告白と暴走
柔らかな日差しの降り注ぐミスカトニックホテルの二等室。
そこのベッドで小さく寝息をたてていたウィルバーが小さくうめくと共に重く閉じられていた瞼が開く。
「ん……。ここ、は?」
「おや? お目覚めですか? ウィルバーさん」
ぼんやりとした視線がやっと焦点を結ぶと彼女は慌てて飛び上がろうとして背中の痛みに悲鳴をもらしながらベッドに崩れ落ちる。
傷口を縫合しているとはいえ、その治りは不完全だ。激しい運動で再び傷口が開くことだろう。
「やっと目覚めたかい?」
「具合はどうだい?」
ウィルバーの目覚めにハスター君とクトゥルフ君がやってくる。神々に心配されるとはウィルバーも偉くなったものだと関心するばかりだ。もっとも我が従者であるハワトはその輪から離れ、一人黙々と『ネクロノミコン』を読みふけっているが、こちらの方が人間とは思えないな。
「覚えている? 君は屍食鬼に襲われて――」
「あっ……」
ハスター君の言葉を端に記憶がフラッシュバックしたのか、山羊を思わせる風貌の少女は顔を青くする。
ザックリと肉を切り裂かれたのだからそのショックは計り知れないものだろう。
「あの、お医者様に見ていただいたので、しょうか?」
「あぁ、ご安心ください。こう見えて私、医術の心得がありまして。完璧な治療を施しましたよ」
ありありと不安を浮かべる顔には治療費のことを考えて、ではないだろう。
どうやら医療行為の際にその服の下に隠されたモノが問題のようだ。
と、言うことはこのファンタジーというべき世界でもアレは異端の姿なのだな。
なんと言っても彼女の服の下――とくに下半身などおぞましいという形容詞がぴったりと当てはまるものだった。
「ご安心ください。我々はその手の事情に精通するモノばかりですので貴女のこともたいして気にはしておりません」
チラリとハスター君をうかがうと彼は何かを察したのか反射的に触腕にふれた。まぁ彼の場合は平凡な見せかけがかけられているようだからよっぽどの事がない限りその腕に驚く者はいないだろうが。
「とにかくまずは命が助かったことを喜ぼうではありませんか」
なんとも言えぬ沈黙に小さくため息をつく。
自分が迫害されて当然の存在と思っていたであろう彼女に万の言葉で慰めを与えてもそれは心に届かないだろう。
むしろ言葉を慎み、態度で示す方が心を開ける鍵となるはずだ。
「……驚きました。この身体を見られて、平静に振る舞われるなんて」
「そうでしょうね。さて、ではお尋ねしますが、貴女のその身体と貴女のお爺さまが求められたという『ネクロノミコン』。なにかしらの関係がありますね?」
彼女は死んだ祖父のためにこの世の深淵が記された魔導書――『ネクロノミコン』を求めていた。
そして普通の生物が彼女のような存在を産み落とせるとは到底思えない。
ならばなにかしらの因果があって当然と考えるべきだろう。
しばらく沈黙を守っていたウィルバーだが、彼女は意を決して口を開いた。
「『ネクロノミコン』を知っているということはかつてこの世界を支配した偉大な神々のことを知っていますね?」
「えぇ。もちろん。教会が説いているようなまがい物ではない、本物。人類誕生以前にこの地上を支配したモノ共。グレート・オールド・ワン」
小さく頷く彼女の話によると、老ウィルバー氏は若かりし頃、宮廷付きのマジックキャスターであり、あふれ出る魔法の才を誇っていたらしい。
そんな老ウェイトリー氏だが、海外から取り寄せた古書の中に忌まわしい神々のことが記された古文書を見つけたことで物語は動き――。いや、狂いだす。
狂気に取りつかれた彼はさらなる深淵を求めて魔法の研鑽に励むが、それは次第に周囲との溝を生み、やがては悪魔崇拝者として城を放逐されたそうだ。
「お城の人達は祖父のことを狂人と蔑んで、真実の神々から目をそらしたのです。祖父はその後、ダニッチに帰ってきましたが、来るべきその日のために研究を続けていました。この偽りの世界を終わらせ、真実の神が降臨させるために――」
「つまりは自らを追い出した愚かな連中に自分の正しさを証明するため封印されたモノ共を復活させるつもりだったわけですね」
言葉に詰まるウィルバーを見るに中らずと雖も遠からずといったところか。
虚飾の言葉を剥ぎ取れば自尊心を守るための復讐がしたかったというわけだ。
そんなことのために神を呼ぼうとしたのか? くだらない。あぁくだらない。くだらなすぎて、むしろ好感が持ててしまう!
