腐れ縁が港で出会う
怜香は息を吸い、タイミングをうかがう。そして葵が呼吸した隙を見計らって、思い切り抱きついてやった。
流石の葵もこれには驚いたらしく、細い目をいつもより大きくしている。
効いているなら、と怜香は相手の頭をつかんで引き寄せた。そのまま、ゼロ距離まで顔を近づける。なにやらもごもご言っていた相手は、時間がたつと諦めて静かになった。
怜香ははじめは面白く見ていたが、だんだん余裕がなくなってくる。
(え、これって、いつやめればいいの)
どのくらいの長さが適切なの。教えてどっかの誰か。
(苦しい苦しい、ダメだ死ぬ──)
気持ちの落ち着きではなく、生理的な理由で怜香は葵から離れた。とてもとても空気がおいしい。
「……お前はさっきから一体何がしたいんだ」
目の前の葵は特に苦しがる様子もなく、平然としている。
「だって、息」
「鼻は」
「ああ」
何でもなさげに言われて、思わず怜香は手をうった。
「さっきのは、驚いた」
呆れたようにため息をついた葵に向かって、怜香は笑ってやった。
「私も好き。大好き」
十年近く言えなかった思いが、やっと形になった。目の前に立つ幼なじみを見て、怜香は誇らしく思う。
「……ああ、そろそろ時間だ」
照れ隠しのように、葵が時計を見上げて言った。
「じゃ、行くね」
「死ぬなよ」
「お互いに」
頭を切り換える必要があるので、互いの別れは実にさっぱりしている。しかし、今までと違い、二人の足取りは軽やかだった。
(変わった。私も、葵も)
もし生きて帰れたとしたら、今までとは全く違う世界が待っている。
それが見たい。どうしても。
☆☆☆
ゆったりした港を目の前にして、大和は必死でカンニングペーパーを繰っていた。
「あっちは水が弱点で、こっちは風が苦手……ああ、阿呆らし」
大和は手に持っていた紙を、感情に任せて空中へ放り投げた。強い海風に煽られて、紙はあっけなくどこかへ消えていく。
「弟よ、今しれっとえらいことしよったな」
通信機の向こうにいる東雲が、苦言を呈する。
「気のせいやろ」
大和はしらばっくれた。
「せっかくまとめてくれた妖怪たちの弱点ノートやのになあ。弟の頭には高度すぎたかなあ」
東雲が低く、ひひっと笑った。そんなことを言われても、活字を読むと頭痛がしてくる体質なのだ。
「すんませんなあ」
「ま、こっちもそれがわかっとるからナビつけとるんやがな」
「ありがたいわあ」
「あ、そうそう。弟よ、ここでナビ交代や。市街地のことは把握しとっても、戦となるとうちはさっぱりやからな」
「おい、ちょ」
大和が呼びかけても、東雲から返事はなかった。かわりに、ごそごそと何かが動く低い音がする。──なんだかとっても悪い予感が。
「交代したったぞ腐れ呆けガキ」
「チェンジ」
大和は反射的につぶやいた。しかし相手は百戦錬磨の化け物、この程度ではびくともしない。
「お前に決定権なんぞないわダボ。わかったら腕組んどらんと、とっとと準備せえ」
京都と違って、大阪はまだ偵察機を飛ばす余裕がある。そこからの画像で、大和の様子は全て本部に筒抜けだ。
「なめんなや、もう完璧に決まっとるやろ」
「ほお、そうかそうか。そらすまんかったな。じゃあさっきお前がほかした紙に書いてあったこと、全部この場で言うてみい」
「…………」
大和は舌打ちをした。このジジイ、絶対にできないとわかった上でものを言っている。
「できませーん」
適当に返事をすると、「人間ってこんなにのべつく間もなくしゃべれるのか」というほどの小言がついてきた。
(そろそろ、紫ばあちゃんに言いつけるぞって伝えてみたろか)
大和が最後の手段に出ようとしたところで、海面が揺れる。波の形が、さっきまでと明らかに違っていた。
「来るで。前方注意」
「分かっとるわ、死に損ない」
淀屋へ悪態をついたと同時に、水しぶきがあがった。白い泡の中から、二本の大きな角が飛び出してくる。
(あいつか!)
今までに二度、自分の前に立ち塞がってきた相手。大和のやる気に火がついた。
「なんだ、ガキと雑魚しかいねえのか」
浮き上がってきた牛鬼は、大きな目で周りを観察しながらぼやいた。
「……お前は、はじめましてじゃねえよな」
「大分世話になったわ」
空中でにらみ合い、白い歯を見せあう。耳元の雑音が気にならなくなった。
「今日は取り巻きはいねえのか。連れてきてもいいぞ」
「その言葉、熨斗つけて返すわ」
大和は牛鬼に言った。神戸の時には手下を連れていたのに、周囲に妖怪の影がない。不自然だ。
「……ま、お前だけなら倒しやすうてええけどな」
「はっはっは、なんだその面は」
久しぶりに真面目なことを言ったのに、爆笑されてしまった。どうしてだろう。
「お前な、考えてることが全部顔に出るんだよ。そんな八の字の眉毛してたら、『疑ってます』って言ってるようなもんじゃねえか」
あけすけに言われて、大和は赤面した。耳元のイヤホンからは、淀屋の歯軋りがひっきりなしに聞こえてくる。




