80.四面楚歌の三日月と赤きヒグマの牙――中東崩壊と影の密約
# 海洋帝国日本史 第八章:泥濘と狂乱の1942――崩れゆく世界と新たな火種
## 第九話:四面楚歌の三日月と赤きヒグマの牙――中東崩壊と影の密約(1942年11月)
### 1.孤島の落日――大英帝国、中東からの完全撤退(1942年11月5日)
1942年11月上旬。
ヨーロッパ大陸でアメリカ大西洋艦隊がドイツ戦艦の巨砲の前に海の藻屑となり、フランスの首都パリが鉤十字の軍靴に踏みにじられていた頃。
中東・アラビア半島の南端、インド洋に浮かぶ絶海の孤島**『ソコトラ島』**では、大英帝国の中東における「最後のともしび」が、今まさに吹き消されようとしていた。
「……弾薬が尽きた! ヤンキーの戦車が防衛線を越えてくるぞ!」
エジプトのスエズ運河から奇跡的な撤退を果たし、この島に立て籠もっていたイギリス中東軍の残存部隊。彼らは、圧倒的な物量でアラビア半島を南下してきたアメリカ陸軍の猛攻を前に、一ヶ月近くに及ぶ絶望的な籠城戦を戦い抜いていた。
しかし、アメリカ軍は容赦がなかった。
「ジャップの潜水艦がうろつく前に、この不毛な岩島をさっさと片付けろ! ハワイの敵討ちだ!」
星条旗を掲げたアメリカ海軍の巡洋艦部隊が、沖合から猛烈な艦砲射撃でソコトラ島の岩肌を削り取り、上陸したシャーマン戦車が火炎放射器でイギリス兵の塹壕を次々と焼き払っていく。
1942年11月5日。
「……これまでだ。全軍、島を放棄し、極東の同盟国(日本)が待つインド方面へ脱出せよ」
イギリス中東軍の司令官は、血の涙を流しながら「完全撤退」の命令を下した。
生き残った兵士たちは、夜陰に乗じて数隻の輸送船に乗り込み、燃え盛るソコトラ島を背にして東の海へと落ち延びていった。
このソコトラ島の陥落をもって、かつて世界の覇権を握り、中東の石油と運河を支配していた大英帝国の軍事的影響力は、アラビア半島および中東全域から**「完全に消滅」**したのである。
「勝ったぞ! 中東は完全に我々アメリカのものだ!」
アメリカ軍は歓喜の声を上げた。しかし、彼らが手に入れた中東は、決して平和な資源庫などではなかった。そこは、同盟国同士が際限なく血を流し合う、世界で最も醜い「内ゲバの泥沼」と化していたのである。
### 2.熱砂の泥沼――終わらない内ゲバと枯渇
アメリカ軍がソコトラ島で勝利の美酒に酔っていたのと同じ頃、はるか北の**パレスチナおよびシリア地域**。
そこでは、同じ枢軸陣営であるはずの**イタリア陸軍**と**トルコ陸軍**が、互いの喉元に食らいついたまま、完全に身動きが取れなくなっていた。
「マカロニ野郎どもめ! オスマンの誇りにかけて、一歩も通さん!」
「黙れケバブ売り! 新ローマ帝国の領土からとっとと出て行け!」
5月に始まったこの泥沼の戦争は、半年が経過した11月になっても、全く決着の糸口が見えなかった。
トルコ軍は、アメリカの介入を避けるために専守防衛に徹し、地の利を活かした極めて頑強な塹壕戦を展開。対するイタリア軍は、アメリカ軍に「勝手にしろ」と見捨てられ、装甲戦力と航空支援の圧倒的な不足に喘いでいた。
「……水がない。弾もない。何のために俺たちはこんな砂漠で、同じ同盟国と殺し合っているんだ?」
イタリア兵たちは、熱砂の塹壕の中で干からび、戦意を完全に喪失しつつあった。ムッソリーニの肥大化したプライドだけが、この無意味な戦争を強制的に継続させていたのである。