「で、でも祖父は――」
「えぇ。分かっております。素敵なお爺様ではありませんか。出る杭は打たれると言いますが、お爺様の活躍を妬む者に負けぬその心意気! いや、素晴らしい御仁のようですね、貴女のお爺様は!」
高見を目指して努力をするという姿はむしろ好印象といえよう。
実にお近づきになりたいものだ。色々と手を貸してやって――。あ、もう彼女の祖父は死んでいるんだったか。残念だな。
「そ、そう言っていただけると祖父も喜ぶと思います。ただ祖父は自分の力だけでは世界の全てを知ることは叶わないことを悟っていました。だから代わりにあたし達を母に忌まわしい方法で作らせたんです」
忌まわしい……ね。
なるほど、彼女の形質を見るに自然発生した奇形というより母体と神格が契りを交わした結果というわけか。
人間とまぐわうなど、酔狂な神もいたものだな。
「そして祖父はあたしに魔法の手ほどきをしてくれました。ありとあらやる呪文を習って、数々の儀式を行って、”門”を開ける準備をしていました」
「……門、ですか? あぁ、なるほど。貴女方は究極の門――ヨグ・ソトースの招来が目的だったのですね?」
なるほど。お相手は外なる神の副王にして全知全能の兄上であったか。猿が人間の考えていることを理解できないように私では兄上のお考えを推察しきれないところがあるが、まさか人間と子供を作っていたとはな……。
まったく、なにをしておられるのか。
それにしても兄上は世界のありとあらゆる時空と事象に繋がっている。
つまり門たる兄上を解放すれば過去より旧支配者達をこの世界に招来させることができるということか。
ふむ、人間というのは面白いことを考えるな。
だがしかし……。なんだ? 何かこの理論に穴があるような気がする。いや、兄上を使えばまず間違いなく旧支配者達をこの世界に降臨させることはできるはずだ。そこに間違いはない。間違いはないが……。
「何か、見落としてしまっているような気がしますね……」
「そりゃそうでしょ」
おや? クトゥルフ君は何かに気づいたようだ。
彼は眠たげな眼をこすりつつ「みんなこの世界にやってきたらたぶん世界が終わっちゃうよ?」と言った。
ふむ、言われてみれば確かに大きな穴だが……。
とは言え、強大な力を有する旧支配者達にとって人間など取るに足らない存在だ。虫に配慮して暮らす人間が少数派なのと同様、人間に配慮するような神もまた少ない。
そうなればいずれ人間が絶滅するのは必須だろう。
いや、迫害を受けた狂老人のことだ。自分を認めなかった者達ごと人間という種を絶滅させたいのかもしれない。
「てか復活しちゃってるじゃん。もう願望叶ってない?」
「カイン君。それを言っては無粋というものですよ」
コソコソとクトゥルフ君に耳打ちしているとハスター君はそれが面白くなさそうで、ふんと鼻をならして苦虫を噛み潰したように表情を歪める。
「でもその願いって死んだお爺さんの願いじゃん? なら君が妄執につきあう道理はないんじゃないの?」
「それは――」
「誰かのために生きるんじゃなくて、自分がどう生きるかが大切なんじゃないの? そりゃ育ててくれたお爺さんへの感謝とか、義理はあると思う。でもそれと自分の生き方を決めるのは別なんじゃない? 別の道だってあるはずだよ」
ふむ、言い過ぎだ。
今はウィルバーの話を聞く時だというのに、ハスター君がしていることは自分の生き方を自慢しているだけで本来の目的を忘れている。
