第0話 ゲラドクロが来る
「助けてくださいッ!」
深夜の交番に、少女の声が響いた。
その声を聞き、若い男性警官は視線のみをテレビから外し、少女へと向けた。
一見したところ、今ここに居るのは彼一人だけらしい。
「だ、誰かに追われてるんですッ!」
微かに乱れた呼吸を整えながら、少女はそう続ける。
「あ、ハイ。そうでスか。」
「そうですかって...ッ!貴方ッ」
予想外のそっけない反応に、思わず素っ頓狂な声あげる少女に対し、
警官は気だるげに立ち上がりつつ片掌を挙げて静止した。
「外。確認するンで、とりあえずアナタは中に入って隠れててくだサイ。」
そう言うと、彼は少女を室内へと押しやりつつ出入り口から顔だけを出し、
左右を二、三度見渡して、少し考える様子を見せてから彼女の方に振り返った。
「…誰も居ないっぽいスよ?」
返す言葉も無かった。
「あの、と、とりあえず、自宅まで送っていただきたいのですが…」
「え、ジブンが送るんスか?めんどうだなァ」
「…ッ!!!」
「それに、今はここジブンだけしか居ないんスよ?」
「じゃあッ、他の方に連絡などしてくだされば」
「あと最近なにかと物騒なンで、ジブンは送りたくないッす。」
何を意味不明なことを、この男は頭がおかしいのか?
ありえないほど粗雑な対応に、少女の喉元まで罵倒がせり上がった
その時、
「あの、どうかされましたか?」
外から声を掛けられ振り向くと、もう一人別の警官が帰って来たところだった。
「あ、音無さん丁度いいところに。おかえりス~。」
「おう木村。これ、どういう状況だ?」
音無と呼ばれた男性は、端正な顔を少ししかめて木村に問う。
制服を着た少女が深夜の交番に居て、しかも激高しているという状況に、
少々困惑しているようだ。
「なんか尾行されてるらしいス。」
「なるほど。ん、それでなぜご立腹なんだ?」
「あ、ジブンが送迎断ったら怒っちゃいまシた。」
パシッ
と、小さな音が交番に響く。
音無が木村の頬を叩いたようだ。音のわりに、かなり痛そうな一撃だ。
「お前ほんと大概にしろよ。」
「すんまセん。」
木村は表情を変えず、首を会釈して謝罪する。
「謝る相手は俺じゃないだろ。申し訳ございません、彼まだ日が浅いもので……」
「い、いえ…私の方こそ、お騒がせしてしまい申し訳ございません…」
微妙な空気になってしまったところで、音無が軽く咳ばらいをした。
「こ、この方は俺が送っていくから、木村おまえは残ってろ。」
「了解ス。」
音無はため息をついた。彼の気苦労が計り知れる。
「さ、さあ。私がご自宅までお送りしますので。」
「よ、よろしくお願いいたします…」
あいつには後で説教が必要だな、と。
音無が呟いたのを、少女は聞かなかったことにした。
「それでは、行きましょうか。」
「尾行にお気づきになったのは、本日が初めてですか?」
いつも通りの家路を辿る最中、少し前を歩く音無が問いかけてきた。
「はい。本日たまたま帰宅が遅れてしまいまして。
普段通らない道で帰宅していたところ、後ろに気配を感じました。」
「なるほど。それにしても、女性が一人でこの時間に出歩くのは不用心ですよ。
今後帰宅が遅くなる場合は、お兄様やお父様などのご家族に
駅までお迎えに来ていただいた方がよろしいかと。」
「おっしゃる通りです…」
警官に正論で釘を刺された少女は反省しつつ、ふと違和感を覚えた。
「あれ...私に兄が居ることって、お話ししましたっけ...?」
少し間を置き、音無は応えた。
「申し訳ございません。先ほどその、
名札を拝見して『金栗』と書いてありましたもので…」
「ああ…」
少女は少し、困ったような、申し訳なさそうな顔をした。
「失礼を承知でお伺いいたしますが、お兄様は、あの『金栗 圧士』ですか...?」
「…ハイ。」
金栗 圧士。少女の兄であるこの男は、いわゆる”不良高校生”である。
更に言えばただの不良高校生ではなく、「地元で名を知らない学生は居ないのではないか」と言われるほどの、名の知れたかなりの悪ガキであるのだった。
警官にも当然マークされているのか…と、圧士の妹は苦笑した。
「まさか最強の不良の妹さんを、ご自宅まで送ることになるとは…
あ、ここ、左ですよね?」
「はは…」
苦笑した口元から、乾いた笑いが漏れ出た。
さすが最強の不良さん、自宅も当然のように把握されているのか。
しかし、またも違和感。それも今回のソレは、野性的な直観であった。
見覚えのあるいつもの帰路。見覚えがありすぎるのだ。
音無は前を歩いているうえ、少女は指示を出していないにも関わらず、
いつもの家路を完璧に辿っているのだ。
そのことに気が付き立ち止まった少女の前に
音無は、居なかった。
突如目の前から、音も無く姿を消したのである。
先ほどまで前を歩いていたはずの警官の姿が、今はどこにも見当たらない。
その事実は、今の少女を追い詰めるのに十分すぎた。
声を失ったかのように、浅い呼吸を繰り返す。
静寂が支配する暗い路地裏で、少女は恐怖と動揺により、
発声する事すらできず身動きが取れなくなっていた。
と、その時、小さく息が漏れる口元を、背後から大きな手が覆った。
「かわいいねえ、シズメちゃん?」
全身が総毛立つ。
音無は、背後に居た。
目を離した一瞬の隙に、音を消して、背後に回り込まれていたのだ。
「~~~ッ!!?」
「無駄だよ。」
声が出ない。
違う。今度はしっかり叫んでいるはず。
声は、出ているはずなのに出ていない。
意味が分からなかった。自分の身体が、おかしくなってしまったのだろうか?
