第十四話 名前のないぬくもり
ミラの家に着いた頃、空はもう紺色に沈んでいた。
集落の外れにある一軒家は、壁の塗装がところどころ剥げていても、窓枠はきちんと補修されていて、玄関の灯りが弱く揺れている。扉を開けた瞬間、外の冷たい空気と入れ替わるように、乾いた木の匂いと、ほんの少しの石鹸の残り香が鼻に入った。
「ただいまー……って言っても、誰もいないけど」
ミラが独り言みたいに言って、靴を脱ぐ。アヤメもそれに倣ってブーツを揃えた。玄関は狭いが、生活の道具が整頓されている。壁際に工具箱、棚の上に折り畳んだ毛布、補修用のテープ。必要なものだけが、必要な場所に置かれている。
「……落ち着く家だね」
アヤメがぽつりと言うと、ミラは振り返って目を丸くした。
「今の、褒めた?」
「うん。……褒めた」
アヤメは言ってから、ほんの少し口角を上げた。自分でも分かるくらい、前より表情が動く。ミラはその変化を見逃さず、嬉しそうに笑う。
「じゃあ今日は、もっと落ち着かせてあげる。ほら、荷物。そこ置いて」
リビングに通される。小さなテーブルと、古いソファ。壁には手作りの棚があって、缶詰や乾燥食品の箱が並んでいる。部屋の隅には小さな鏡台代わりの台と、上に置かれた丸い鏡。光源は天井灯ひとつだけで、影が柔らかい。
ミラは買ってきた紙袋を床に並べ、弾む声で言った。
「じゃ、戦利品大会ね。まずは部屋着に着替えよ。外の服のままは嫌」
二人は奥の寝室へ向かった。寝室も質素で、ベッドが一つ、壁際に衣装箱があるだけだ。だが、毛布はきちんと重ねられ、枕カバーも清潔だった。
ミラはさっとロングコートを脱ぎ、部屋着の薄手のセットを取り出す。柔らかいグレーのタンクトップに、ゆったりしたショートパンツ。足首までのもこもこした靴下まで揃っている。
アヤメはミラに渡された部屋着に着替えた。白い薄手のカットソーと、淡い青のショートパンツ。生地は軽くて肌触りが良い。着替え終えたアヤメの髪は、買ったばかりのヘアクリップで左側を耳にかけられている。左耳の軟骨には、同じ水色の石が付いたピアスと、小さなリングのピアスが二つずつ並んでいた。ミラも同じ位置に同じ組み合わせを着けている。鏡に並んだ二人の耳が、ささやかな「同じ」を主張していた。
「……それ、ちゃんと似合ってる」
ミラが言う。
「ミラも」
「言うようになったねえ」
ミラはわざとらしく胸を押さえて、楽しそうに笑った。
「よし、まずは服。買ったの全部、見せ合いね。アヤメの分は私が選んだんだから、責任取って似合ってもらう」
「責任……」
「そう。私の趣味の責任」
ミラは紙袋から最初の一着を取り出し、アヤメに押し付けた。
「清楚版アヤメ。これ」
アヤメが広げたのは、淡いクリーム色のニットと、膝下まである柔らかなプリーツスカートだった。ニットは首元が詰まりすぎず、鎖骨が少しだけ見える浅いボートネック。袖口は細く絞られ、手首が綺麗に見える。スカートは薄い生地なのに二重になっていて、歩くとゆっくり波打つらしい。
「……戦闘向きじゃない」
「今日は戦わない。戦闘向きは普段で足りてる」
ミラは自分の頬を指でつつく。
「着て。見たい」
アヤメは短く息を吐いて、着替えた。ニットは体の線を拾いすぎないが、肩のラインが滑らかに出る。プリーツスカートは腰から落ちる形が上品で、色白の脚が少しだけ覗く。鏡の前に立つと、アヤメは自分の姿をしばらく見つめた。
「……知らない感じ」
「いいでしょ。こういうのもアヤメだよ。ほら、髪も少し整えて」
ミラが後ろから指を入れ、黒髪を軽くほぐした。艶のある髪が光を拾って青みを帯びる。左耳のピアスが揺れて、水色の石が一瞬だけ光った。
アヤメは鏡に映る自分の目を見て、少しだけ眉を動かした。
「……なんか、守られてる感じがする」
「それ。清楚ってそういう力あるんだよ。で、次。私の大人っぽい服、見て」
ミラは自分の袋から、深いワインレッドのニットワンピースを取り出した。長袖で、体のラインに沿うが、いやらしくならない絶妙な厚み。腰の位置に細いベルトが付いていて、そこがきゅっと締まる。胸元は開きすぎず、鎖骨が少し見えるくらい。ミラが着替えると、普段の「元気さ」よりも大人っぽい静けさが前に出た。
「どう?」
「……似合う。強そう」
「強そうって褒め言葉?」
「ミラは強い」
