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ルートヴィヒは諦めていなかった。
諦められるはずがない、セレスティーヌは彼の全てなのだから。
収監された檻の中で何日もどうすればセレスティーヌが手に入るのかを考えた。
もうずっと前からそのことで頭はいっぱいであったが、これほどまでにそれのみを考えて生きたことは未だかつてなかった。
脳がそれ以外に労力を使うことを拒絶する。
一日中壁を見つめたままぼんやりとしているルートヴィヒを見た他人の目には、彼が壊れてしまったかのように映っただろう。
何日経っても放心するばかりで最低限の人間的活動すらしようとしないルートヴィヒに周囲は完全に油断していた。
彼が他国の貴族であったことも要因の一つだ。
刑が確定していないのに下手に雑な扱いは出来ない。
それが心神喪失ともなれば余計である。
彼への警戒が周囲から薄れつつある中、ルートヴィヒが収監された部屋の前にとある男がやってきた。
開いた扉を見たルートヴィヒは光の失われた瞳でその男を見て笑う。
「随分と遅かったじゃないか」
「看守への買収にどれだけ苦労したと思っているんだ! 時間がない、いいから早くしろよ!」
訪ねて来た男は周囲を敏感に警戒しながら乱暴な口調で退室を促す。
ルートヴィヒはその言葉に焦るそぶりも見せずゆっくりと部屋を後にした。
不自然に見張りが居ない廊下を沈黙の中歩く二人。
そしてとうとう何事もなかったかのように外へ出てしまった。
男の誘導するまま雑多な街中にひっそりと隠れるようにして建つ一軒家に入る。
そこまで来ると男はルートヴィヒに必死の形相で詰め寄った。
「お、俺はもうおしまいだ…あんな事をやらかして…いつかきっと殺されるっ!」
うんざりした様子で縋る男を振り払うルートヴィヒ。
「落ち着けシャルバン」
そう、ルートヴィヒを監修先から助け出したのはセレスティーヌの実家に出入りしていた商人シャルバンであった。
今やかつてのギラギラした商人としての面影はなく、亡霊のように窶れギョロ目を血走らせてルートヴィヒを睨みつける。
「さ、宰相の息子を襲ったんだぞ! あの男を敵に回してこの国で生きていけるはずがない」
「アンタが宰相に破産させられた復讐をしたいと言ったんだろう? 跡継ぎが死ねばあの老いぼれには痛手だろうさ。それに俺は何も喋っていない。アンタがやったなんて誰にも分かるはずがない」
「だからまだ犯行がばれていない今のうちにお前の国に匿ってくれよ! そういう約束だっただろ! お前の国でまた一から商人として成り上がる援助をしてくれるって!」
ルートヴィヒは落ちぶれたシャルバンに陰で接触していた。
そこでシャルバンの弱った心に甘言で惑わしマルクを襲わせたのが真相であった。
「お前だってこの国さえ亡命してしまえば金ならたんまりあるんだろ!? 早くこんな国から逃げよう!」
「逃げる? 馬鹿言うなよ。アンタはまだ俺との約束を果たしていない」
「は? だから俺は宰相の息子をちゃんと襲って…」
「だからぁ! まだあの姑息野郎は死んでないだろうがっ!」
唐突に声を荒げたルートヴィヒにシャルバンは驚き硬直する。
「立場を利用して俺のセレスに色目使うあのクズはまだ生きてんだよ! それに俺は宰相の息子を殺せと言ったんだぞ? アイツの息子はもう一人いるだろ?」
「なっ…まさか赤ん坊のことか?」
絶句するシャルバンに向かいルートヴィヒは笑顔を浮かべる。
だがその目には底の見えない狂気が渦巻いている。
正気とは思えないルートヴィヒにシャルバンは思わずのけぞる。
