44.黄土の代理戦争と不動の防波堤
海洋帝国日本史
第五章:沈みゆく鷲と赤い星(1920〜1941)
第十話:黄土の代理戦争と不動の防波堤(1930年代半ば)
1.底なしの泥沼――分断された中国大陸
1930年代半ば。ユーラシア大陸の東部、広大な黄土が広がる中国本土。
かつて清朝が支配していたこの広大な大地は、皇帝が満州へ逃れ、袁世凱が病死して以降、果てしない殺し合いが続く「血の闘技場」と化していた。
何十という地方軍閥が、自らの領土と利益のために離合集散を繰り返し、農民から食糧を奪い、街を焼き払う。
その泥沼の混沌の中から、二つの巨大な勢力が頭角を現しつつあった。
一つは、孫文の遺志を継ぎ、南部の広州から北上して中国の統一を目論む**蒋介石率いる国民党軍。
もう一つは、農村の貧困層を扇動し、共産主義革命による国家転覆を狙う毛沢東**率いる共産党軍(紅軍)である。
彼らは互いに憎み合い、血みどろの内戦を繰り広げていた。
しかし、彼らの背後には、それぞれ「巨大な糸引き役」が存在していた。自らの手を汚さず、中国人の血を使って極東の覇権図を塗り替えようとする、太平洋の対岸と北の凍土に座す二つの超大国である。
2.ワシントンとモスクワの悪魔的共闘
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
ホワイトハウスのオーバルオフィスで、フランクリン・ルーズベルト大統領は、国務省の極東専門家たちと密議を交わしていた。
「日本帝国の『円ブロック』の心臓部は、無尽蔵の資源を産出する満州国だ」
ルーズベルトは、車椅子の上で中国の地図をステッキで叩いた。
「我々アメリカが直接あの帝国に宣戦布告すれば、被害は計り知れない。だが、蒋介石に金と最新の武器をくれてやり、彼らに満州の国境を脅かさせたらどうなる?」
側近が、邪悪な笑みを浮かべて答えた。
「日本の軍部はプライドが高い。野蛮な中国軍にコケにされれば、必ず激怒して万里の長城を越え、中国本土へと大軍を送り込むでしょう」
「その通りだ」
ルーズベルトは深く頷いた。
「一度あの広大な泥沼に足を踏み入れれば、いかに強大な帝国軍といえども、パルチザン(ゲリラ)の海に飲み込まれ、補給線は伸びきり、天文学的な軍事費と兵士の命をすり減らすことになる。我々は安全な場所から蒋介石に弾薬を売りつけながら、日本が内側から干上がるのを待てばいい」
奇しくも、このルーズベルトと全く同じ絵図を、モスクワのクレムリンで描いている男がいた。
ソビエト連邦の独裁者、ヨシフ・スターリンである。
「日本の極東ロシア王国と満州国は、我が祖国にとって喉元に突きつけられた刃だ。……コミンテルンを通じて、毛沢東の共産党に資金と軍事顧問団を送れ」
スターリンは、パイプを燻らせながら冷徹に命じた。
「毛沢東には、国民党と戦うフリをしながら、日本の権益(満鉄など)への破壊工作を徹底させろ。日本軍を挑発し、中国の奥深くへ引きずり込むのだ。日本が泥沼で溺れれば、我々の東部国境は永遠に安全となる」
水と油であるはずの資本主義のアメリカと、共産主義のソビエト。
彼らは「海洋帝国日本を大陸の泥沼で消耗させる」という一点においてのみ、表だって協定は結んでいないものの、奇妙な暗黙の共闘関係を結んだのである。
アメリカ製のトンプソン短機関銃と、ソ連製のモシン・ナガン小銃が、秘密裏に大量に中国大陸へと流れ込み始めた。
3.国境の挑発――盧溝橋の幻影
193X年、夏。
満州国と中国本土の国境線(万里の長城付近)。
闇夜に紛れ、蒋介石の国民党軍の一部隊が、満州国側の守備隊(日本帝国陸軍・満州駐屯軍)の監視所に向けて、突如として激しい銃撃を加えた。
史実の「盧溝橋事件」に酷似した、明らかな計画的挑発である。
ダダダダダッ!