アヤメが言うと、ミラは一瞬だけ言葉を失って、すぐに笑った。
「……うん。ありがとう」
その笑いに、少しだけ照れが混ざっていた。
次はギャルっぽい服だ。
ミラは自分の「ギャル版」を先に見せると言って、派手なショート丈のジャケットを羽織った。黒のフェイクレザーで、肩に小さな金具が付いている。中は白のタイトなキャミソール。ショートパンツはデニムで、裾が切りっぱなし。脚には薄い網タイツ。足元は厚底のスニーカー。髪は少し巻いて、左耳を出すようにかける。ピアスが揺れて、リングが小さく鳴る。
「どうよ。こういうの、たまに着たくなる」
「……騒がしい」
「ひどいな」
「でも、似合ってる。ミラって感じ」
ミラは満足そうに頷いた。
「じゃ、アヤメのギャル版。これ着て」
アヤメに渡されたのは、黒のショート丈パーカーと、白いインナーのタンク。胸元が少し開いていて、鎖骨から胸の上のラインが見える。下は黒のミニスカート。素材は硬めで、動きやすさはあるが、視線を集める。脚には黒のハイソックス、足元は軽いブーツ。全体的に「攻め」の印象だった。
アヤメが着替えて鏡の前に立つと、ミラは一瞬、固まった。
「……ちょっと待って。予想より破壊力ある」
「破壊力?」
「言い方が違う。えっと……似合いすぎ」
ミラはアヤメの肩に手を置き、鏡越しに顔を覗き込んだ。
「髪、左耳にかけてるのも正解。ピアス見えるし。水色の石、黒髪にめっちゃ映える」
アヤメは鏡の中で目を瞬かせる。自分が「似合う」と言われること自体がまだ慣れない。だが、ミラが本気で嬉しそうなのは分かる。アヤメの胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「……ミラが選んだ。だから、良い」
「もう、そういう言い方ずるい」
ミラは頬を押さえてから、ぱっと顔を上げた。
「よし。ここまで来たら、化粧もしよう」
「化粧?」
「うん。ギャルは顔も変える。アヤメ、肌めっちゃ綺麗だから、映えるよ」
アヤメは少し考えて、頷いた。
「……やってみたい」
ミラが嬉しそうに笑って、鏡台の引き出しから小さなポーチを取り出した。中には、使いかけのアイシャドウ、アイライナー、リップ、チーク。手鏡と小さなブラシ。全部、旧時代のものを大切に使っているのが分かる。
ミラはアヤメを鏡の前の椅子に座らせた。アヤメの背後に立ち、髪を左耳にかけ直して、耳元のピアスを整える。
「目、閉じて。怖くない。目に入れない」
「怖くない。ミラだし」
ミラの手が止まった。
「……今の、心臓に悪い。言い方」
「変だった?」
「変じゃない。……嬉しいだけ」
ミラは小さく息を吐いて、作業を始めた。
まず薄くベースを整え、次に目元。アイシャドウはほんの少し濃いブラウンをまぶたの際に置いて、外側に向けてぼかす。アイラインは細く、目尻だけ少し跳ね上げる。もともと少しつり目気味の水色の瞳が、より鋭く、でも艶っぽく見える。まつげは元々長いから、軽く整えるだけで十分だった。
「アヤメ、目を開けて」
アヤメが目を開けると、鏡の中の自分の視線がいつもより強く見えた。まるで別の生き物みたいに、目が前に出る。ミラは楽しそうに頷く。
「うん、いい。次、チーク。ほんの少しね。あとはリップ」
リップは薄い赤。濃すぎないのに、唇の輪郭がはっきりする。アヤメの顔立ちは整いすぎていて、何もしないと冷たく見えがちだったが、色が乗ると「人の温度」が出た。肌の白さが強調され、黒髪とのコントラストが際立つ。
最後に、ミラは小さなラメを指に取って、目尻の下にほんの一粒だけ置いた。
「これがギャルの遊び。光るの、好きでしょ」
アヤメは鏡を見つめ、微かに笑った。
「……綺麗」
「でしょ。完成」
ミラが後ろから肩に手を置く。
「どう? 自分で見て」
アヤメは鏡の中をじっと見る。水色の瞳は光を受けて冷たく澄み、でも目元の影とラメの粒で感情が見えやすくなっている。口元に色が乗って、表情が少し柔らかい。左耳の水色の石が、瞳と呼応するみたいに揺れている。
アヤメは、ぽつりと言った。
「……ミラがいないと、こうはならない」
ミラはその言葉に、少しだけ黙った。嬉しさと、何か別のものが一瞬交じる。それでも、ミラは明るく笑って肩を揺らす。
「そういうの、これから増やしていけばいいの。ほら、私のギャルも見て。並んで鏡、見よ」
