46.碧眼の令嬢と若き提督の熱洋
海洋帝国日本史 閑話
帝国旅行記第二弾:碧眼の令嬢と若き提督の熱洋(1937)
1.プロローグ――虎玖の海と、黄金の髪
1937年(昭和12年)、初夏。
赤道直下の南洋道・虎玖海軍基地。
世界最強を誇る帝国海軍の巨大な要塞であり、数多の戦艦や巡洋艦が碇を下ろすこの鋼鉄の島に、一隻の民間豪華客船が優雅に接岸した。
タラップを下りてくる乗客たちの中で、一際周囲の視線を惹きつける女性がいた。
近衛麗子――五摂家筆頭・近衛家のご令嬢であり、お茶の水女子大学で学ぶ21歳の女学生である。
彼女の容姿は、当時の日本の常識からかけ離れていた。近衛家に嫁いだ英国貴族の血筋を引く彼女は、日本人離れしたすらりとした長身と、透き通るような**「碧眼」を持っていた。
さらに、欧風文化をこよなく愛する彼女は、その豊かな髪を輝くような「ブロンド(金髪)」**に染め上げていたのだ。
1930年代において、髪を金に脱色・染色する技術は極めて特殊かつ高額であり、帝都・銀座の超高級美容室でしか行えない「究極の贅沢」にして、最先端のモダニズムの象徴であった。真っ白なサマードレスに、つばの広い麦わら帽子。輝く金髪と碧眼の彼女は、まるでハリウッドの銀幕から抜け出してきた銀星のようであった。
「麗子」
埠頭で彼女を待っていたのは、純白の第二種軍装(夏服)に身を包んだ長身の海軍将校。肥後細川家の次期当主にして、帝国海軍が誇る若きエリート、細川護貞大佐(25歳)である。
「護貞様!」
麗子は、周囲の海軍兵士たちが顔を赤らめて直立不動になるのも構わず、護貞の胸にふわりと飛び込んだ。
「お待たせいたしました。虎玖の海は、あなたの軍服と同じくらい真っ青で綺麗ですね」
「長旅ご苦労だったね。君のその美しい金髪が、南洋の太陽の下で一段と輝いているよ。……さあ、行こうか。我々の『特別な旅』の始まりだ」
護貞は、愛おしそうに麗子のブロンドの髪を撫でると、彼女のエスコートをして迎えの軍用車へと乗り込んだ。
これは、迫り来る世界大戦の足音を前に、二人が永遠の愛を誓うための、壮大なるハネムーンの序章であった。
2.火地のアラビアン・ナイト――星降る夜のプロポーズ
護貞が特別休暇を取り、二人がまず向かったのは、虎玖からさらに南へ下った帝国の「内地」、**火地**である。
当時のフィジーは、帝国政府と財閥が莫大な資金を投じて開発した「華族および世界の超富裕層専用のリゾート地」であった。
中でも彼らが滞在したのは、英国貴族のロマンティシズムと中東の様式を融合させた**「アラビアン・リゾート」**。海に面した広大な敷地に、シルクの天蓋が張られた巨大なテント風のヴィラが点在し、夜になれば松明の炎が幻想的に揺らめく、まさに『千夜一夜物語』の世界であった。
「まあ……! 素敵!」
ヴィラに到着した麗子は、プライベートプールの水面に浮かぶ無数の薔薇の花びらを見て、歓声を上げた。
「お気に召したかな? 君が英国の冒険小説『アラビアのロレンス』に夢中だと聞いて、ここを手配したんだ」
「護貞様……私のためだけに、こんな贅沢を?」
「細川家の全財産を投げ打ってでも、君の笑顔が見たかったのさ」
その夜。
満天の南十字星が輝く下、海風が心地よく吹き抜けるテラスで、二人は最高級のフランス産シャンパンのグラスを傾けていた。
碧眼の奥に星の光を反射させる麗子を見つめながら、護貞は静かに、しかし真剣な面持ちで立ち上がった。
そして、純白の軍服の膝をテラスの床につき、彼女の細い手を取った。