アメリカ製の機関銃の曳光弾が、夜空を切り裂いて日本の陣地に突き刺さる。
「日本軍の反撃を誘え! 奴らが長城を越えて追ってきたら、奥地の包囲陣へ誘い込むのだ!」
国民党軍の将校は、ワシントンの軍事顧問から教えられた通りの戦術を実行していた。
「敵襲! 支那軍(国民党軍)の越境攻撃です!」
陣地からの緊急電報は、直ちに新京(満州国首都)の関東軍司令部、そして東京の将軍府へと打電された。
史実の日本軍(関東軍)であれば、ここで現場の血気盛んな将校たちが独断専行で「暴支膺懲(横暴な中国を懲らしめろ)」と叫び、戦線を無秩序に拡大していただろう。
しかし、パックス・ジャポニカの軍隊は違った。
新京の司令部で報告を受けた軍司令官は、部下にただ一言、氷のように冷たい命令を下した。
「……一歩たりとも陣地を出るな。ただ、定数通りの『処理』を行え」
国民党軍は、監視所からの反撃が散発的なことに気づき、さらに部隊を前進させた。
「日本軍は恐れをなしているぞ! 一気に満州国へなだれ込め!」
数千の兵士たちが、鬨の声を上げて国境線を越えようとした、その瞬間である。
4.防波堤の肉挽き機――圧倒的な火力ドクトリン
ヒュルルルルルル……!!
夜空から、空気を切り裂くような無数の死の音が降り注いだ。
ドゴォォォォォン!! ガガガガガッ!!
国境線の一帯が、文字通り「炎の壁」となって吹き飛んだ。
それは、後方の安全な陣地に据え付けられた、日本帝国陸軍の数十門におよぶ「二十四糎重榴弾砲」による、座標を完璧に計算された一斉飽和射撃であった。
「な、なんだこの火力は!? どこから撃ってきている!?」
国民党軍の兵士たちは、自分たちが罠にはめようとしていた相手が、逆に自分たちを「あらかじめ用意されたキルゾーン(殺戮地帯)」に誘い込んでいたことに気づいた。
日本軍のドクトリンは、日露戦争の奉天会戦から一切ブレていなかった。
「人間の突撃など無意味。圧倒的な火力の投射(鋼鉄の雨)によってのみ、敵を粉砕する」
さらに夜が明けると、国民党軍の頭上に、絶望的な光景が広がった。
満州国の飛行場から飛び立った、帝国陸軍の全金属製・双発重爆撃機(のちの九七式重爆に相当)の編隊が、空を黒く覆い尽くしていたのである。
「目標、国境線を越えて集結中の敵一個師団。……爆撃開始」
爆撃機の腹が開き、無数の爆弾が雨のように降り注ぐ。
逃げ惑う国民党軍の兵士たちは、機関銃の掃射と爆弾の雨によって、為す術もなくミンチにされていった。
日本軍は、一人の歩兵も中国本土側の泥土に踏み込ませることなく、ただ国境の「防波堤」の内側から、接近する敵を論理的かつ機械的に屠殺し続けたのである。
「……掃討完了。我が方の損害、軽傷三名。敵は部隊単位で完全に消滅しました」
双眼鏡を下ろした日本の前線指揮官は、血の海と化した国境線の外側を冷たく見下ろし、報告書にサインをした。
5.江戸城の決断――「泥の誘惑」を断つ
東京・江戸城(将軍府)の最高作戦会議室。
前線の圧倒的な「処理報告」を受け、一部の強硬派将官たちが気炎を上げていた。
「上様! 蒋介石の軍隊など烏合の衆です! 今こそ我が無敵の皇軍を万里の長城の南へ進め、北京から南京に至るまで一気に制圧し、中国全土を帝国の支配下に置くべきです!」
陸軍の若手将校が地図を叩いて力説する。
しかし、第18代将軍・徳川家晴は、扇子をパチンと閉じ、その若手将校を氷のような冷たい視線で射抜いた。
「……黙れ。貴様らは、ワシントンのルーズベルトと同じ阿呆か」
家晴の低く威厳に満ちた声に、会議室は水を打ったように静まり返った。
「今回の挑発の裏で、アメリカとソビエトの資金が動いていることなど、統合参謀本部情報総局の暗号解読でとうに割れている」