「そうだよ。他に誰がいる? 俺分かったんだ。あの赤ん坊がセレスをおかしくした一番の原因だって。アレは存在してはいけない生き物なんだ。だからほら…これであの赤ん坊を殺しに行ってこい」
テーブルの上の果物ナイフを手に取り笑って差し出そうとするルートヴィヒ。
その常軌を逸した様子に完全に怯んだシャルバンは必死に首を横に振り拒絶する。
「き、聞いてないぞ、そんなこと! 赤ん坊を殺すなんて冗談じゃない! やりたきゃ勝手にやれ!」
「ダメダメ。俺じゃあダメだよ。セレスはお気に入りのお人形をそれは大切にする子だから。俺が壊したなんて分かったら叱られちゃうよ。彼女怒ったら怖いんだ」
不気味な薄ら笑いを浮かべるルートヴィヒの口調はどこか幼い。
「お、俺はお前のいかれた計画には付き合わない!なんだったら今からセレスティーヌ様にこのことを告白しに行ったっていいんだぞ!」
「……」
ルートヴィヒの動きが止まり、突然薄ら笑いが消えて無表情になる。
やはりルートヴィヒに“セレスティーヌ”という単語は有効だったかと内心で安堵するシャルバン。
「それが嫌だったらさっさとこの国を出る手筈を―――え?」
ふと腹に違和感を覚えて下を見ると、そこにはルートヴィヒが手に取った果物ナイフが突き刺さっていた。
「お前もか…お前も俺のセレスに近づこうとするクズなのか」
「え…お、い」
何が起こったのか分からずに腹に突き刺さっているナイフをただ茫然と見つめていると、ルートヴィヒによりそのナイフが引き抜かれる。
そしてそこから血が噴き出る前に、また果物ナイフがそこに突き刺さる。
「大体なんでこんな簡単なことも出来ないんだ。こうして柔らかい肉に突き刺して内臓を抉るだけだろ」
「う、そだろ…あ、あ」
目一杯奥まで刺さった果物ナイフの刃を更に押し込めるように左右に容赦なくグリグリと抉るルートヴィヒ。
シャルバンは己に起こったことが信じられず茫然とナイフの突き刺さる腹を見つめ続ける。
「それだけで人間なんて死ぬってのに、なんでそんな簡単なことが出来ないんだよ。こんな風にやるんだよ。なぁ分かるか?」
「あ、あ…」
返り血を浴びながら何度も何度もシャルバンの腹にナイフを突き立てたルートヴィヒ。
「……」
気付くとシャルバンは既に息絶えていた。
血まみれで人形のように動かないシャルバンをしばらくの間無感情で見つめていたが、ふと自分も返り血を浴びていることに気付く。
こんなみっともない姿ではセレスティーヌに会いにいけない。
この家に風呂はあるのだろうかと、シャルバンが必死で用意したであろうこのアジトの中探索する。
すぐに見つかった風呂場で血を洗い流した。
戻ってくるとやはりシャルバンが死体として変わらずぐったり横たわり、噎せ返るような血の匂いに鼻に皺を寄せる。
ふと空腹を覚えたルートヴィヒはシャルバンに使った血まみれの果物ナイフを雑に布で拭うと、テーブルの上にあった果物をそれで剝き始めた。
死体の横で鼻歌を歌いながら果物に噛り付くルートヴィヒは明らかに機嫌が良い。
何せこれからセレスティーヌに会いに行くのだから。
日が暮れて辺りが暗くなるのを待って、アジトから動き出す。
シャルバンの死体は置いてきぼりで、向かった先は当然宰相家の屋敷だ。
手にはあの果物ナイフが握られている。
何度も訪れるうちに外部から侵入できそうな場所に目星を付けており、そこから庭に潜り込む。
更にセレスティーヌが居るだろう屋敷の中に侵入すべく慎重に広大な庭を進んでいる時であった。
美しく整えられた東屋のベンチに並んだ男女がルートヴィヒに背を向け夜空を見上げている。
今夜は満月だ。
ルートヴィヒは己の幸運に喉で笑いをかみ殺す。
あの巨大で醜い風船のような背中は宰相以外ありえない。
