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第五話

五、

 信長さまの私に対する態度は変わりませんでした。那古屋城にいるとよく私を見晴台に連れていきました。そして上から領地を眺めまわすのです。望遠鏡とかいう細長い筒をもっていて、そこの「れんず」 というものを通して見ると遠くのものが近くに見えるのです。そういう不思議なものを私に惜しげもなく見せてくれました。でも昼はともかく夜も連れていかれることもあったのです。さすがに「れんず」 は使いませんでしたが夜でも彼は平気でした。きっと信長さまは夜目がきくのでしょう。

「帰蝶、方角がわかるか、あっちが美濃だ。お前の里だ」

 ……日中はお忙しいのはわかっていましたから、一緒に何かをするというのが私にとってはうれしいこと。見えずとも私は微笑するだけで何も言いませんでした。

 ですが毎度信長さまは「あちらが美濃だ、お前の里だ」 と申すので一度遠慮がちに「いつも夜なので今度は昼間にでも」 と言ったことがあります。すると信長さまは「昼間は自分の足と目でみるものだ」 と返事されました。その時、信長さまは灯りをふっと消しました。あたりは星の明かりだけになりました。そこは狭く二人だけでぎゅうぎゅうです。すぐ下の階には家来や女中も控えているので心配されないかと思いました。信長さまは私の手をひいて私の髪をすきました。それはいつもよりもやや乱暴でした。低い声で私に話しかけました。一言ずつはっきり区切って話しました。

「ここで、のろし、を待っているのだ」

「のろしですか?」

「今はいの一番に織田家を制定しないといけないが、私は同時に美濃も欲しいのだ」

「えっ」

 私は血の気がひいていくのがわかりました。髪を強く持たれているので顔があげられず、信長さまの表情がわかりません。

「よく聞け。斎藤道三の首をあげたらこっちに連絡がくる。すぐに奇襲をかけて美濃をとるのだ。私は信勝を抑え込むと同時に近辺に戦をしかけて領地を広げるつもりなのだ」

「の、信長さま……」

 自分の声がうわずっていくのがわかりました。声もふるえてしまいます。私の実家、斎藤の父上、母上、兄上の顔を思い浮かべました。なんとひどいことを思いつかれるのでしょうか。信長さまは私の髪を強くひっぱられました。身動きできないようになっています。

「お前は私の妻、織田家の人間だ。私の言っている意味はわかるな」

 私はその状態でも口は動かせます。なので思いとどまるように言いました。

「信長さま、それはおやめください。私はそうならぬためにあなた様のもとに嫁いできたのです」

「帰蝶、この世は結局は食うか食われるか、どちらかだ。道三もまたお前にとってはよき父上だろうが私にとっては単なる邪魔ものだ。幸い呼応するものがいる故、今川よりも斎藤の方から攻め入ることにした。先にやりやすい方からするのは戦の定則だろう」

「では同盟を解消されるおつもりですね、美濃の父上を裏切るものは一体誰なのですか」

「その名を聞いてどうするつもりだ」


 信長さまは私の髪から手を放しました。やっと見上げることができたと思ったら、信長さまは底光りのする目で私をにらみつけています。私はもう涙でかすんで信長さまの顔もぼやけた状態です。足元から力が抜けて床に手をついてしまいました。そのままの姿勢で私はうめきます。

「ひどうございます……私は……」

 頭上から信長さまの声がしました。とてもやさしいお声でした。

「お前が私に泣き顔を見せるのは二度目だな。帰蝶、その裏切り者の名を知りたいか?」

 私はこの瞬間、斎藤家の帰蝶に戻りました。まだ織田家も信長さまも知らない父上と母上に甘えるただの娘に戻りました。

「ええ、教えてください。私はだれあろうと許せぬわ」


 信長さまは私の父上を裏切って首を切ろうとした部下の名前を言いました。聞くなり私は頭をがーんと殴られたような衝撃を受けました。幼少時からかわいがってもらい、親しんできた名前ではないですか。父上も母上も信頼して出入りも自由です。斎藤家の重臣にあたるものがなぜ織田家に呼応したのか? それも三名も。信長さまはじっと私をながめておいででした。何か考えていらっしゃいます。でも私はそこまで考える余裕がありませんでした。

