終幕のその後で《白葉寮4号室》
雨は止んだ。
分厚い雲は窓辺から抜ける風にながされ、今は空ばかりがそこに広がっている。
愛沢アユムは、そよぐカーテンを分けて窓をゆっくりと閉じた。
いつもは節約しているようだが、空調無しではマヒルが寝苦しそうだ。
アユムは黙ったままリモコンを操作して、またベッド脇に置いた椅子に座る。
交代してから、何時間過ぎただろうか。
途中でジンヤが扉を叩いたようだったが、こちらからノックを返すと何を確認したのかすぐに去っていった。
そんなアユムをコマエは随分と心配していたが、不思議と本人は疲れていない。
むしろ、心地がいい。
「ねえ、マヒル。」
ベッドについたままペースを崩さずに寝息を立てる彼に、アユムは語りかける。
「あれから、もう一日と……半分かな?
何だか、終わっちゃうと変に早いよね?」
額にかかった銀の前髪を払いながら、その頭を撫でる。
柔らかくて、さらりと指の間を抜ける髪の毛が手に心地よい。
「だから……そろそろ起きないかな?ちょっとだけ寂しいよ……私」
闘技場を出ようとしたその時の事を、アユムは未だ鮮明に記憶している。
衝撃的だった。
肩を借りてやっと歩いていたマヒルが、突然どす黒い液体を吐き出した。
喉を鳴らしながら体をくの字に折って、白い床に大量の真っ黒な物をぶちまけた。
ー割れる
ー割れる
そんな言葉を吐きながら。
ユウキが言うには、『拒絶反応』らしい。
『ミヨ』と名乗った人物。
あれは、マヒルのドライバ内のDGSのコピー体が書き換えられたことにより、肉体の構成そのものが変異して現れた存在だという。
つまり、マヒルの体を材料に具現化した別人だ。
何が原因であのような現象が起こったのかは全く分からないし、あの『ミヨ』が見せた魔法も、そしてその言動も、全くの謎らしい。
そして、何故完全に別人へと変じてしまった状態からマヒルが戻ってこられたのかも分かっていない。
だが、一度全く別の物に変えられて、それが無理矢理もとに戻ったのだ。
それにより肉体に負担がかかるのは言うまでもなく、何らかの不具合が発生して当然だ。
「私のため……なのかな?」
マヒルが戻ってきたことについて、あれから彼女なりにえてみた。
アユムは、あのとき願った。
『帰ってきて』と。
ひょっとすると、彼はその言葉に応えてくれたのか。
だが、それも違った気がする。
マヒルは優しい。
誰に対しても、平等に。
ひょっとしたらあれは緋島の為だったのかもしれないし、そこにいない誰かのためだったのかもしれない。
若しくは、あの場で苦しんでいた『ミヨ』のためだったのかもしれない。
「やめやめ」
アユムは首を振った。
今はそんなことを考えても仕方ない。
後で、マヒルに聞いてみよう。
マヒルが目を覚ましたときに、ゆっくり聞こう。
だから、今は別の事を考えよう。
何を考えようか。
そうだ、マヒルが起きた後のことを考えよう。
まずはいつも通りに抱き付いてみようか。いや、それでは避けられるからいっそ添い寝でもしてみようか。
マヒルのことを考えていると、なんだか落ち着く。
「……。」
我ながら、凄い思考回路の作りだと思った。
そもそもと、ふと思う。
何で、私はこんなにマヒルの事を好きになってしまったのだろう。
今では、一日の半分くらいはマヒルに当てている気がするし、もはや自分の八割はマヒルに注いでいるような気さえする。
出会って一ヶ月もしないのにだ。
これは不思議に思ってあたりまえだろう。
だが案外、今回の出来事ではっきりしたのかもしれない。
マヒルが宿敵である筈の緋島の名を呼び、案じたときだ。
あれで雛由マヒルという人間を認識し、この気持ちをきちんと自覚できた。
マヒルは誰にでも優しい。
とても強くて、なんでもできて、底抜けに明るい。
でも、とても寂しい。
誰にでも優しくて、それでいて何の見返りも求めず、ただ健気でいる。
初めて目にしたその姿は、とても素敵に見えた。
だが、近付いて初めて気付いた。
マヒルの優しさは空っぽだ。
そんな優しさは誰かに向いているようで、結局は何処にも向かってはいない。
そして、その優しさの中心には自分自身さえいない。
ただ溢れさせて、それを無意識に、無差別にばら撒くだけだ。
それが、アユムには堪らなく寂しく見えた。
空っぽに見えた。
