第十三話 花畑の記憶
複数の小型ヴォイドを倒してから、数日が経った。
アヤメはそのあいだ、ほとんど毎日訓練場に立っていた。
刀の構え、踏み込み、体の使い方。
そして雷を「纏わせる」「放つ」感覚。
教えられたことは、その場で理解して、その場で身につく。
最初は半信半疑だったガレンも、今では「もう前線に出せる」と認めている。
ジェイドの言うところの【戦力】に、アヤメは確かになりつつあった。
その日の昼前、診療所の前でミラが手を振った。
「アヤメ、ちょっといい?」
アヤメはストレッチをしていた手を止めて、首だけ向ける。
「なに?」
「今日ね、買い物に行かない? 街まで」
街、という言葉にアヤメは瞬きをした。
この数週間、彼女が知っている世界は、集落と、その周りの荒野だけだ。
「……街?」
「ゼノスの管轄してる街だよ。【鉱石の街セブンスロック】。ここから車で二時間くらい」
ミラは楽しそうに説明する。
「七つの鉱山に円状に囲まれた街でね。鉱石が特産で、鍛冶屋がたくさん集まってるの。武器も防具も、掘り出し物が多いよ」
「武器」
アヤメの視線が、無意識に腰の刀に落ちる。
集落で支給された、無地の汎用ブレード。
今のところ不満はない。だが、戦う場が増えていくなら――。
「行く」
アヤメは即答した。
ミラが嬉しそうに笑う。
「よし、決まり。ついでに服も見ようね。アヤメ、着替え少なすぎるから」
「必要な分はある」
「女の子はね、“必要以上”に持ってていいの」
ミラは軽くアヤメの肩を叩く。
「じゃあ、準備して。ジェイドにはもう許可取ってあるから」
少し後。
二人は古い車に乗り込み、集落を出た。
車のエンジンはうなり声を上げながらも、安定して走る。
荒れた舗装路を越え、ひび割れた橋を渡り、遠くに灰色の山々が見えてくる。
「あれがセブンスロックの鉱山。……ほら、七つ」
ミラがフロントガラス越しに指をさす。
大小の山が円を描くように連なり、その中心に、低く広がる街の影が見えた。
近づくほどに、鉄と油と土の匂いが濃くなる。
検問所では、ゼノスの兵士が車を止めたが、ミラの顔を見るなり顎を引くだけで通してくれた。
「顔パス?」
「前に医療物資の運搬を手伝ったからね。ちゃんと記録に残ってるの」
街に入った瞬間、空気が変わった。
人の声。
金属を打つ音。
何かを焼く匂い、甘い匂い、油の匂い。
アヤメは車の窓から身を乗り出すようにして、そのすべてを目で追った。
狭い路地を行き交う人々。
鉱石を山積みにした台車。
屋台の色とりどりの布。
集落とは比べものにならない、情報の洪水。
「すごい?」
運転席からミラが笑う。
「……うるさい。でも、嫌じゃない」
「それ、だいぶ褒め言葉だと思っておくね」
車を共同駐車場に止め、二人は徒歩で街の中心に向かう。
セブンスロックの真ん中には、ぽっかりと空が抜けた広場があった。
その一面が、人工的に作られた花畑で埋め尽くされている。
赤。
黄。
青。
見たことのない形の花、知っているはずのない香り。
アヤメは足を止めた。
目の前の花畑と、頭の中の何かが、急にぶつかる。
――青空。
――風に揺れる、白い花と黄色い花。
――どこまでも続く地平線。
見たことがないはずの景色が、一瞬だけ脳裏に流れ込んだ。
同時に、頭の奥を鋭い痛みが貫く。
「……っ」
視界がにじむ。
呼吸がうまく入らない。
膝から力が抜けそうになるところを、アヤメは咄嗟にこらえた。
「アヤメ?」
すぐ隣で、ミラの声がした。
振り向く余裕はない。ただ、痛みが引くのを待つ。
「大丈夫じゃない顔してるけど?」
「……ちょっと、頭が、痛い」
アヤメの声はかすれていた。
「こっち」
ミラは迷わずアヤメの腕を取って、広場の端にあるベンチまで連れていく。
アヤメを座らせ、自分は立ち上がる。