二人が鏡の前に並ぶ。部屋着ではなく、買ったばかりのギャル服。左耳のピアスも同じ。髪も左側を耳にかけている。同じ水色の石が、二人の間で小さく揺れた。
「……おそろい」
アヤメが呟くと、ミラは頷いた。
「そう。おそろい」
アヤメの顔に、はっきり笑顔が出た。大きくはない。だけど、確かに柔らかい。ミラはそれを見て、息を止めるみたいに目を見開いてから、ゆっくり笑った。
「……笑った」
「うん。……楽しい」
「やばい。今日、最高の日かも」
ミラは両手を上げて小さく跳ねた。
その勢いのまま、ミラはふと真剣な顔になって言った。
「ねえ、アヤメ。提案がある」
「なに?」
「アヤメ、ここに来てからずっと簡易テントで生活してたでしょ。……今日から、私の家で一緒に住まない?」
アヤメは驚くより先に、言葉を探した。視線がミラの目に戻る。冗談じゃない、というのが分かる。ミラは強いが、こういう提案をする時は少しだけ怖がっている顔になる。断られるのが怖いというより、受け入れた後の責任を考えている顔だ。
アヤメは小さく頷いた。
「……うん。いい」
ミラの肩が、目に見えて緩んだ。
「ほんと?」
「ほんと。……ありがとう。助かる」
「礼、ちゃんと言うじゃん」
「うん。言いたい」
アヤメは言ってから、少しだけ笑った。
「ミラ……お姉さんみたいだね」
ミラの動きが止まった。
「……今、なんて言った?」
「お姉さんみたい。……そう感じた」
ミラは一瞬、嬉しそうに笑いかけて、次の瞬間に目尻が少しだけ揺れた。笑っているのに、どこか悲しそうな影が落ちる。アヤメはそれを見て、胸の奥が少しだけ痛くなる。理由は分からないが、「痛い」という感覚は分かる。
ミラは息を吐いて、いつもの明るさに戻した。
「じゃ、夜ご飯作る。今日はちゃんとしたの」
そう言ってキッチンへ向かう。
小さなキッチンは、鍋とフライパンが並び、木の棚に調味料が並んでいる。ミラは手際よく野菜を洗い、包丁を動かした。その背中は慣れている。だが、ふと棚の上に目線を送る瞬間があった。
棚の上に、写真が一枚立てかけられている。
少し若いミラと、ミラと似た顔の男が二人で笑って写っていた。男はミラより少し背が高く、目元が優しい。笑い方がミラに似ている。
アヤメはその写真を見て、口を開いた。
「……この人、誰?」
包丁の音が一度だけ止まった。
ミラは数秒、何も言わなかった。鍋の中で水が小さく揺れる音だけがする。
それからミラは、前を向いたまま言った。
「弟。……もう死んでる」
「……どうして」
ミラの肩が少しだけ上下した。
「十年前。ヴォイドとの戦闘中に死んだ」
ミラは言葉を切って、息を吸う。次の言葉を出すのに、少しだけ力がいるみたいだった。
「私、助けに向かえなかった」
アヤメは黙って聞いた。ミラの声が、少しだけ低くなる。
「怖くて、足が動かなかった。……笑えるでしょ。今の私から見ても、信じられない。でも、本当」
ミラは鍋に視線を落としたまま、続ける。
「後悔した。ずっと自分を責めた。あの時動けてたら、って何回も考えた。……でもね、時間は戻らない。弟は戻らない」
アヤメは胸の奥の痛みが、少しだけ強くなるのを感じた。ミラの言葉が、ただの情報として入ってこない。ミラが「大事だったもの」を失ったことが伝わってくる。
「だから、もう二度と同じことはしないって決めた」
ミラはようやく振り返った。目は濡れていない。だが、鋭く真っ直ぐだった。
「廃研究所で、気を失って倒れてたアヤメを……放っておけなかった。放っておきたくなかった」
アヤメは喉が少しだけ詰まるのを感じた。言葉にするのに、いつもより時間が必要だった。
「……私が、そこにいたから?」
「そう。そこにいたから。助けられるかもしれないなら、助けたかった」
ミラはふっと笑って、急に明るい声に戻す。
「そのおかげでこうして、アヤメとご飯を一緒に食べられる! ほら、できたよ。食べよ!」
テーブルに並んだのは、クリームシチューとパン、それからオニオンスープだった。シチューの白い湯気が立ち上り、バターの匂いと玉ねぎの甘い香りが混ざる。温かさが視覚だけで伝わってくる。
アヤメがスプーンを口に運ぶと、舌に柔らかな塩味と、牛乳の甘さが広がった。熱いのに優しい。パンをちぎって浸すと、さらに香りが増す。
「……おいしい」
アヤメが言うと、ミラは嬉しそうに胸を張った。