たぶん、雛由マヒルのそんなところに惹かれてしまったのだろう。
惹かれたというより放っておけなかったのかもしれない。
空っぽのままなんて可哀想だ。ある種の使命感、そんな思いが芽生えてしまったのだろう。
恋などと呼ぶには、あまりにも不格好で一方的な想い。
アユムは立ち上がる。
少しマヒルの体を拭いてやろうと思う。
夏場の汗は寝苦しい。
タオルを取ろうと、椅子を離れようとしたその時
何かが、アユムの手を握った。
「え……?」
「……いか……ないで」
見下ろすと、マヒルの目がうすく開いている。
「ま、マヒル!?大丈夫?誰か呼ぼ……」
そこでアユムは気が付く。
マヒルの目はなにも見ていない。
どうやら、まだ意識がはっきりしていない状態らしい。
ならば、無理に刺激することはない。
アユムは黙ってマヒルの手を握り返す。
すると、マヒルはまた安心したように目を閉じた。
「……。」
しばらくはこうしていよう。
マヒルの心が安らぐのならば、いつまでもこうしていられる。
「……もう……どこにも……」
「え?」
ふと、ベッドの中のマヒルの口が動いた。
顔を覗きこんでみるが、その目は開いていない。
ただの寝言のようだ。
だが、なんとなく分かる。
マヒルが握ろうとしたのは、アユムの手ではない。
ここにはいない誰かを、アユムの姿に重ねたに過ぎないのだろう。
現に、マヒルから感じる雰囲気はいつもと全く違う。
「……やっぱり、かな」
アユムはその顔を見下ろしながら、寂しげな笑みを浮かべた。
なんとなく気がついてはいた。
アユムがどれだけ近付いてもマヒルはてんで靡かないし、いつも何でもないように笑って見せる。
まるで自分へ向かう好意を遮るように。
だが、確かに彼の中にも寂しさはあった。
何年もの厳しい生活や目の飛び出るような負債は、彼にそれに耐えうる肉体と技術を与えたのかもしれない。
けれども、だからといって心まで鋼にすることはできない。
それでも、雛由マヒルは空っぽを貫き通そうとする。
誰にも心を寄せることなく、その優しさを間合いに詰めることで一定の距離を保ったまま生きていく。
まるで、何かにそう命じられたかのように。
「なんだか……苦しいよね」
アユムはマヒルの手を握りながら呟いた。
どうしてマヒルがそう生きていかなければならないのかはわからない。
けれど、それはきっととても寂しいに違いない。
せめて、その心を少しでも分かち合うことができたらーー
「……?」
そこでアユムの目は、マヒルのシャツの中からこぼれたチェーンに気がついた。
いつもドライバを下げるのに使っていて、マヒルは大抵の場合はこのように襟からシャツの下に仕舞っている。
そこに、やはりいつも通りにかかっている黒い指輪と、もうひとつ。
初めから下げていた銀の指輪だ。
「……何なんだろう、これ」
記憶が正しければ、マヒルが異変に襲われたときにこの指輪が黒い霧を纏っていた気がする。
マヒル自身は大切なものだと言っていたが。
アユムは誘われるように手を伸ばす。
ここには、なにかがある気がする。
マヒルの胸の奥に秘められた何かが眠っている気がする。
「ごめん……少しだけ」
指先がその指輪に触れたその瞬間に
「っ!?」
まるで電流が走ったようだった。
一瞬にして大量の情報が流れ込んでくる。
断片的で要領を得ないが、確かな記憶。
寝室だろうか。
やや低い視点から、記憶の主はその光景を見つめていた。
一人の男が、床に押し倒した女に覆い被さっている。
女は奇妙な呻き声を発しながら脚をばたつかせるが、男の体はびくともせず、やがて彼女は動かなくなる。
女から離れた男は暫く呆然としていたが、ふとこちらを振り向いた。
「……ミヨ……?」
男は目を見開いたが、やがて死人のように濁った目をしながらこちらへ近づいてきた。
「……ミヨ……見たのか?」
視点が後ずさる。
ーーにげろ
本能が囁くが、一足遅かった。
男が突然襲いかかってきた。
太い腕が首を絞めて、床へと押し付ける。
「お前だ……お前が全て悪いんだ……!」
首を絞める腕を必死に剥ぎ取ろうとするが、その力の差は歴然としている。
「……お前がこんな事にならなければ……お前が、お前が、お前さえいなければ……!」
息ができない。
いや、このままでは窒息する前に首が折れる。
驚異的な速度で現状を理解した。
すぐさま体は動いて、ポケットから何かを取り出す。