「麗子。世界は今、きな臭い嵐に向かおうとしている。海軍の軍人である私が、君に永遠の平穏を約束できるかはわからない」
護貞は、懐からビロードの小箱を取り出し、ゆっくりと開けた。
中には、南洋の深海をそのまま切り取ったかのような、大粒のブルーダイヤモンドのリングが眩い光を放っていた。
「だが、これだけは誓う。私の命ある限り、君のその美しい碧眼を曇らせるような真似は絶対にさせない。……どうか、私と共に生きてほしい」
麗子の碧い瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……はい。護貞様が嵐の海へ赴くのなら、私はあなたの帰る港になります。ずっと、ずっとお傍に」
護貞は、麗子の薬指にリングをはめると、彼女を強く抱きしめ、星空の下で長く熱い口づけを交わした。波の音だけが、二人の誓いを祝福していた。
3.肥後熊本、火の国の門出――伝統とモダンの融合
フィジーでの甘い婚前旅行を経て、二人は護貞の生誕の地であり、細川家にとって絶対的な聖地である熊本へと向かった。
いよいよ、結婚の儀である。
1937年秋。
水前寺成趣園および熊本城の一部を貸し切って行われた細川家の結婚式は、帝国全土の華族と軍の重鎮が結集する、まさに「世紀のロイヤル・ウェディング」であった。
「若君、本当におめでとうございます」
「近衛家のご令嬢、噂に違わぬ絶世の美女であらせられる……!」
参列者たちが息を呑んだのも無理はない。
儀式において、麗子は細川家に伝わる最高級の純白の「白無垢」に身を包んでいた。
しかし、その隙の無い日本の伝統美から覗くのは、輝くようなブロンドの髪と、透き通る碧眼である。和と洋、古い伝統と最先端のモダニズムが奇跡的なバランスで融合したその姿は、息を呑むほどに神々しく、そして妖艶であった。
「窮屈ではないかい、麗子」
黒の紋付羽織袴姿の護貞が、優しく囁く。
「いいえ。護貞様のご先祖様が見守ってくださっていると思うと、不思議と心が落ち着きます」
披露宴では、麗子は一転して、パリのオートクチュールで特注した純白のウェディングドレスに着替えた。叔母譲りの長身とプロポーションが見事に映えるドレス姿に、軍服姿の護貞がエスコートの腕を差し出す。
「見とれてしまいそうだ。今日の君は、世界中のどんな宝石よりも美しい」
「ふふっ。大佐殿は、口説き文句も帝国海軍で一番なのですね」
祝宴の席には、護貞の海軍の同僚である山本五十六や、帝国の要人たちの姿もあった。彼らは、戦雲が迫る世界情勢を一時だけ忘れ、美しき若き夫婦の門出を心から祝福し、杯を干したのである。
4.空飛ぶ豪華客船――民間航空機で翠海へ
熊本での盛大な式と数日の休息を終えた二人は、いよいよ本格的なハネムーンへと出発した。
目的地は、オーストラリア大陸北東部、帝国の南の楽園と呼ばれる**翠海**である。
この時代、オーストラリアは紛れもない日本帝国の「内地」であった。
そして二人が選んだ移動手段は、船ではない。実用化されてまだ数年という、超高額・超富裕層専用の**「民間四発大型飛行艇(中島飛行機製・特急型)」**であった。
一般庶民にとって空の旅などSF小説の中だけの話であった時代に、帝国の航空技術はすでに太平洋をまたぐラグジュアリーな空の旅を実現していたのである。
「すごい……! 雲がずっと下に見えますわ!」
与圧された静かな客室。本革張りのゆったりとしたソファシートに座り、窓の外の青空を見つめる麗子の目は、子供のようにキラキラと輝いていた。