「帰蝶、名を教えたぞ、どうする?」

 はっとした私は顔をあげました。信長さまは灯を消したまま、星のあかりだけを頼りに階段を下りてゆかれるところでした。上階に残されたのは私一人。

 信長さまが降りていかれたのに、私がなかなか下りてこないのに心配したイネがあがってきました。

「姫様、いかがしましたか。何か信長さまに言われたのですか」

 私は唇をかたくかみしめました。私はその夜も何もしゃべりませんでした。でも早朝とうとうイネを呼んで斎藤家宛に密書を託しました……そうです。父上宛に。

 ……気をつけてください、裏切られることのないよう細心のご注意を払っていただくよう……密書を……送りました。

 私は一言もモノを言わずイネも黙って受け取りました。女中に美濃との境の村の出自のものがいたので送らせたのです。女には女同志でそういうやりかたで密書を送れたのです……私は一言もものを言わず、ずっと黙っていました。信長さまがあの時どういう思いで、私に斎藤家の裏切り者の名前を告げたのか、私には考える余裕はありませんでした。その結果は一週間後にでました。

 ……「その時」 はすぐに来ました。

 私はこの話をしないといけません。


 その時……夜でしたが信長さまは私たちの部屋で過ごしていました。深夜でもなかったし、早い時間だったので覚えています。夕食もめずらしく私の部屋で食べました。例によってイネや他の女中たちは別の部屋に控えていましたので本当に二人きり。この時間帯で二人きりというのはあまりなく私もうれしかったです。

 信長さまはいつも背筋をまっすぐにのばして食事されます。よく斎藤の父上が兄上たちに食事する姿を見て、刀槍が上手に使えるか騎馬戦がうまいかすぐわかるんだぞ、もっとしゃんとして飯をくえと言って聞かせていたのを思い出しました。

 信長さまの食事は時には足を投げ出したりという行儀もありましたが、その夜は違いました。ご立派なおふるまいです。椀の中のものも残さず全部食べ終わると音を立てずにそっと膳の上に箸を置きました。それから私を見やりました。私は信長さまはいらっしゃる時は一緒にモノを食べず控えていましたがその日に限って「帰蝶はお腹がすかないのか」 と言いました。

「……女はあとから食べるのです、殿方のご飯がなくなると困りますから」

「であるか」

 事実そうでしたから、私は微笑して黙ってました。お腹がすくとかすかないという問題ではありません。こうして信長さまと二人でいる、というのがうれしかったのです。

 夕暮れが来るとすぐに夜になります。星がまたたいてくると信長さまは戸を半分だけ開けて廊下に立ちました。

「もうそろそろ来るだろうな」

「どなたかをお待ちですか」

「忍びが来る、ほら来たぞ」

 信長さまは小声でささやくと「こっちへこい」 と言いました。私は言われるままに縁側ににじりよりますと、「いるのがわかるか?」 と聞かれました。私にはわかりません。

 ですがそのままじっとして庭を見やりますと、大きな庭石の一つ、その影がゆっくり動いたと思うと人影になり、一瞬で私たちの目の前に丸く固まった黒ずくめの衣装をまとった人間が現れました。顔も黒い布で覆われ表情はわからず、なので年齢も名前もわかりません。これが信長さまのもっている間者、忍者なのだ……私は黙って見ていました。間髪いれず信長さまが小声ながら鋭い声で「首尾は?」 と聞きました。

 その忍びもまた野太くもあるがしかし低い小声で「上々、きっちり仕上がりましてでござります」 と申しました。その間顔もあげず土下座したままです。信長さまは満足そうにうなづくと「よし行け」 と言いました。瞬間人影は闇に溶けてなくなるように消えてしまいました。私は言葉なく驚いていましたが信長さまは戸を閉めると、私に向かって「帰蝶、今の話わかったか」 と聞きました。わからないので、黙っていると「あれは斎藤家に入れている忍びだ」 と言いました。

 私は黙ったまま目を大きく見開いたと思います。信長さまは立ったまま私を見下して「あれものろしだ、のろしがあがったのだこの意味がわかるか」 と言いました。私は、はっとしました。