ざらざらとして、長くて、鋭い
取り出した錆びまみれの五寸釘。
一瞬の迷いもなく、それを男の目へと突き刺した。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
手が離れた隙に素早く抜け出し、血に濡れた釘を更に強く握る。
顔を押さえてのたうち回る男の首へ突き立てようとするが、すんでのところで手を止める。
ーーだめだ、痕跡が残る
ーー刺すな、殴れ
その手は釘を手放し、サイドボードの上にあったランプスタンドを手に取った。
土台部は重い金属製、落とすように殴れば腕力は要らない。
「あああっ!?クソ、ミヨォ!」
まるで検討違いな場所へ体当たりする男の背後へまわり、スタンドを大きく持ち上げた。
ーーやれ
「いたっ……」
こめかみに走った鋭い痛みで、アユムは手を離した。
今、確かに誰かの記憶を見た。
誰かが誰かを殺す記憶。
突然込み上げてきた吐き気を堪えて、アユムは指輪を見下ろした。
「……ミヨ?」
記憶のなかで、声は確かにそう呼んでいた。
異変が起こったあの日。真っ黒に変わったマヒルも、そう口にしていた筈だ。
なら、今のはその『ミヨ』の記憶なのだろうか。
では、なぜそのミヨの記憶がここにある。
そもそも、ミヨが殺したのは誰だ。
ミヨを殺そうとしたのは誰だ。
そんな忌まわしい記憶が、なぜマヒルと繋がっている。
「もっと……もっと深く」
アユムは再び指輪へ手を伸ばす。
だが、その手首を何かが強く掴んだ。
「きゃっ……!?」
そこでやっと気がつく。
マヒルの目が開き、しっかりとこちらを向いていた。
「ま……マヒル……!?」
「……。」
マヒルは何も言わずにアユムの目を見つめ続ける。
手を強く握ったまま、一切目を逸らすことなくだ。
アユムも何かにあてられてしまったかのように目を逸らせなくなる。
同時に、アユムの中に寒気のするような感覚が走る。
ーーこんな目、知らない
今ここにいるのは、本当にマヒルなのか。
若しくはー
アユムの手を引き寄せると、マヒルの姿をした"それ"は囁くように口にした。
「みるな」
「……っ!?」
はっとして目を開けると、カーテンの隙間から差し込んでくる光が見えた。
「……あ、れ?」
目を擦りながら体を起こすと、かかっていた布団が落ちた。
目を覚ましたベッドの上、アユムは暫くぼんやりとする。
そして気がついた。
「あ……」
寝ていたのはマヒルのベッドの上。
「うわっ、幸せ!違う!なんで!?」
慌ててそこから這い出すと、ちょうどベッドの横に置いてあった椅子に書き置きを見つけた。
丁寧だが少し丸みを帯びていて、一見すると女性のものとも取れる字で認められた文章。
『おつかれまでした。僕はもう大丈夫です。
ーー雛由』
「マヒル……そうか、もう起きてたんだ。よかった……」
ーーだとしたら、何故自分はここに
「……確か昨日は、マヒルの指輪に触って」
ーー『ミヨ』の記憶を見た。
そして、マヒルに腕を取られて、それから
そこからの記憶がない。
気を失ってしまったのだろうか。
恐らく、その後目を覚ましたマヒルはそれを疲れて寝てしまったとでも思ったのだろう。
それで、寝床を空け渡してくれたという訳か。
「え、そんな、わ、私、マヒルに寝顔見られちゃった!?……やっ、よだれとか垂らしてなかったかな……うぅ」
何か検討違いな事を言いながら寝癖の残った頭を掻き回した。
そんなとき、ふと彼女は何かに気付く。
「あれ?」
見下ろした自分の手首に、何かが張り付いている。
「なに……これ」
よく見ると、それは薄い痣のような手形だった。
たしかここは、昨晩マヒルに握られた場所だ。
痛みこそないが、まるで肌に焼き付いたかのように薄れない。
それに加え、学生とはいえ魔術師の端くれである彼女にもその気配は感知できた。
この痣には、外部から付与された魔力が流れている。
『刻印魔術』という古典魔法の一種。
儀式を平面図式化し、そこに魔力を流すことで形成される魔法だ。
これがいったい何の魔法なのかは分からない。
だが、ひとつだけはっきりしたことがある。
「ミヨは……私のこと見てる」
敵意なのか、それとも逆か。
そこまでを測ることはできない。
「ミヨ、あなたは誰……?」
白葉マサヨリが部屋の扉を叩いたのは、ちょうどその時だった。