それを注意しようとした時、「ハスターはよくそんな無責任なことがいえるね」とクトゥルフ君が鬱屈を称えた水色の瞳を弟に向けた。
あーあ。また始まってしまったか。
「誰かに必要とされる存在でありたい、だからその期待に応えようとしているだけじゃないか。お前が言っているのはただの独りよがりな戯れ言だよ」
「はぁ!? それこそ独りよがりな戯れ言じゃん! そんなの他者に依存して、薄っぺらい自分を誤魔化しているだけだろ!! だいたいお前は――」
今にも大陸を断裂させるような喧嘩が勃発しそうになる直前に「静かに」と仲裁に入る。
まったく、ウィルバーが目覚めるまで何度も二柱を宥めてきたが、まったくもって辟易するほど仲の悪いことだ。
「今はウィルバーさんの話を聞いてるところですよ。だというのに君達ときたら自分語りですか? 神生相談なら後で聞いてあげますので今は静かに」
気まずそうに視線をずらすが、未だ険悪な空気が残っている。
それを払拭するように手をたたき、ウィルバーに向き直る。
「身内が失礼しました。で、お爺さまから魔法の手ほどきを受けて、準備を整えたのですね。しかし『ネクロノミコン』を求めるということは儀式の準備に手間取っていると推察いたしますが?」
「……はい。門を開けるのにどうしても分からない呪文があって。祖父の収蔵しているものだけではどうしても推測もできませんでした。だから――」
『ネクロノミコン』を求めてアーカムへやってきたというわけか。なるほど。
そう納得しているとウィルバーが言葉に詰まっていることに気がついた。
いつの間にかその目の端には涙がたまり、唇を強くかみしている。
「そ、そりゃ、あたしだって、本当は儀式なんて……」
あ、これはいけない。恐らく今まで胸の奥深くに押し込められていた不安がハスター君のせいで決壊しそうになっている。
まったく、要らぬことをしてくれたものだ。
「祖父はあたし達を道具としてしか見ていませんでしたし、気にかけるのはいつも弟の方ばかりで……。それにアイツはお父様に似てしまっていて、あたしが思っている以上に賢い上に人間らしい考えをしないし、残酷な奴なんです。もし、アイツが扉を開いて、おじいちゃんの願いが叶ったら、母さんに似てしまったあたはしはどうなるか――」
溢れた感情が頬を伝い、異様に細い顎へと流れていく。
言葉にならぬ嗚咽が漏れ、部屋に沈黙が降り注いだ。
不安を解き放ってしまったハスター君もさすがに言葉なく、呆然と立ち尽くしている。
やれやれ困ったものだ。いや、だがこれはちょうど良い機会なのやもしれない。
このまま絶望と不安に押しつぶされるのか。それともそれを踏破し、立ち上がるのか。
後者であることを願うが、そのように強い心を持つ者が希有であることも知っている。期待は禁物だ。
「お気持ちをお察しします。とても辛かったでしょう。よく頑張りましたね」
「あ、ありがとう、ありがとうござい、ます……」
「もう良いのではありませんか? 貴女はこれまで頑張ったのですから」
さぁ逃げ道を用意してやったぞ。このまま頷くか? それとも私を楽しませてくれるか? さぁ、どっちだ?
「でも、でもあたしは儀式を行わなくては――」
――ッ!! よし! よし!!
「じゃないと弟が、あの化け物が――」
……ん? うん?
絶望を踏破したかと思ったが、どうしたことだ? むしろこれは強迫観念の類ではないか?
それに肝心なことを聞けていない。
そもそも、ウィルバーの弟とは?
