤメは一歩踏み出そうとした。
脚にうまく力が入らず、膝が折れかける。
「ほら、やっぱり無理」
ミラが支え、ジェイドが反対側から肩を貸した。
「お前は文句を言えるだけの体力すら残ってないんだ。今は黙って運ばれてろ」
「別に、文句言ってない」
「そういうところだ」
ジェイドは小さく笑った。
その笑いには、安堵も、不安も、両方混ざっていた。
青白い雷の残滓は、まだ空気の中に微かに漂っている。
金属のような匂いと、乾いた感覚。
誰も知らなかった。
あの一撃が、ただの偶然の暴発ではなく、
この世界そのものの構造に関わる “何か” の予兆だということを。
そして――
アヤメの中に眠る雷が、まだほんの一部しか姿を見せていないということを。
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