第1章 幸せな日々の終わり
時系列の調整のため、学年と年齢を訂正しました。
私の名前は、綾瀬奈々。
高校1年生の、明るく元気な女の子だ。
父泰三と母みさえの三人で暮らす、ごく普通の家庭。
特別裕福というわけではなかったけれど、私には何不自由のない、幸せな毎日があった。
私は人と関わることが好きな性格で、近所の人たちとも気さくに話をする。
顔見知りも多く、買い物に出かければ、誰かしらと立ち話になることも珍しくなかった。
そんな私には、仲のよい小さな友達が二人いた。
田中花子ちゃんと、佐藤浩太くん。
二人は小学1年生の幼馴染で、いつも一緒に遊んでいた。
どこへ行くにも一緒で、けんかをしてもすぐに仲直りする。
その仲のよさは、近所でも評判だった。
「この二人、将来は結婚するんじゃないかしら」
近所のおばさんたちが、そんなふうに笑いながら話すこともあった。
二人は私のことを「なな姉ちゃん」と呼び、よく懐かれていた。
私も二人がかわいくて仕方がなかった。
まるで、自分にかわいい弟と妹ができたような気持ちだった。
花子ちゃんが学校であった出来事を一生懸命に話してくれる横で、浩太くんがちょっかいを出す――、そんな二人を見て、私が笑う。
どこにでもある、ありふれた日常。
私にとっては、かけがえのない幸せな時間だった。
そんな日々が、いつまでも続くと思っていた。
あの日が来るまでは――。
ある日突然、私の人生は大きく変わった。
母が亡くなったのだ。
あまりにも突然の出来事だった。
母の死因は、事故死。
警察の説明によれば、母は駅の階段を踏み外して転落し、頭を強く打ったのだという。
頭の外傷以外、身体に目立った外傷はなく、事件性を疑わせるような不審な点も見つからなかったそうだ。
けれど、私はどうしても納得できなかった。
母の亡骸を目の前にしたとき、私は言葉を失った。
出かける前、あんなにも元気だった母。
「心配しなくていいからね。すぐに帰ってくるから」
そう言って、いつもの笑顔で私を安心させてくれた母。
その母が、まるで別人のように、冷たくなって横たわっていた。
事故で亡くなったという説明と、私が目の当たりにした母の姿。
その二つが、どうしても結びつかなかった。
そして、私はある疑念を抱いた。
――これは、本当に事故だったのだろうか。
いや、違う。
母は、誰かに殺されたのではないか。
そう考えるのには、理由があった。
母は近所のスーパーでレジ打ちの仕事をしていた。
それだけではない。仕事の合間を縫って、NPO法人の医療支援活動にもボランティアとして参加していたのだ。
母がそうした活動に熱心だったのには、理由があった。
私のおばあちゃん。
母にとっての実の母親は、ある難病を患っていた。
母は、少しでも長く一緒にいたいと願い、懸命に看病を続けた。
しかし――、その願いもむなしく、おばあちゃんはこの世を去ってしまった。
大切な人を救えなかった悲しみ。
何もできなかったという悔しさ。
母は、その思いを抱えながら生きていたのだと思う。
だからこそ、同じように病気で苦しむ人たちを助けたい。
少しでも多くの命を救いたい。
そんな思いから、医療支援の活動に参加するようになったのではないだろうか。
私は、そう信じていた。
そんなある日、母はNPO法人の活動の一環として、ある薬の治験に参加することになった。
「危険なものじゃないから。」
母はそう言って、いつものように笑っていた。
私も、母の言葉を信じた。
医療に関わる人たちがきちんと管理しているのだろうし、母自身も納得したうえで参加するのだから、何も心配することはない。
そう思っていた。
そう信じていた。
だから私は、いつもと同じように母を見送った。
それが、母の生きている姿を見る最後の機会になるなどとは、夢にも思わずに。
そして、母は帰ってこなかった。
母の死について、警察は事故死という結論を出した。
「鑑識による調査でも、特に不審な点は見つかりませんでした。もちろん、捜査に手を抜いたわけではありません。現時点では、事件性を示す証拠がないんです」
警察官は、そう私に説明した。
私は必死に訴えた。
「でも、おかしいんです! 母は出かけるとき、あんなに元気だったんです。それなのに、どうして――。これは事故なんかじゃない! もっと詳しく調べてください!」
声が震えた。
涙があふれ、うまく言葉をつなぐこともできなかった。
それでも、私は訴えずにはいられなかった。
母は、ただ階段から落ちて死んだのではない。
きっと何かがあったのだ。
あの薬の治験が関係しているのではないか。
誰かが何かを隠しているのではないか。
しかし、私の訴えを裏付ける証拠はなかった。
警察官は困ったような――、しかし申し訳なさそうに、私に語りかけてきた。
「気持ちは分かります。でも、証拠がなければ、これ以上の捜査は難しいんです。」
その言葉を聞いた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
もう、何も言えなかった。
母は、もう帰ってこない。
どれだけ泣いても、どれだけ訴えても、母が戻ってくることはない。
それでも私は、母の死を事故として片づけることができなかった。
警察が見つけられなかっただけで、本当は何かがあったのかもしれない。
誰かが、母の死に関わっているのかもしれない。
その疑念だけが、私の心に深く残った。
しかし私は、ただ泣くことしかできなかった。
大好きだった母を失った悲しみと、真実を知ることさえできない悔しさ。
その二つが、私の心を押しつぶしていった。
あのときの私は、まだ知らなかった。
母の死の裏に、どれほど深い闇が隠されているのかを。
そして、この悲劇が、やがて幼い二人の子供たちを巻き込み、私自身をも取り返しのつかない道へと導いていくことを。
このときから、私の中で何かが少しずつ変わり始めていた。