あまりの恐怖に、自分の頭が抵抗を諦めてしまったのだろうか?
シズメは絶望した。年甲斐もなく、大粒の涙を流して大声で泣き喚いた。
ただその大声はまるで、小鳥の口笛のような音で、
音無の手の隙間から虚しく漏れるだけであった。
「電車、遅延してヤだったねぇ?」
そう。
「いつもの帰り道、区間封鎖されてて遠回りするしかなかったねぇ?」
そうだ。
「街灯の明かりで。二人分の陰で。
後ろから誰かついて来てるって気付いちゃったんだよね?」
全て、その通りだった。
「ぜんぶボクがやったんだ。どう?ビックリした?」
「ちょっとだけヘマしちゃったケド、木村が無能で助かったよ。」
「ずっと見てたんだ、君の事。早く高校生にならないかなって。」
「中学生は犯罪になっちゃうからさ?」
「今日のために準備して準備して準備して、やっと捕まえたんだ。」
「逃がさないよ?」
シズメの首筋に生暖かい息を吹きかけながら、音無は上ずった声で語る。
限界だった。気色悪すぎる独白を聞いたシズメは、
あまりのおぞましさで、逆に少し冷静さを取り戻していた。
無我夢中でもがくと、それを押さえつけようとする音無の指が口の中に入って来た。
多少抵抗はあったが、シズメはその指に思いきり噛みついた。
「ッ!?」
口元から少しだけ手が離れた。
これを逃すともう次は無いだろう。渾身の力を振り絞り叫んだ。
「助けてくださいッ!!!」
その悲鳴交じりの絶叫は、裏路地にこだました。
『ゲラ』
どこからか、嗤い聲が聞こえた。
音無が笑ったのだろうか?
こんなところに助けは来ないと、シズメを嘲笑しているのか?
『ゲラ
ゲラ』
違う。
気付けば、辺り一帯を異様な雰囲気が包んでいる。
先ほどまでとは異なる、圧迫されるかのような恐怖感。
まるで冷たい金属製の粘土に包まれているかのようだった。
と、その時
ドォン!!!
突如、背後に居た音無が後方へ吹き飛び、
激しい音を立てながら、ビルの壁に背中から叩きつけられた。
床に倒れ、腹を押さえて丸くなっている音無。その傍らに誰かがしゃがんで居る。
全身黒ずくめのうえ、フードを被っているため、男性か女性かは分からない。
謎の人物は音無しの顔を覗き込みながら、絶えず、ゲラゲラと嗤っている。
「そっ、その声を止めろォ...!頭が割れそうだ......ッ!!!」
音無は苦悶の表情を浮かべ、傍らの人物を睨み上げている。
「キサマ、『ゲラドクロ』だろ…ッ!?」
ゲラドクロと呼ばれた人物は何の反応も示さず、ただ、ゲラゲラと嗤っている。
「こンのクソ犯罪者がぁあ!!!ボクがッこの場で処刑してやる!!!」
逆上した音無が素早く立ち上がり警棒を振り上げた刹那、
彼の鳩尾にはゲラドクロの拳が食い込んでいた。
「アバァッ!?」
妙な声を出しながら音無は嘔吐し、そのまま地面に倒れ伏して気絶した。
『高校生も合法じゃ無ぇよ。』
それは、男性とも女性とも判別つかない、まるで変声期のような声で。
いまいち締まらない言葉を吐きながら、ゲラドクロはシズメの方を振り向いた。
その顔には、髑髏のような模様の頭巾が被されていた。
少しシズメの安否を確認しているかのような仕草を見せたあと、
無事が確認できたのだろう、なにか納得したように無言で足早に路地を抜け去って行った。
シズメの思考が、目の前の光景に追いつきかけて来たころには、
既に事態は終息してしまっていたのだった。
赤い光と共に、サイレンの音が近づいてくる。