だったらその隣で美しく着飾った女こそセレスティーヌに違いない。
「セレス、お待たせ」
ルートヴィヒは迷わず二人に声をかける。
「俺、ずっとずっと考えたんだ。どうすれば君を手に入れることが出来るのかって」
振り向いた宰相は突然現れたルートヴィヒに動揺することなく冷たい視線を投げかける。
「…相変わらずしつこいのぅ。これ以上セレスティーヌに嫌われても貴様には損しかなかろうに」
「黙れ。俺は分かったんだ。物事は諦めることも必要だと」
「ほう」
「全てが手に入れられないのならば…せめて一部だけ貰っていく」
ナイフがきらりと光る。
一瞬警戒態勢に入る宰相だったが、その切っ先をルートヴィヒは己に向けた。
「セレス!どうか胸に刻み付けてくれ! お前を想いお前の為に死んでいくこの俺の姿を!」
力の限りに叫ぶと喉をナイフで掻き切った。
シャルバンを刺した時同様、そこに迷いは一切ない。
血しぶきが上がると同時に身体が傾き背後にあった薔薇の木に倒れこむ。
こうすればセレスティーヌは嫌でもルートヴィヒを忘れはしないだろう。
自分のせいで命を散らした男のことを一生心に刻んで生きていくはずだ。
これでルートヴィヒはセレスティーヌの一部となれる。
ずっとずっと一緒だ。
思う通りに事を成し遂げたルートヴィヒは薄れる意識の中、心は満ちていた。
「迷惑極まりない…おい聞け」
視界に無表情の宰相が現れる。
最期に見る景色が恋敵など冗談ではない。
宰相の背後のセレスティーヌに定まらない視線を無理やり移す。
「貴様は相変わらずだな。愛を唱えながらも肝心のセレスのことなど何も見ようとはしない。これのどこがセレスだというのだ」
セレスティーヌだと思われた人物がおもむろに手を頭部に乗せカツラを脱いだ。
「っ!?」
ぼやける視界と薄れる意識の中でも、その人物がセレスティーヌとは程遠いと悟ってしまう。
女性のように小柄ではあるものの体格からして明らかに男性である。
「ご苦労。もういいぞ」
男性は宰相に頭を下げると音もなく夜の闇にと下がっていった。
「貴様が行方を眩ませたと聞いてセレスの身代わりに小柄な護衛にドレスを着せたのだ。これ以上彼女を危険な目に合わせるわけにはいかんのでな。次に貴様の取る行動を読むなど容易いわ」
ルートヴィヒは絶望した。
したり顔の宰相にこの世のありとあらゆる罵詈雑言をぶつけたいのに、喉から漏れるのはコポコポと流れる血液の音と空気の擦れる耳に付く高音の呼気のみ。
「貴様の死は公表せん。行方不明として処理し何年かした後、貴様は逃亡先で町娘と恋に落ち平凡な家庭を築いたという類の噂を流すつもりだ。セレスも安心して貴様を忘れ去ることだろうさ。身体であっても心であっても、何人たりともセレスを傷つけさせはせん。彼女の人生に陰りは似合わない、分かるだろう?」
ルートヴィヒは最早目が見えていない。
眼前に広がるは深いふかい闇。
最後に残ったのは嗅覚で、感じ取れる薔薇の香りだけがルートヴィヒの救いだ。
「代わりにこのワシが貴様の想いを心にしかと刻み背負ってやる。なに、気にすることはない。この背に乗っているのは貴様だけではないのでな。悪に敗れし数多の怨恨が居るから寂しくないだろう? 老い先短いオッサンで悪いがこの命尽きる最期まで共に悪の道を歩もうぞ」
――ああ。セレス。待ってくれ。置いて行かないで。
「さぁ安心して眠れ。貴様の上に美しい“セレスティーヌ”を植えてやるから」
――うん。おやすみセレス。起きたらまた遊ぼう。
END
最後までお読みいただきありがとうございました。
その後のセレスティーヌの話を小説としてコミカライズ5巻に載せて頂いております。
よろしければそちらも手に取って頂ければ嬉しいです。