「ここで待ってて。すぐ戻る」
返事を待たずに、ミラは近くの屋台へ駆けていった。
アヤメは花畑を見ないように、視線を足元に落とす。
さっきの光景。
あの空と花と風。
どこかの記憶だとしたら、自分はそこで何をしていたのか。
誰といたのか。
考えようとすると、頭の奥がまたずきりと痛む。
アヤメはそこで思考を切った。
「お待たせ」
ミラが戻ってきた。
手には、透明なカップが二つ。
「これ。甘くて冷たいから、ゆっくり飲んで」
アヤメは受け取ったカップの中を覗き込む。
薄い琥珀色の液体に、小さな氷の粒が浮かんでいた。
一口、口に含む。
冷たさと甘さが、舌と喉を滑り落ちていく。
ほんの少しだけ酸味があって、不快感はまったくない。
胸の奥にたまっていた緊張が、少しだけほどける。
「……おいしい」
ぽつりとこぼれた言葉に、ミラの目が丸くなった。
「今、“おいしい”って言った」
「言った」
「ふふ、なんか嬉しい」
ミラは自分のカップを一口飲んでから、アヤメの顔を覗き込む。
「最近さ、アヤメ、表情柔らかくなってきたよね」
「そう?」
「そう。最初は“何考えてるか全然分からない”って感じだったけど、今はちゃんと分かるときがある。今も、“ほっとした”って顔してる」
アヤメは無意識に自分の頬に触れる。
「……そう見える?」
「見えるよ。多分ね、“感情が出てきた”んだと思う」
ミラは穏やかに笑う。
「前から“感情がない”わけじゃなかったと思うけど、うまく表に出せなかったんだと思う。でも、最近はちゃんと顔に出るようになってきた」
アヤメは少しだけ考えた。
「それは、ミラのせい」
「せい?」
「ミラが、話しかけてくる。世話する。怒る。笑う。……だから、わたしも、何か言わなきゃって思う」
「それ、かなり嬉しいこと言ってる自覚ある?」
ミラは照れくさそうに笑った。
アヤメは、少しだけ視線をそらしてから、ぽつりと続ける。
「ミラは、わたしのお姉さんみたい」
その言葉に、ミラは一瞬固まった。
それから、ゆっくりと瞬きをして、困ったような、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべる。
「……お姉さん、ね」
「嫌?」
「嫌じゃない。全然嫌じゃない。でも、なんか不思議な感じ」
ミラは自分の指先を見つめながら、小さく笑う。
「前にもね、“妹がいたらこんな感じかな”って思ったことあるの。だからちょっと、胸がきゅってする」
「きゅって?」
「嬉しいのと、少しだけ切ないのが混ざった感じ」
アヤメは、その感覚を言葉のまま頭の中にしまい込んだ。
理解できたかどうかは分からない。
けれど、ミラが今、そう感じているという事実は受け取る。
頭痛は、さっきよりだいぶ引いていた。
「さっきの、花畑見たときのこと。教えてくれる?」
ミラの声は責める色を一切含まない。
アヤメは少しだけ息を整え、言葉を選ぶ。
「ここに来て、あの花を見たとき。知らない景色が頭に浮かんだ」
「知らない景色?」
「青い空。ずっと広い花畑。ここよりも、もっと静かで……誰もいなかった」
「誰かと一緒じゃなくて?」
「分からない。そこまで見えなかった。でも、その景色が浮かんだ瞬間、頭がすごく痛くなった」
ミラは真剣な顔で聞いている。
「怖かった?」
「……少しだけ。でも、それより“知りたい”が先に来た」
「だろうね」
ミラは苦笑する。
「アヤメらしい」
ミラはしばらく沈黙した後、花畑を一緒に見つめた。
「答えは、今すぐには出ないと思う。どこなのか、なんなのか。でも」
ミラは横目でアヤメを見る。
「いつかさ。もし世界のどこかに、本当にそんな場所があるなら、その時は一緒に見に行こうよ」
「一緒に?」
「うん。一人で探しに行かれたら心配だから」
アヤメは少しだけ目を細めた。
