カインとアベル・4
カイン様――クトゥルフ様が振るわれた鍬の先の雑草が見る間に生気を失ったことに驚愕した農夫はなにをしているのだとヒステリックに怒鳴りつけ、逃げるように去っていった。
そのあまりのも不遜な態度に耐えかねて忠罰を与えようとした時――。
「僕なんかのためにそんな怒らないでいいよ」
「………………。……カイン様がそう、おっしゃられるのなら」
仕方ないと怒りの矛先を納めると、カイン様は「ありがとね」と言いながら畑から草地へゆっくりと歩み、そこでゴロンと横になられてしまった。
「僕はどんなに土地を耕しても、もう土は僕に応えてくれないんだ。そういう呪いを受けてしまってね」
「カイン様ほど偉大なるお方がですか?」
「それは買いかぶりだね。それに、そうなって当然なんだ……」
一体なにがあったのだろうか、口にはしなかったが、カイン様は居心地が悪そうに寝返りをうつ。
そして背中を向けたまま「大昔の話さ」と誰に言葉を投げるでなく、語り出した。
「兄弟喧嘩をしたんだ。弟とね」
昔々、まだ時間さえも生まれぬ大昔。荒野にて生まれ落ちたクトゥルフ様とハスター様はそれぞれ土を耕すモノと羊を飼うモノとなられた。
「昔は土をよく弄っていた。不毛な大地を豊かにしようといろいろやったよ。やっと耕した畑で新芽が芽吹いた感動は忘れられないし、干からびそうになる苗に遠くの川から水を何度も運んでかけてやったのも忘れがたい。そして無事に収穫できた時は涙したね。これこそ僕が生まれた理由なのかと思うと、感慨深かった。ま、その感動と同じか、それ以上になんでこんな苦労ばかりの仕事をしなくちゃいけないんだって思ってたけどね」
カイン様の御心を推し量ることはでいないが、それでも農業の辛さというのは骨身にしみている。
広大な畑を耕すときに出来た肉刺の痛み。その肉刺が潰れ、そこに新たな肉刺ができるなどざらだ。それに干ばつと豪雨におろおろし、幾度も除草しても生えて来る雑草にも辟易した。
それでいて多くは徴税官に取られ、ひもじく暮らす毎日は、確かに感動と穏やかな日々とは到底思えない。
「よく思ったよ。ハスターは羊と戯れるだけなのに、僕はどうしてこんなに苦役をしないといけないのか、とね。でも、この苦役にもなにかしらの意味があるのだろうって、頑張っていた。でも、こんなことを続けて意味があるのかと不安だった。だからただ一言、”よし”と言ってもらいたかったから作物を主に捧げたんだ。そしたらハスターも大切に育てていた羊のうち、初子ともっとも大きいものを供えた。だけど――」
顧みられたのはハスター様とその供え物だけであった……。
クトゥルフ様はただただ悔しさに顔を伏せるばかりであったという。
「僕がどれほど苦労して作ったのか主が分からないはずがない。だけど、主は毎日羊と遊んでいるようなハスターを選んだ。それが、それがね。たまらなくやるせなかった。だから僕はアイツを野原に連れてって――」
壮絶な言葉に息を飲む。
カイン様の御尊顔を拝することはできなかったが、それでも背中を見ているだけで怒りとも悲しみともつかぬオーラが溢れているのが、よくわかった。
「あの日のことは今でもよく覚えている。あの日、主は僕に言ったよ。ハスターはどこにいるかって。怒りが冷めぬままだったから知らない、僕は弟の番人じゃないってね、初めて嘘をついちゃった。でも、大地に流れたハスターの血の声が土の中から叫んだんだ。僕が犯人だってね。それで僕はやっと自分のしでかしたことを後悔したよ。僕は自分の怒りのせいで弟を殺し、主まで欺いたんだ。だから大地に、主――アザトース様に呪われちゃった……」
そしてカイン様は自虐するよう「くだらないでしょ?」と寝返りを打ちながら訪ねてこられた。
そのほの暗い顔色になんともいえず、言葉を失っているといいんだよとカイン様は仰向けになられ、瞑目しながら言った。
「気を遣うことはないよ。実際くだらないしね。喧嘩の理由も、僕という存在も」
「……まだその喧嘩は続いておられるのですか?」
「そりゃ、ハスターを殺したことを後悔しない日はないよ。今でもあの時の感触はこの手に残っているし、主に嘘をついてしまった罪悪感なんて幾夜を越えてもなくならない。でも、僕は間違っていたのかな? 敬愛する主に、ただ一言、一言だけそのままでいいって、言ってほしかっただけなのに……」