そして、この両者の「無益な消耗」を、北の巨大な氷の玉座から、最も冷酷で計算高い目で観察し続けていた男がいた。
### 3.北からの死神――赤いヒグマの南下(1942年11月10日)
モスクワ、クレムリン宮殿。
分厚いコートを羽織ったソビエト連邦の独裁者、ヨシフ・スターリンの口元に、残忍な笑みが浮かんだ。
「……イタリアもトルコも、砂漠で血を流しすぎて完全に干上がっているな。アメリカはアラビアの南端で遊んでおり、ヨーロッパではドイツとイギリスが死闘を演じている」
スターリンは、パイプの煙を燻らせながら、作戦地図の**『黒海』**と**『トルコ』**を太い指でなぞった。
「機は熟した。世界が目を逸らしている今こそ、かつてクリミア戦争で失われた我がロシアの権益を、すべて奪い返す時だ」
1942年11月10日。
世界中の誰もが予想だにしなかった最悪のタイミングで。
**ソビエト連邦は、疲弊しきったトルコ共和国に対し、突如として宣戦を布告した。**
「ウラー(万歳)!! 大地を赤く染め上げろ!」
地鳴りのような咆哮と共に、カフカス山脈の国境線と、バルカン半島側の二方向から、ソビエト赤軍の誇る**『T-34中戦車』**の数千両にも及ぶ大群が、猛吹雪を衝いてトルコ領内へと雪崩れ込んだ。
「な、なんだと!? ソビエトが攻めてきただと!?」
アンカラのトルコ政府は、あまりの衝撃にパニック状態に陥った。
彼らの陸軍主力は、南のパレスチナ方面でイタリア軍との泥沼の戦闘に完全に釘付けにされており、北の国境を守る兵力はスッカラカンであった。
「卑怯な真似を! イタリアと戦っている背後を突くなど!」
トルコの悲鳴など、冷酷な鋼鉄のヒグマには全く届かなかった。
圧倒的な機動力と火力を持ったソビエトの機甲部隊は、冬将軍の到来を味方につけ、防衛網の存在しないトルコの領土を蹂躙していく。
開戦からわずか数週間。ソビエト軍は黒海の要衝である**『クリミア半島』**のトルコ側拠点を瞬く間に完全占領し、黒海艦隊の艦砲射撃の援護を受けながら、トルコ本土の喉元へと鋭い牙を深く突き立てた。
### 4.四面楚歌の三日月――絶望のトルコ
11月下旬。
かつて広大な中東を支配したオスマン帝国の末裔、トルコ共和国は、建国以来最大の「絶対的な死地(四面楚歌)」に立たされていた。
南のシリア・パレスチナ方面には、未だに狂ったように攻撃を続けてくる**イタリア軍**。
北の黒海沿岸と東のカフカスからは、無尽蔵の戦車と歩兵を押し出してくる**ソビエト赤軍**。
頼みの綱であった**アメリカ合衆国**は、イタリアの暴走に怒ってトルコを見捨て、アラビア半島から一切の支援を送ろうとしない。
そして西のバルカン半島やギリシャも、イタリアとの密約によって完全にトルコに背を向けていた。
「……誰も、我々を助けないというのか」
トルコ大統領は、首都アンカラの執務室で頭を抱えた。
「ソビエト軍の先鋒が、イスタンブールとアンカラに向けて猛進撃を続けております! 南の部隊を北へ回さなければ、一ヶ月以内に首都が陥落します!」
「しかし、南の部隊を引けば、イタリア軍が怒涛のようになだれ込んでくるぞ!」
上からも下からも、巨大な万力でギリギリと押し潰されるような絶望。
トルコは、領土的野心(火事場泥棒でキプロスを奪ったこと)から枢軸側に加担した代償を、国家の存亡という最も重い形で支払わされようとしていたのである。
### 5.ペルシャの影――イランの密約(1942年11月25日)
中東がイタリア、トルコ、アメリカ、そしてソビエトの四つ巴のカオスに陥る中。