「……いい。ミラと一緒に行く」
「約束ね」
ミラは右手の小指を少しだけ立ててみせ、それから照れくさそうに笑い直した。
「さ、落ち着いた?」
「うん。もう平気」
「じゃあ――お待ちかねの、買い物に行きましょうか」
ミラは立ち上がり、手を差し出す。
アヤメはその手を見て、一瞬だけ迷ってから、自分の手を重ねた。
⸻
最初に入ったのは、通りに面した服屋だった。
「いらっしゃい」
店主の女性が笑顔で出迎える。
ラックには、色あざやかなシャツやコート、厚手のパンツやジャケットが所狭しと並んでいる。
「アヤメ、これとかどう?」
ミラが持ってきたのは、落ち着いた紺色のシャツと、動きやすそうな黒のパンツ。
アヤメはそれを見比べる。
「動きやすそう」
「大事なのはそこなんだね」
試着室に押し込まれ、着替えさせられ、ミラにくるりと一回転させられる。
「うん、似合う。ちょっと大人っぽい」
「大人?」
「十八なんだから、十分大人だよ」
何軒か服屋を回るあいだ、アヤメはずっと周囲を観察していた。
服の縫い目。
素材の質感。
どこが擦り切れやすくて、どこが長持ちしそうか。
それを見抜きながら、必要最小限のものだけを選ぶ。
ミラはそれに毎回、苦笑い混じりに感心する。
「ほんと、アヤメって“無駄がない”よね」
「無駄を持つ余裕がなかったから」
「……それも、いつか変わるといいな」
そんな会話を交わしながら、二人は次の店へ向かう。
ふと、アヤメの足が止まった。
「どうしたの?」
ミラが振り向くと、アヤメはショーケースの中をじっと見つめていた。
小さな店。
ガラスケースの中には、金属や石を使ったアクセサリーが並んでいる。
シンプルな銀のネックレス。
小さな石のついたピアス。
どれも特別高級そうではないが、丁寧に作られている。
「欲しい?」
ミラが尋ねる。
アヤメは首を横に振った。
「ミラに、合いそうだと思った」
その言葉に、ミラの胸がきゅっと鳴った。
「……そう?」
「うん。ミラがつけてたら、似合うと思う」
「反則だよ、それ」
ミラは思わず顔を覆い、それから勢いよくアヤメの手を掴んだ。
「じゃあ、お揃いで買おう」
「お揃い?」
「そう。私とアヤメ、お揃い」
アヤメは少しだけ考えてから、小さく頷いた。
「……うん」
選んだのは、さりげない銀のネックレスと、小さな石のついたピアス。
色は、薄い水色。
「アヤメの目の色」
ミラは店を出ながら言った。
アヤメは自分の手に握られた小さな箱を見つめる。
「ミラも、同じ」
「うん。同じ。――お揃い」
その言葉が、妙に胸に残った。
⸻
「さ、じゃあ本命行こうか」
服とアクセサリーの紙袋を抱えながら、ミラが言う。
「本命?」
「うん。今日アヤメを一番連れて行きたかった店」
路地を抜け、少し人気の少ない通りに出る。
そこに、古びた看板を掲げた店があった。
鉄と油と焼けた金属の匂いが、入口から漏れてくる。
「ここ」
ミラは扉を開けながら、大きな声を上げた。
「おじさーん! 久しぶり!」
「おお?」
奥から、がらがらした声が返ってくる。
姿を現した男は、髭面にスキンヘッド。
太い腕。
よれたタンクトップに汚れた作業着。
首には汗を拭くためのタオル。
「ミラじゃねぇか。元気に生きてたか」
「なんとかね。今日はこの子の武器を見てもらいたくて」
ミラがアヤメの背中を軽く押す。
店主の視線が、アヤメを頭のてっぺんからつま先まで、じろりとなぞった。
「ふん……」
短い鼻息。
それだけで、どこか値踏みされた気配がする。
「ここのおじさんね、ジャンク品とか鉱石とかから武器や防具を作ってるの。腕はいいよ。そこそこ値段はするけどね」
ミラが小声で説明する。
「当たり前だ。安物を売る気はねぇ」
店主はにやりと笑った。