「でしょ。こういうの、ちゃんとした生活って感じしない?」
「する。……安心する」
「言うようになったねえ」
ミラはスープを飲みながら、ふとアヤメの顔を見た。
「最近、表情とか言い方、柔らかくなってきたよね」
アヤメはスプーンを止めて、少し考える。
「……変わってるの、分かる」
「うん。芽生えてきてる。感情っていうか、反応っていうか。前は、全部同じ温度だった」
アヤメは目を伏せた。
「……ミラがいるから」
「またそれ」
ミラは笑って、でもすぐに少しだけ真面目な顔になる。
「アヤメが変わってきてるの、私は嬉しい。……でも、無理はしないで。急に全部分からなくなる時もあるから」
「うん。……でも、怖くはない。ミラがいる」
ミラは一瞬、食べる手を止めた。嬉しそうに笑うけど、さっきと同じ、少しだけ悲しげな影が混じる。
「……ほんと、ずるいよ」
食事は他愛ない話で進んだ。街の匂いの話、花畑の話、服の話。アヤメは少しずつ言葉を足すようになり、ミラはそれを拾って笑う。笑い声が途切れない時間は、この世界では贅沢だった。
食べ終わり、二人で食器を片付ける。ミラが水を流し、アヤメが皿を拭く。動きが揃っていく。小さな生活が、形になっていく。
片付けが終わると、ミラは伸びをして言った。
「じゃ、お風呂。入ろ」
アヤメは少しだけ目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「……うん」
脱衣所は狭く、棚にタオルが積んである。二人は服を脱ぎ、浴室へ入った。湯気が肌にまとわりつき、冷えた体が少しずつ緩む。シャワーの音が、外の世界を遮断する。
「アヤメ、頭洗ってあげる」
ミラが言う。
「自分でもできる」
「できるのは知ってる。でも、やりたい」
アヤメは少しだけ迷ってから、バスチェアに座った。背中に温かい湯が流れる。ミラが後ろに立ち、指を髪に入れる。シャンプーの泡が黒髪に広がり、指先が頭皮を丁寧に揉む。
「……気持ちいい」
アヤメが小さく言うと、ミラは笑った。
「でしょ。こういうのも、家の特権」
泡が流れ落ち、髪が濡れたまま背中に張り付く。ミラはタオルで軽く水を切ってから、次は自分の髪を洗う。栗色の髪を束ね、手早く泡立てる。アヤメはそれを見ながら、何かが胸の奥で静かに積み上がるのを感じた。ミラが「ここにいる」という事実が、温度として伝わってくる。
一通り洗い終えると、二人は湯船に浸かった。湯が肩まで包み込み、身体の緊張がほどける。浴室の小さな窓は曇り、外の夜がぼやけている。
ミラが湯船の縁に顎を乗せて言った。
「今日、楽しかったね」
アヤメは湯の中で指を動かしながら、少しだけ間を置いて答えた。
「……楽しかった。知らないことがいっぱいだった。でも、嫌じゃなかった」
「うん。嫌じゃないって言えるの、すごい進歩」
アヤメはミラの横顔を見た。ミラは笑っている。でも、時々だけ、弟の写真の話をした時の影がふっと落ちる。それを見て、アヤメは言葉を探す。
「……ミラ」
「ん?」
「弟のこと……言ってくれて、ありがとう」
ミラは目を瞬かせた。
「ありがとうって、言われると思わなかった」
「私は……知らない。でも、ミラが痛いのは分かる。……分かった気がした」
ミラは少しだけ口を開けて、すぐに閉じた。それから、いつもの明るさで笑った。
「……じゃあ、それでいい。分かろうとしただけで、十分」
湯の音が静かに揺れる。二人はしばらく言葉を交わさず、ただ湯の温度を共有した。
風呂を出ると、二人はタオルで髪を拭きながら寝室へ戻った。ミラは大きなベッドの片側の毛布をめくり、当然みたいに言う。
「今日は一緒に寝よ。寒いし」
アヤメは頷いた。
「……うん」
部屋の灯りを落とす。暗闇の中で、布の擦れる音と、二人の呼吸だけが残る。ミラが横になり、アヤメも隣に入る。距離が近い。けれど、嫌ではない。むしろ、身体の熱が安心になる。
ミラが小さな声で言った。
「これから、ちゃんと家にしようね。二人の」
アヤメは暗闇の中で、少しだけ笑った。
「……うん。家にする」
ミラが満足そうに息を吐く。
その夜、外の世界は相変わらず危険で、冷たくて、広い。
それでもこの部屋の中だけは、湯気と食事の匂いと、笑い声の余韻が残っていた。
アヤメは目を閉じる。胸の奥にある温かさが、名前のないまま、確かにそこにあった。