「もしや斎藤家の父上に……」

 信長さまは大きくうなづきました。

「お前のおかげで斎藤家の重臣がいなくなった。少しは攻めやすくなったかと思うぞ」

「重臣がいなくなった……どういうことですか」

「お前が前に教えてくれた三人の名前さ、三人とも殺されたわ。はは、道三は人を信じない。だから諫言に惑われて風評に負けまいとその元を斬ったのだわ。こちらの思惑通りにあやつはよく動いてくれた。斎藤家は根元からぐらついてくるぞ、それは織田家も一緒だ。今川家も徳川家も弱ってくるぞ。私が全部いただく、平定して私の国にする。織田家の国ではなく、織田信長という私の国にする」

「信長さま、そんな。同盟はどうなったのですか、どうなるのですか」

「私の知ったことではない」

 私は黙りました。信長さまは私を見降ろしたままです。じっと底光りのする目でみすえたままです。私もまた座ったまま信長さまのお顔を見上げたままでした。私は信長さまがさきほどの間者にどういう指示をだしてどういうやりかたで腹心の重臣を殺すようにしむけたのかはわかりません。重臣にはあわれなことをしましたが、父上がどうというよりも私には信長さまに騙されたという悲しい事実が私を打ちのめしました。

 信長さまが私が重臣の名前を密書で連絡させるのを見通していました。だから私を騙したのです。計画通りに事を運ばせたたというのをわざわざ告げにきたのです。このために私と一緒にいたのでした。どういうことでしょう、なんということでしょう。信長さまはそのために私と一緒に過ごしたのです。この短い大事な時を。私の頬が濡れてきました。

 信長さまの私に対する親愛の情がもうなくなっていることをこの時、私ははっきり悟ったのです。でもいつからこのようなことになってしまったのか。信長さまは、私から背を向け、薄暗い部屋を退出されました。私は黙ったまま声をかけませんでした。それが……私の、私たちがすごす部屋で信長さまを見た最後になりました。とても残念でした……。


 ここからの話はもう私が子供を生む生まないという問題ではない話になります。彼にはもう人間的な愛情というか親愛の情というか、そういうものを持たなくなっていました。私のほかに側妾がいる? もしいたとしても信じられないことです。その夜は私は信長さまにだまされたとばかり思って悲しみに沈んでいましたが、考え込んでいるうちに義父上の信秀さまが亡くなってからの土田御前の態度をふと思い出しました。あの時も信長さまはいなくなったけど、それはもしかして土田御前のありよう、お父上が亡くなってからのお母上の考えのありようが手にとるようにわかっていたからではないか。

 信長さまはそれを見たくなかったのではないか。幼少時のときから、生母たる土田御前に疎まれ、ご次男の信勝さまといつも比べられ。本当はつらかったのではないかと思います。信長さまの奇妙なおふるまいはもしかして彼なりの母上への自己主張だったのかもしれないと。そしてそれは女性不信へとつながる。

 結局、信長さまは後年私以外にも妾を迎えられお子もできました。だけど真実好きになったお人はいらっしゃらないでしょう? 正妻は私だけなのです。そして愛妾たちが産んだ子供の中で嫡男の信忠さまを早い時期から後継者としてあとの次男、三男は他家に養子にさっさとだされました。土田御前にうとまれ実の弟から戦で責められた経験をもった信長さまの傷の深さがわかろうというものです。

 信長さまはあの本能寺の変で信忠さまともども亡くなりました。結局は織田家と全く血縁のない貧農出身の羽柴秀吉が後継者になりました。羽柴はのちに豊臣秀吉と名乗り、関白と名乗って天下を取りました。だけどしょせん貧農上りの男、すぐに地下の本性を現しこれも人心を惑わせたツケがきて豊臣家はすぐに壊滅しました。最後の最後は私の父上の斎藤道三が歯牙にもかけなかった今川家の人質……それが次の天下をとったのです。そう、かの徳川家、徳川家康に覇権がうつっていったわけです。


 ああ、私の信長さま。私をうとむとは、ひどうございます。でもね、私を迎えてくれた婚礼の夜、深夜もふけた夜。彼は出迎えてくれた家臣と一緒でもなかったけど、深夜に花婿として私を迎えてくれました。正妻として迎えてくれたのです。これだけは後世に残ることですし、私を好きになってくれたのも事実です。一時でも私を信頼してくれただろうと思っています。でも天下平定を目指すからには、心の支えになりきれない私を見捨てたのでしょう。そう考えるのは私が無学だからかもしれません。でも私なりに考えたことです。