家晴は、情報総局長から提出された分厚いファイルを示した。そこには、アメリカから蒋介石へ、ソビエトから毛沢東への資金援助のルート(ビルマ・ルートや新疆ルート)が克明に記されていた。
「奴らの狙いは、我が帝国をあの広大で無価値な泥沼(中国本土)へ引きずり込み、底なしのゲリラ戦で我が国の経済と若者の命をすり潰すことだ。……あのような汚い泥水に、なぜ帝国の美しい長靴を突っ込む必要がある?」
家晴は、立ち上がり、広大な海洋帝国の地図を見渡した。
「我が帝国は、海を支配する国家だ。満州と極東ロシアは、あくまで『防波堤』に過ぎない。敵が防波堤を叩きに来るなら、上から熱湯と鉛玉を浴びせて皆殺しにすればよい。だが、決して我々から防波堤の外へ打って出るな。……蒋介石と毛沢東には、あの泥の中で勝手に永遠に殺し合いをさせておけ!」
この瞬間、パックス・ジャポニカは史実の日本が犯した最大の致命傷――「日中戦争の泥沼化」という破滅のシナリオを、為政者の完璧な理性と冷徹さによって完全に回避したのである。
6.糸引き役たちの絶望――計算狂う米ソ
数週間後。
ワシントンD.C.のホワイトハウス。
「……日本軍は、国境を越えなかったと?」
ルーズベルトは、ハル国務長官からの報告を信じられない面持ちで聞き返した。
「はい、大統領。彼らは国境線に要塞のような火網を敷き、我が国が資金援助した蒋介石の精鋭部隊を、数時間の砲爆撃で一方的に全滅させました。しかし、追撃は一切行わず、ピタリと国境で停止したままです。まるで、我々の罠をすべて見透かしているかのように……」
ルーズベルトは、車椅子の肘掛けを激しく叩いた。
「クソッ! 日本の軍人は血の気が多く、すぐに暴走するはずではなかったのか! なぜあんな機械のように冷徹に自制できるのだ!」
モスクワのクレムリンでも、スターリンが報告書を床に叩きつけて激怒していた。
「日本の間抜けどもめ、なぜ中国の奥地へ進軍しない! これでは、毛沢東のゲリラ戦術が全く機能しないではないか! 逆に、日本に手を出せない国民党軍が、再び我が毛沢東の紅軍に矛先を向けてきているぞ!」
米ソの「代理戦争で日本を消耗させる」という悪魔的な計画は、日本帝国の「絶対不介入と過剰防衛」という鋼鉄のドクトリンの前に、完全に空回りした。
結果として、アメリカとソビエトは無駄な資金と武器を中国大陸に浪費しただけで、日本帝国の強靭な経済と軍事力には、指一本触れることすらできなかったのである。
7.エピローグ――視線は海と、遥か欧州へ
1930年代後半。
中国大陸は、依然として国民党と共産党、そして地方軍閥が血みどろの内戦を続ける悲惨な泥沼のままであった。
日本帝国は、満州国の堅牢な要塞線(防波堤)の上から、その殺し合いを冷ややかに見下ろし、自国の工業力とテクノロジー(装甲空母やレーダー)の錬成にのみ全力を注いでいた。
「大陸の野犬どもは放っておけ。我々の真の敵は、海の向こうの鷲と、北のヒグマ(ソビエト)だ」
日本が泥沼の消耗を完全に回避したことで、太平洋を挟んだ日米の国力差は、ルーズベルトの焦燥をあざ笑うかのように、ますます日本の優位へと傾きつつあった。
しかし、歴史の歯車は極東だけでは回らない。
アメリカが日本を崩すための次なる「悪魔のカード」を模索している頃、ヨーロッパ大陸では、大恐慌と「日英のブロック経済」から完全に疎外され、極限の恐怖と怒りに発狂したある国が、ついに暴走を始めていた。
かつての陸軍大国、フランス。
ドイツ(ヒトラー)の再軍備と、自分たちを見捨てたイギリスへの憎悪から、パリの街角には「新たなナポレオン」を自称する強烈な独裁者が立ち上がり、世界を全く新しい、そして悪夢のような分断(新枢軸の誕生)へと引きずり込もうとしていたのである。
(第五章 第十話 完)