「………………」
「まぁ、こんな話をしておいてなんだけど、人間ごときが神に同情しないでくれる? 君らみたいな下等な生命体に同情されるほど落ちたつもりはないんだ」
慌てて跪くが、カイン様は意に介さない様に目を瞑ったまま大きく息を吐きだす。
陰があるとは思っていたが、そんなことがあったとは露知らず、どうすれば良いのかと途方にくれていると「これで僕達の負けだね」とカイン様は瞑目したまま呟かれた。
「はい?」
「勝負をしているんでしょ? クエストの貢献度で。だったらこの勝負は負けだよ。僕は君を手伝えないからね。今のうちに『ネクロノミコン』の準備でもしておけば? どうせ君が持っているんだろ? 誰かに必要とされているうちが花なんだから、あの山羊のような女に愛想を尽かされる前に渡してやったほうがいいよ」
「………………」
「ん? なに?」
「い、いえ。その、お優しいのだと、思いまして」
は? と瞼を跳ね除けたカイン様の呆れた視線が突き刺さる。
だがすぐに考え直したように「まぁナイアーラトテップに比べればそうだろうね」とため息をつかれる。
「その、こう申し上げて良いのか分かりませんが、アベル様――ハスター様もお優しい神様であらせられると、思いました。その、とてもよく似ておらえると思います」
「よしてよ、気持ち悪い」
寒気を払う様に腕を組まれたカイン様が唾棄するように言われたが、「兄弟だからかな」と小さく、本当に小さくおっしゃられた。それはきっとわたしに向けておっしゃられた言葉ではないだろう。だがそれでも、少し心がほっとしているわたしがいる。
「君に兄弟は?」
「……下に妹が一人いました。」
でも妹は――。と、言葉を続けようとして、やめた。ここで言っても仕方のないことだから。
その沈黙に何かを察したのか、カイン様はそうと言ったきり大きく伸びをする。
「悪いけどひと眠りするからあとは適当にやって」
「仰せのままに」
すぐに規則正しい寝息をたて始めたカイン様を横目に、わたしはどうしようかと周囲を見渡す。
広大な耕作地を一人で耕しきるのは不可能だろうし、クエストへの貢献度としては微々たるものになるだろう。
それでも暇を持て余しているのは性に合わず、無心で鍬を振り続けることにした。
それからどれくらい経っただろう。気がつくと眩しい太陽も西に傾き、逢魔が時に差し掛かろうとしている。
山から冷たい風が吹いてきたことに仕事をしていた泥だらけの手を止めると、その瞬間に今で安眠なされていたカイン様が上体を起こし、険しい瞳で周囲を見渡っした。
「カイン様?」
「……嫌な、臭いがするね」
◇
「え? つまりはアベルさんのみお父様に認められて、それに怒ったカインさんと喧嘩になって、今までずっと不仲が続いているってことですか?」
「そうなんですよ。そのせいでカイン君はお父様に怒られて家出することになりましたね。いやはや。親しいからこそ分かりあえるのではなく、親しいからこそ憎んでしまうのでしょうねぇ」
そんな話をしていると羊の世話に夢中になっていたはずのハスター君が鋭い眼光を私に向けてきた。
まぁ羊飼いの神たるハスター君がこの勝負を征するのは分かり切っていたことだ。
だから彼が羊と戯れている間の退屈を紛らわせるためにウィルバーにハスター君とクトゥルフ君の過去をねつ造しながら分かりやすく語っていたのだが、やはり逆鱗に触れてしまったか。
「まぁまぁ。良いじゃないですか。話して減る話題じゃないんですから」
「減るよ! ぼくのプライドが減るんだよ!!」
「それはまた失礼。ですが私、人が嫌がることを進んで行うのが性分でしてね」
「知ってた! 知ってたよ!! ほんとお前って最悪なやつだよ。あ、ほめ言葉じゃないからな!」
くすくすとこの懐かしい掛け合いに笑みがもれてしまう。
だが、隣にたたずむウィルバーだけは、悲しげに唇を噛みしめていた。
「どうしたのです?」
「あぁ、いえ……。あたし、下に弟がいるんです。その弟はあたしなんかよりも父に似ていて、あたしなんかより全然利口で……。そんな弟だから祖父もあたしなんかより弟のことしか見てなくて……。だから、少しだけカインさんの気持ちが分かるなぁって」
くすくす。神の気持ちがわかるとは大きくでたものだ。
だが当のハスター君は不快を露わにしながらも優しく羊の頭をなでてやりながら口元をゆがめた。
