第十五話 穏やかな日常
アヤメがミラの家で暮らすようになって、一週間が過ぎていた。
最初の数日は、互いに距離を測るような空気があった。
生活のリズム、言葉の選び方、間の取り方。
アヤメは何かを間違えないように、音を立てないように歩いて、返事をする前に一度だけ息を飲み込んだ。ミラもまた、必要以上に踏み込まないようにしているのが分かった。
けれど、その「気を遣う」という輪郭は、いつの間にか薄れていった。
朝、ミラがキッチンに立つ音で目を覚まし、
「おはよう」と声をかけると、
「おはよ。起きた?」
返事がすぐに返ってくる。
夕方、ソファに並んで座って、窓の外が暗くなるまで他愛のない話をする。
沈黙が流れても、気まずさはない。ミラが黙ったまま考え込んでいる時は、眉尻がわずかに下がる。逆に、面白いことを思いついた時は、口角が先に動く。アヤメは、その変化を前よりも早く拾えるようになっていた。
自分が変わったと気づく瞬間が、いくつもあった。
ミラが冗談めいた言い方をしたとき、アヤメはすぐに意味を追えない。けれど、ミラの声が少し弾んでいるのを見ると、たぶん悪意ではない、と判断できる。
それで「そういう言い方、好きなの?」と聞くと、ミラは笑って「好きっていうか、癖」と返した。
そのやり取りが、どこか嬉しい、と思う。嬉しい、という言葉の定義は曖昧でも、胸の奥が少し軽くなる感覚なら分かる。
ミラの前では、警戒する必要がない。
そう感じること自体が、もう当たり前になっていた。
疑う、という発想が、そもそもアヤメには薄い。
けれどそれは、ただ無知だから、ではなくなっていた。
ミラが自分に向けるものが、怖さと反対側にある、と身体が覚え始めている。
ミラも、アヤメに対して「特別扱い」をするような態度は取らない。
ただ自然に声をかけ、自然に世話を焼く。
手が空いていれば、コップを洗い、タオルを畳む。アヤメがそれに気づいて手を伸ばせば、「いいよ」と軽く押し戻して、「じゃあ次は一緒にやろ」と笑う。
その一週間は、短いはずなのに、家の中の空気はもう「前からこうだった」みたいに馴染んでしまっていた。
だから――その朝。
ミラがカレンダーを見てから、ふと思い出したように言った時、アヤメの心はすぐに反応した。
「ねえ、今日だよ」
「今日?」
アヤメが首を傾げると、ミラは少し得意そうに笑う。
「ほら、鍛冶屋のおじさん。約束してたでしょ。武器、受け取りの日」
その言葉で、記憶がつながる。
一週間前、セブンスロックの古びた店。煤けた匂い。作業台に散らばる金属片。裏の広場で見せた斬撃。店主の驚いた顔と、ミラの自慢げな声。
そして――「一週間後だ。時間をくれ」と言った、太い腕の男の声。
「あ……そうだ」
思わず、声に弾みが混じる。
「できてる、かな」
「たぶんね。あのおじさん、言い方は雑だけど、こういう時は裏切らないタイプ」
ミラはそう言って、アヤメの顔をじっと見た。
何かを測るように目を細めてから、ふっと笑う。
「せっかくだしさ。今日はちょっとおしゃれして行こうよ」
「おしゃれ……?」
アヤメは言葉を反芻する。
戦いの準備と違う意味で、胸が少し落ち着かない。けれど嫌ではない。むしろ、どこか楽しみが先に立ってしまう。
「この前買った服、あるでしょ」
ミラがクローゼットの方を指さす。
アヤメは小さく頷いた。
「うん。いいと思う」
その返事だけで、ミラの表情がぱっと明るくなった。
ミラの喜びが、なぜだか自分のことみたいに感じられる。その感覚が、アヤメにはまだ新しい。
⸻
クローゼットを開けると、あの日選んだ服が整然と並んでいた。
布の匂いがまだ新しい。触れると指先に、柔らかな重さが残る。
ミラは迷いなく、大人っぽい方の服を手に取った。
落ち着いた深い色合い。肩から腰にかけて線がきれいに落ち、動きやすさも残しているのに、街の空気に馴染む「余裕」がある。
ミラは鏡の前で一度当てて、満足そうに頷いた。
「今日はこれ。……ね、いいでしょ」
「うん。似合う」
アヤメがそう言うと、ミラは一瞬だけ照れたように視線をそらし、すぐに誤魔化すみたいに咳払いした。
「で、アヤメは――今日は、こっち」
差し出されたのは、少し派手な色使いの服だった。
短めのトップスは身体に沿って、首元はすっきり開いている。動きを妨げないパンツは脚を長く見せるラインで、金具や紐の装飾がいくつかある。
「戦える格好」であることは崩していないのに、視線を集める強さがある。
アヤメはそれを受け取り、布を指でなぞった。
「……これ、前に着たやつと近い?」
「近いけど、今日はもっとちゃんとやる」
ミラはにやりと笑って言う。
「街に行くんだから。気分、上げよ」
アヤメは鏡の中の自分を一度見てから、服に目を落とした。
派手、という評価がまず頭に浮かぶ。
でもミラの目は、「いいものを見つけた」時の目をしている。そこに、押し付けがましさがない。
「……変じゃない?」
無意識に出た問いに、ミラは即答した。
「変なわけない。絶対いい」
言い切ってから、少しだけ言い方を柔らかくする。
「アヤメはさ、こういうの着ても負けない顔してる。似合うってこと」
負けない顔。
その言葉が、少し面白い。アヤメは口元をほんの少し緩めた。
「じゃあ……それにする」
言った瞬間、ミラが「よし」と小さく拳を握った。