「船で何日もかかる距離を、たった一日で飛んでしまう。帝国の技術の進歩は素晴らしいだろう?」
護貞が笑いかけると、純白の制服を着た客室乗務員が、恭しくワゴンを運んできた。
「護貞様、麗子様。極東ロシア産の最高級キャビアと、冷えたドン・ペリニヨンでございます」
高度数千メートル。窓の下には、エメラルドグリーンに輝く太平洋と、世界最大のサンゴ礁群「大堡礁」が果てしなく広がっている。
「乾杯しよう、麗子。我々の輝かしい未来と……この美しい帝国の海に」
「乾杯。愛する私の提督」
シャンパングラスを合わせる乾いた音が、静かなキャビンに響いた。
5.翠海のエメラルド――珊瑚礁のダイビング
到着した翠海は、強い日差しとブーゲンビリアの花が咲き乱れる、常夏の楽園であった。
二人が滞在したのは、珊瑚礁の海の上に直接建てられた「水上コテージ」。床の一部がガラス張りになっており、足元を色鮮やかな熱帯魚が泳いでいくのが見える。
「護貞様! 早く海へ入りましょう!」
麗子は、当時の最先端デザインであったタイトな水着(欧州のヴォーグ誌を参考に仕立てたもの)に着替えると、金髪をなびかせて護貞の手を引いた。
護貞がこのハネムーンで用意していた最大の「サプライズ」は、海軍の潜水部隊と帝国理工院が極秘裏に開発した技術をレジャー用に転用した、**「小型循環式潜水器(初期のスクーバ・リブリーザー)」**であった。
「これを背負って、マウスピースを咥えるんだ。息を吐いても泡が出ない仕組みになっている。海軍の特務部隊が使うものを、特別に借りてきた」
「海の中に、ずっと潜っていられるのですね……!」
二人は潜水器を身につけ、透明度抜群の翠海の海へと潜った。
そこは、陸上の人間が決して立ち入ることのできない、完全な別世界であった。
巨大なテーブルサンゴの森。群れをなして泳ぐ色とりどりの魚たち。
そして、二人の頭上を、まるで空を飛ぶ鳥のように、巨大なマンタ(オニイトマキエイ)が悠然と横切っていく。
護貞は、海の中で麗子の手を取った。
水を通してもはっきりとわかる彼女の碧眼が、喜びと驚きで丸くなっている。重力から解放された青い世界で、二人は泡を立てることなく、まるで人魚のように手を取り合ってサンゴの海を舞った。
6.エピローグ――夕暮れのビーチで
夕刻。
海から上がり、茜色に染まるケアンズのプライベートビーチで、二人は寄り添ってデッキチェアに腰掛けていた。
濡れた金髪をタオルで拭きながら、麗子は護貞の広い肩にそっと頭を乗せた。
「……夢のような時間でした。このまま時間が止まってしまえばいいのに」
麗子の声には、ほんの少しの寂しさが混じっていた。彼女もまた、政治の中枢に近い近衛家の娘として、世界がキナ臭い総力戦へと向かっていることを肌で感じていたのである。
護貞は、麗子の肩を抱き寄せ、その柔らかい髪に口づけた。
「時間は止まらない。だが、我々が紡ぐ歴史は、絶対に終わらせない。私が海に出ている間、君には寂しい思いをさせるかもしれないが……必ず、この美しい世界ごと、君を守り抜いてみせる」
「……はい」
麗子は、護貞のたくましい胸に顔を埋めた。
「私は信じています。あなたと、この国を。……愛しています、護貞様」
「私もだ、麗子」
1937年。
やがて世界が火の海に包まれ、アメリカとの血みどろの総力戦が始まる直前の、最後の黄金のひととき。
沈みゆく南洋の夕日は、若き提督と碧眼の令嬢のシルエットを、どこまでも美しく、そして切なく照らし出していた。
(閑話:帝国旅行記第二弾 完)