その戦火の東隣に位置する**イラン(ペルシャ)**は、極めて危うい綱渡りの外交を展開していた。
首都テヘランの迎賓館。
密室のテーブルを囲んでいたのは、イラン政府の高官と、分厚い軍服を着た**ソビエトの政治将校**。
そして、彼らと対面して座る、極東からやってきた背広姿の男――**大日本帝国・将軍府直属の秘密情報部員(御庭番)**であった。
「……トルコは長くない。アメリカとイタリアの阿呆どもが、中東を火の海にしている。我が国が生き残るためには、貴国らとの協力が不可欠だ」
イラン高官が冷や汗を拭いながら切り出すと、日本の情報部員は静かに頷き、書類を差し出した。
「我が大日本帝国は、イランの独立と平和を強く支持する。……現在インドに駐留している帝国陸軍(中東遠征軍)から、貴国へ最新鋭の対戦車兵器と莫大な資金を裏ルートで提供しよう。ヤンキーの戦車が国境を越えてきたら、それでスクラップにしてやればいい」
そして、ソビエトの政治将校も不気味に笑い、ウォッカのグラスを掲げた。
「我々ソビエト連邦も、イラン政府との『秘密不可侵条約』の締結を歓迎する。……我々の狙いはトルコと中国大陸だ。ペルシャの領土には手を出さん」
1942年11月25日。
**イラン、ソビエト、大日本帝国の間で、極秘裏に『三国秘密不可侵および相互支援条約』が結ばれた。**
イランにとって、これは巨大な軍事力を持つアメリカとイタリアから自国を守るための「絶対的な防波堤」であった。
ソビエトにとっては、トルコを確実に仕留め、さらに中国戦線(共産党支援)へと注力するために、南の国境の安全を確保する極めて合理的な取引であった。
そして大日本帝国にとっては。
「……これで、アメリカとイタリアの中東における進軍ルートは、イランという『巨大な壁』にぶち当たって完全に停止する。ヤンキーどもを中東の泥沼に釘付けにできれば、我が国の太平洋での戦いが格段に有利になるというわけだ」
日本の情報部員は、テヘランの夜景を見下ろしながら、冷徹にタバコの煙を吐き出した。
大英帝国が中東から去った後。
この広大で血塗られた熱砂のチェス盤を裏から支配し、大国たちを意のままに操っていたのは、軍隊ではなく、極東の島国から放たれた「冷酷なインテリジェンス(謀略)」の糸だったのである。
### 6.エピローグ――狂乱の11月が終わる
1942年11月末。
中東とユーラシアの勢力図は、ソビエト連邦の電撃的な参戦と、日本の陰謀によって完全に塗り替えられた。
大英帝国はソコトラ島を失い、中東から完全に姿を消した。
イタリアとアメリカは、自らの野望のせいで中東の泥沼に足を踏み入れ、身動きが取れなくなっている。
そしてトルコは、赤いヒグマの巨大な爪に引き裂かれ、国家滅亡のカウントダウンを数え始めていた。
同盟、裏切り、そして密約。
もはや、誰が正義で誰が悪なのか。誰が味方で誰が敵なのか。
世界中の政治家と将軍たちは、自らが引き起こした「狂乱の嵐」をコントロールする術を完全に失い、ただ目の前の血の海を泳ぎ続けることしかできなくなっていた。
そして、世界が中東の崩壊とソビエトの脅威に戦慄している中。
太平洋のど真ん中、オアフ島では、大日本帝国とアメリカ合衆国による、一歩も引かない「地獄の消耗戦」が、血みどろの最終局面を迎えようとしていたのである。
(第八章 第九話 完)
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