「嬢ちゃんの武器を作る前にだ。まず、お前さんの力を見せてもらいてぇ。裏に広場がある。ついてきな」
三人は店の裏手に回る。
そこには、古い訓練場のようなスペースがあった。
砂地の地面。
壊れた標的。
そして――数本の丸太。
「そこに立ってる丸太が見えるな?」
店主が顎で示す。
普通の木に見える丸太と、その少し奥に、異様に太い一本が立っていた。
「あの太い方を、今持ってる刀で斬ってみな」
ミラが口を挟む。
「おじさん、その細い方じゃなくていいよ。アヤメ、強いから。あっちの太い方にしよ」
指さした先。
直径五メートルを超える、巨大な丸太。
「おいおい、待て待て」
店主は思わず笑った。
「あれはさすがに無理だ。大きさもそうだが、あの木は“鋼鉄樹”って言ってな。普通の木じゃねぇ。鉄みたいに硬い。あれを切るなら、よっぽどの腕と刃が必要だ」
「まぁ見てて」
ミラは店主の肩をぽんぽんと叩いた。
「アヤメ、いいよ」
アヤメは丸太を見つめる。
幹の太さ。
木目の流れ。
繊維の向きと、力の逃げ道。
「斬っていい?」
ミラにだけ確認を取る。
ミラは大きく頷いた。
「どうぞ」
アヤメは一歩前へ出る。
刀の柄に手を添える。
空気が静まる。
カチャ。
鞘に納まる音だけが鳴った。
誰も、刃が抜かれた瞬間を見ていない。
風さえ、抵抗する暇がなかった。
「ほらな、言わんこっちゃねぇ。いくら強くたって――」
店主がミラの方に振り向く。
その瞬間。
ズドォォン――。
鈍い破砕音が、訓練場に響いた。
「……は?」
店主は慌てて振り返る。
鋼鉄樹の丸太が、斜めに、綺麗に切り落とされていた。
切断面は滑らかで、繊維の裂けもほとんどない。
「お、おいおいおい……」
店主の口が、だらしなく開く。
アヤメは、何事もなかったかのように刀を納め終え、こちらに歩いてくる。
ミラは胸を張って言う。
「ね? 言ったでしょ」
店主はしばらく言葉を失っていたが、ようやく、かろうじて声を絞り出した。
「……嬢ちゃん。お前、本当に人間か?」
「人間」
アヤメは首を傾げるだけだった。
「それとね」
ミラが追い打ちをかけるように言う。
「アヤメはホルダーよ。属性は雷。でも、この場では見せられない。適合率は正確じゃないけど、多分五十パーセントは超えてる」
「……」
店主は目を見開き、何か言いかけて、それを飲み込んだ。
「その話は、もちろん他言無用でお願いね」
ミラがさらりと釘を刺す。
店主は少しのあいだ沈黙し、それから大きく息を吐いた。
「……ああ、言わねぇよ。俺は武具職人だ。他人の事情を吹聴する暇があったら、ハンマー握ってる」
そして、ゆっくりと口角を上げる。
「こんな嬢ちゃんに、自分の産んだ武器を持たせられるなら――職人冥利に尽きるってもんだな」
店主はアヤメの方をまっすぐ見た。
「分かった。時間がほしい。今日は一回帰ってくれねぇか。そうだな……一週間。再来週の同じ時間にまた来い」
「一週間?」
ミラが問い返す。
「おう。嬢ちゃんの体格と癖に合うもんを、ちゃんと考えて作りてぇ。雑に作るには、惜しすぎる素材だからな」
最後の「素材」という言葉に、どこか敬意が混じっていた。
ミラはにっと笑う。
「分かった。じゃあ一週間後。また二人で来るね。おじさん、期待してるから」
「ああ、任せとけ」
店主は右手を高く上げた。
店を出る頃には、空は少し赤みを帯びていた。
「どうだった? 今日は」
帰りの車の中で、ミラが聞く。
アヤメは少しだけ考え、それから短く答える。
「疲れた。でも、悪くない」
「それ、最高の感想だよ」
ミラは笑いながら、ハンドルを握り直した。
一週間後。
新しい刀との出会いが、アヤメを待っている。
そのことを思うと、胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴った。