話から推察するに父親――おそらく神格の形質が彼女以上に現れてしまっているようだが……。
「ハッ!? あたしはどれくらい寝ていたんですか!?」
「五日ほどですよ」
するとウィルバーの顔色が急に変わった。
「そ、そんなに!? か、帰らなきゃ! 早く帰らないと――。痛ッ!」
「まだ無理ですよ。かなりの深手だったんですから、もう数日安静にしていなければ傷口が開きますよ」
「でも、帰らないとアイツが! 弟が――。化物が家を出てしまう!!」
半狂乱なるウィルバーに我々は顔を見合わせることくらいしか、出来ることがなかった。
◇
ウィルバー・ウェイトリーの母ラヴィニア・ウェイトリーは家鳴りのやまぬ天井を見上げ、恐怖に落ちくぼんだ赤い目をすぐに伏せ、恐怖から逃げるように色素のない乱れ髪をかきむしる。
本当ならばこんな場所から一刻も早く逃げ出したいと彼女は常に思っていた。
すでに自分を縛る父も、不気味で自分をいつも軽蔑するような目をするウィルバーもここにはいない。逃げ出すタイミングはいつでもあった。
だがこの家から逃げだし、二階の化け物を放置しておく恐怖には勝てなかった。
「どうしてあの子は帰ってこないのよ……!」
五日ほどで戻るといったウィルバーは八日経っても戻ってくる気配がない。
その間、ラヴィニアはただただ怯えるしかなかった。
そんな彼女の耳朶を頭上から怖気を誘う、馬が歩くような重量のある足音が天上から響く。
「ひぃ……!」
彼女は思わず飛び退いてテーブルの下に隠れる。
今日のアレはとにかく苛立たし気に動き回っている。きっと餌を求めているのだ。
いつもならウィルバーが近所から買った牛を与えているのだが、ラヴィニアはそれをしていなかった。いや、出来なかった。
まず老ウェイトリーにも、ウィルバーからも二階への立ち入りを禁じられていたからという理由もある。
だがそれ以上に彼女は二階のおぞましい我が子を見たくはなかった。いや、関わりにもなりたくなかったのだ。
あの日、十五年前のあの夜、夜鷹が夜通し泣き続け、犬という犬が遠吠えを続けたあの日、玉虫色に輝く球体の集積物のような無定形の化物の子供達を孕むことになったあの日――。
出来ることならあの日に宿った我が子達を堕胎させたかった。だがそれを父は許さなかった。だから恐怖を誤魔化すために神の子を宿らせたのだと自分にいい気聞かせて精神の均衡をとってきたが、自分を縛っていた父も死に、子供達が成長した今は限界を迎えていた。
「誰か……助けて……」
病的にやせ細った手で頭をかかえるが、それはなんの意味もない。ただこの恐怖が過ぎ去り、忌み子であるウィルバーが早く帰ってくることを彼女は一心不乱に願った。
だがの時、形容しがたい唸り声が二階から轟くと共に今までにない揺れが家を襲う。深淵から沸き起こる様なこの世のものとは思えぬ咆哮にラヴィニアはただ細い正気の糸にしがみつくように悲鳴を叫ぶ。
その時、増改築を続けてきたウェイトリー邸はその衝撃に耐えきれず、ついに二階の床が音を立てて崩れた。
「きゃああッ」
幸運にもテーブルの下にいたラヴィニアは天井に押しつぶされて即死することはなかった。
埃たつ世界にむせながら瓦礫を押しのけてなんとか脱出を図る彼女だったが、突然その瓦礫の一部が音もなく宙を舞う。
それに驚きながらも周囲を見渡すと、強い腐臭と煙の中から誰かが自分を見ていることに気がついた。
「な、に……?」
呼吸が浅くなる。肌が泡立ち、冷たい汗が吹き出る。
そこに居るナニカが自分を観察しているが、それは煙に紛れてかどこにいるのか判然としない。
だが彼女はそれが自分の息子であることを、知っていた。
「ど、どうしたの? か、かわいい坊や……」
目には見えない。だが確かな存在感を放つソレに彼女は失禁し、顔を涙と鼻水で汚す。もう逃げられないことを悟りつつ、それでも生存本能に突き動かされて逃げようとしたその時、彼女は空気が動く気配を敏感に感じ取った。
が、それが彼女の最後の知覚だった。
ラヴィニアは悲鳴をあげる真もなく不可視のナニカに捕まれるや、一瞬でその上半身を咀嚼された。
彼にとって母は空腹を癒す糧でしかなかった。
彼はいっさいの躊躇なく嚥下するが、母だけでは未だ空腹は収まらない。
彼は己が神の子であっても空腹を満たす方法は食事をする以外にないことをよく知っていた。
だから初めて彼は家を出ることにした。ご飯を得るために。
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