「あれは、アイツが悪いんだよ」
「でもカインさんも自分に出来る精一杯の孝行を行ったのでしょ? なら平等に省みられるべきです」
「違う、違うんだ。アイツは不信心だった。それを見咎められたから省みられなかったんだ。そもそもアイツは自分を認めてほしいから作物を主なる神に差し出したんだ。でも、違うでしょ? 敬いがあるから自分の大切なものを差し出すものじゃないの?」
ハスター君はいつになく怜悧な空気をまとい、近づけば斬られそうな雰囲気をかもしだしていた。
その鋭い気配に周囲の羊たちが不安そうに鳴き声をあげ、彼はあわててそれをなだめにかかる。
その手慣れた手つきには感服するばかりだ。その上、よく見れば一頭一頭の調子を見ながらなだめにかかっている。それが何十頭いるか分からない量の羊を見ていくのだから彼の努力には敬服するばかりだ。
「ウィルバーはさ、お爺さんのために『ネクロノミコン』を欲しているって言ってたけど、それって本当にお爺さんのためなの? 実はお爺さんの願いをかなえる自分を見てほしいから『ネクロノミコン』を探しているってのが本音じゃ――」
「ち、違う! 違います!! あたし、あたしはそんな――!!」
雷のような鋭利な言葉に空気が固まる。まったく、これだからハスター君は……。
まぁ彼は昔からこう神だった。真っ直ぐで、情に厚い性格の彼は誰からも信頼を寄せられ、常に輪の中心にいるような奴だった。
だからこそ、その性格が災いして傷心していたクトゥルフ君の逆鱗に触れてしまったのだろうが……。
「アベル君。少し言い過ぎですよ」
「でも――」
「そういうところですよ。君は熱くなると周りが見えなくなってしまうんですから」
両手を広げて周囲に視界を広げてやると怒気に当てられて怯えた羊達が四方八方へと逃走してしまっているところだった。
「あ、あれ!? お、お前達どこに行くんだ! 戻ってこい! 戻って――。くそ、これもクトゥルフのせいだ……! ごめん、羊を集めるのを手伝って」
「は、はい」
ふむ、方々に羊が逃げてしまったおかげで勝負も振り出しに戻ってしまったようだ。
それに気づけば太陽も傾きだし、不気味なほど高い山脈から冷たい風が吹き下ろしてくる。日没までに羊を全て集められるものだろうか?
そう疑問を抱いているとふと、首筋が焦がれるような殺気を向けられていることに気がついた。
「ふむ、これは……」
長閑な牧草地帯の端。原初の闇をたたえる暗い森の中から突き刺さるような視線を感じる。
くすくす。すごい悪意だ。
「ナイア! 森になにかいる!」
「アベル君も気づきましたか」
ジリジリと明るい世界が夜に駆逐される中、延びに延びた影に森の中で蠢くそれらが徐々に近づいてくる。
それは一見、人のようであった。人間のように二本足で立っているが、ひどい猫背だ。だが顔つきはどちらかというと犬のようであり、手には鉤爪のようなものが生えているし、その肌はゴムのように不愉快な感じがした。
「ふむ、屍食鬼ですか」
「こんな人里にまで出てくるんだ……。珍しいね」
「街道や人里の近くには結界が張ってあって邪悪なものがやってこれないようになっていると聞きましたが、壊れてしまったのですかね? やはりこの世界の魔法は稚拙なのですねぇ」
「えっ? え、いや、その、た、たぶん、屍食鬼は強力なモンスターだから、結界が効かないだけじゃないかナー。この身体の持ち主の記憶にそうなるヨ」
やけにしどろもどろなハスター君だが、それを詰問するより今はこの状況を楽しもうとしよう。
やっとエンジンが暖まってきたようなものだ。楽しませておくれ。くすくす。
補足
カインとアベル 旧約聖書第四章2~15
旧約聖書出て来るアダムとエヴァ(イヴ)の子供達。アベルはカインに殺されるも、カインはエデンの園の東にあるノドという地に移り住んで子供を作っている。
また、追放されたカインは呪いを受けて農耕が出来なくなったので鍛冶に転職しており、ヘブライ語でカインは鍛冶屋を意味している。
僕は弟の番人じゃないってね、初めて嘘をついちゃった(知りません、わたしが弟の番人でしょうか)
カインとアベルは人類初の殺人の加害者と被害者であり、カインは初めて嘘をついた人間である。
今回は宿命の兄弟のことを書けて満足しておりますw
それではご意見、ご感想をお待ちしております。