 もしかしてあの時、私は美濃の斎藤家のことを、父上のことを考えずに何も言わなかったとしたら。また、私たちの間に子供ができていたとしたら。信長さまは斎藤家よりも自分をとってくれたのだと思って信頼しつづけてくれたかもしれないと。私がしゃべったばかりに里の父上に疑いを持たせられ、罪もない重臣を殺しそれは後年兄の義龍の不仲で親子して争うことにもつながりました。一番大きなことは私がしゃべったばかりに信長さまの信頼を失ったのだ、ということです。織田家の進展? そんなことはどうでもいいのです。私は信長さまと一緒にいたかった。だけど信頼してもらえなくなったのです。私への信頼と愛情が消えてなくなってしまって当然です。やはり女は黙って従っていればよかったのだ……私はそう思います。

 次の朝、信長さまの家臣が私の部屋にやってきました。早くも私は尾張の山の一つにある尼寺に行くように告げられたのです。手際良く迎えまできていました。私は黙って従いました。事情がわからぬイネはどうしてと泣きましたが「泣くではない」 と言いました。

「殿の心はすでに私から離れている、だから当然のことなのだ。泣くではない、泣くならそなただけ美濃へ戻るがよい」

 私はそういい渡しただけです。見送る人もいない那古屋城からの旅立ちでした。ここまでされたら私はかえって落ち着いてゆっくり考え事ができるというものです。そうこうして死ぬまで私は転々と住む場所は変わりましたものの、考える時間だけはたっぷりあったというわけです。

 ……話が前後しましたね、ほほ。


 その後の信長さまのご活躍、天下をとられるまでの話はあなた様の方がようご存じでしょう。天下をとった武将としての信長さまには私には何もいうことがありませぬ。しかしながらその功績にかくれた彼の非情な行動はご存知ですか? 捕えられた武将は時として骸骨にして金粉を塗りたてた杯にしたり、罪もない母親や小さな子供を平気で殺したり、比叡山では仏に仕える名のある高僧まで残虐なやりかたで殺しました。まさに魔王と言われるにふさわしい行動でした。それはほめられたことでもなんでもないです。人心は離れるでしょうし、事実彼は腹心の一人とされていた当時の明智光秀に謀殺されました。

 信長さまは後継者とされた信忠ともども亡くなったのです。ちなみに信忠は私の息子ではなく愛妾の生駒が生んだ息子です。私とはもちろん面識はありません。

 信長さまがご自分の首をご自分で斬ったと、それで亡くなったと。自分と信忠の死骸がどこかにさらされるのを恐れて何も残らないようにしたとか。きっとそれは自分が恨まれているだろうという自覚はあったからでしょう、頭の良いひとですからわかっていたはずです。自分が死ぬことで喜ぶ人心がどれほど多いか。信長さまの最後はみくびっていた腹心の明智に謀られ、憤死としかいいようのない死に方です。当然の報いでございましょう。その死にざまを聞いたときはそういうことをされても当然だという思いもありました。

 信長さまの死を聞いて私はすぐに髪を落として尼になりました。尼になってからの私はよい高僧のお導きもあって、より深く仏道というものを学べたように思います。私もまた本当は信長さまの冷たい仕打ちを恨んでいました。でも私は何も言いませんでした。それでよかったのです。それに私は信長さまに感謝しているのです。

 折々の金銭は届けてくれたので生活に心細い思いはしませんでしたし、信長さまの死後も諸大名は私を亡き信長さまの正妻として扱ってくれますもの。後継者の羽柴もそして次の徳川も折々のあいさつの書状と金品は届けてくれるのですから。周囲の恐怖と畏怖されていたあの非人情的な性格でもって、天下取りの基礎を築きあげた功労者ですもの。私はその正妻ですもの。それは当然でしょう。

 信長さまは後継ぎを生めなかった私を見限ってしまわれたけど、約束は守る人でした。そう、私は正妻とする。そういう意味では私を尊重してくれたのですから。約束を守ってくれたのですから。私はそれで満足していますから。

 ああ、目の前が白くぼやけてきました。これは私の涙ではない。私が寿命がつきていくのです、人間はこれでいいのです。私は長生きしすぎました。どういう扱いをされようと私は…そうです、私は黙ってしゃべりませんでした。

 ……それが一時でも天下をとった織田信長の正妻の意地というものです。


                                      完





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