着替えを終えて鏡の前に立つ。
布の感触が肌に馴染み、視線を動かすだけで装飾が小さく揺れる。
普段の戦闘服とは違う重心の取り方になるのに、不思議と落ち着く。
「……なんか、不思議」
アヤメの率直な言葉に、ミラは満足そうに頷く。
「悪くないでしょ?」
「悪くない。……ちょっと、強そう」
アヤメが言うと、ミラは吹き出した。
「強さはもう十分。今日は“可愛い”を足す日」
可愛い、という言葉に、アヤメは少しだけ眉を上げた。
でも、嫌ではない。言葉の意味が胸の奥に落ちるまで、もう少しだけ時間が要るだけだ。
次にミラは、アクセサリーケースを開いた。
中には、以前二人で選んだネックレスと、同じ水色の石が揺れるピアスが並んでいる。
「今日は全部つけよ」
ミラは楽しそうに言った。
「全部?」
アヤメが聞き返すと、ミラは頷く。
「うん。せっかくだから。ほら、似合う日なんだって」
耳に同じ色の石が揺れ、首元でネックレスが光る。
鏡の中で、二人のアクセサリーが同じ場所で光るのを見て、アヤメは小さく胸が温かくなるのを感じた。理由は分からないのに、確かに「いい」と思う。
最後に、ミラは化粧道具を取り出した。
その瞬間、アヤメの中に、前回の記憶がよみがえる。
鏡の前で、筆の柔らかさに戸惑ったこと。自分の顔が「知らない顔」になって、息を飲んだこと。
「化粧、する?」
ミラが覗き込む。
アヤメは一瞬だけ迷った。
でも今回は、迷いの形が違う。怖いのではなく、期待と緊張が混じっている。
「……うん。二回目だし」
言うと、ミラが目を丸くしてから、笑った。
「そう。二回目はもっと楽しいよ」
ミラの声が軽い。けれど手つきは丁寧で、雑に扱わない。
「目、閉じて」
言われた通りに目を閉じると、柔らかなブラシの感触が頬を撫でた。
肌の上に、薄い膜が重なる感覚。
ミラの息が近くて、ミラの集中が伝わってくる。
前は「触れられる」ことに少しだけ身構えたのに、今はそれがない。むしろ、手が離れるのが惜しいような感覚さえある。
「まつげ、長いんだよね。ずるい」
ミラがぼそりと言い、アヤメは目を閉じたまま答えた。
「ずるいの?」
問い返すと、ミラは笑って「ずるい」ともう一度言った。
そのやり取りが、なんだか楽しい。
アヤメの口元が自然に緩む。
「はい、終わり」
ミラの声に目を開ける。
鏡の中にいるのは、見慣れない自分だった。
目元は少し強く、唇の色は薄く艶が足されている。肌は均一に整い、光が柔らかく返ってくる。
それなのに「作られた感じ」より先に、「整った」という印象が来る。
「……すごい」
アヤメは素直に言った。
「でしょ」
ミラは得意そうに笑う。
その笑顔を見て、アヤメは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
高揚。
たぶん、こういう時に使う言葉だ。
口に出してもいいのか、少し迷って――それでも言った。
「なんか、ちょっと……嬉しい」
アヤメが言うと、ミラは一瞬黙ってから、「うん」と短く頷いた。
その頷きが、答えだと分かった。
⸻
準備を終え、二人は外に出た。
夕方の空気は少し冷たく、吐く息が薄く白い。
それでもアヤメの体温は下がらない。高揚が、身体の内側に残っている。
車に乗り込み、街へ向かう。
道はいつもの砂と石。遠くの地平線は暗く、何もないはずなのに、今日は視界が少し明るく感じられた。
ミラがハンドルを握る横顔を、アヤメはちらりと見る。
いつもより少しだけ、真面目な顔をしている。集中の顔。
その顔を見て、アヤメは「安全運転」という言葉を思い出し、なんとなく笑いそうになる。
「なに、笑ってるの」
ミラが気づいて、横目で見る。
「ううん。……なんでもない」
言い方が柔らかい。以前なら「理由がない」と言ったかもしれないのに、今は「なんでもない」を選べる。
その選択の違いに、アヤメ自身が少し驚く。
検問を抜けると、セブンスロックの空気が一気に濃くなった。
人の声。金属の匂い。油と煙。
屋台の甘い香りが混ざり、どこかで金床を叩く音が響いている。
街に入るたびに思う。ここは「生きている」。
共有駐車場に車を停める。
降りた瞬間、視線を感じた。
服のせいか、化粧のせいか、アクセサリーのせいか。あるいは、二人並んで歩くからか。
アヤメはそれを不快には思わなかった。以前なら「観察対象」として切り分けていただけなのに、今はその視線を「街の一部」として受け止められる。
「緊張してる?」
ミラが横から声をかける。
「ううん」
アヤメは首を振る。
自分の胸の内側を確かめて、はっきり言う。
「楽しみ。……武器もだけど、ミラとこうして来るのも」
言った瞬間、ミラが少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように笑って、視線を前に戻す。
「そっか」
たったそれだけの返事なのに、声が優しい。
二人は並んで歩き出す。
目的地は、あの古びた鍛冶屋。
通りを曲がるたび、金属音が近づき、油の匂いが強くなる。
店が見えた。
扉の前で、ミラが立ち止まる。
「行こっか」
ミラが言う。
「うん」
アヤメはうなずいて、ミラの隣に並ぶ。
扉の向こうに、あの店主がいる。
そして、一週間待った「答え」がある。
アヤメは一度だけ息を吸って、扉に手を伸ばした。




