君と握手
「……おい。おるのじゃろ? そこに」
さらに次の日、都は座敷に踏み入った。中はしんと静まりかえり、何の返事もない。
「おいー」
都は煙管をつまみ、軽く左右に揺らしてみた。さらに、とどめとばかりに穴のところを指でふさいでみる。
すると、煙管の胴が丸く膨れ上がった。おそらく、狐は機嫌を悪くしている。
「突然すまん。しかし度重なる無礼をしたのでな、きちんと詫びたいと思うたのじゃ」
都が言うと、煙管の膨らみがすっと消えた。
「お主の気持ちも知らず、勝手に押しつけてばかりで悪かったの。──早う主様が起きると良いな」
狐がいつも半分残すのは、主である飯綱のため。彼が目を覚ましても大丈夫なように、ずっと気を張っていたのだ。
狐が皿を飯綱の枕元まで引いているのを見て、都はそれに気づいた。
「都に怒っておったのも、せっかく残しておいたものを片付けてしまうからじゃな」
そう言いながら、都は煙管の穴から指を離す。
「しかし、お主もちっとは悪いのじゃぞ。持っていかんでくれと口にしてくれれば、都も無体はせぬ。これからはそうしてくれ」
煙管に向かって、都は願いを伝える。すると狐が、煙管から頭だけを出してきた。
「面妖な」
「管狐にとっては当たり前のことだ。いちいち騒ぐな、人間」
むくれた顔で狐がつぶやく。声を聞くと、雄だとわかった。
「男子であったか」
「悪いか」
「ずいぶんかわいらしいのでな。特に尻尾とか尻尾とか尻尾とか」
「欲望丸出しで迫ってくるなっ」
都が伸ばした手を、狐はすり抜ける。しかし、今までのように消えようとはしない。
「妖怪相手に頭を下げる人間も珍しい」
「そうでもなかろう」
「大抵は一方的に怒る」
「都をそんな者と一緒にするでない。怒るとしたら……」
腕を組み、しばらく都は考えた。
「食い物が粗末にされた時、かのう」
都としてはこの上なく真面目に答えたのだが、狐はぽかんと口を開けている。そしてたっぷり数十秒はたってから、大声で笑い出した。
「そこまで笑うとさすがに無礼じゃぞ」
「心底怒るのがその程度か。幸せな奴だ」
「『その程度』ではない。例えばこの油揚げ」
都は油揚げを指差した。すっかり色が悪くなって、酸っぱい匂いを放っている。
「農家は原料の大豆を作る。豆腐屋は朝早く起きて大豆を豆腐にし、油揚げにする。そしてそれを別のものがうちまで運ぶ。それだけの手間をかけて、ようやく都が食えるのじゃ。無駄にされて何も感じぬ輩のほうがおかしい」
都が怒ると、狐は皿を見つめる。
「……ちびは知らないだろうが、先の戦の原因も突き詰めれば食い物だったらしい。俺は鞍馬で贅沢をしすぎたかもな」
彼はさらに言う。
「お前の言うとおり、一言理由を告げておけば済む話だった。俺が大人げなかったな」
狐はため息をもらす。今なら話を聞いてくれそうだ、と判断した都はこう切り出した。
「お主が一人で食える大きさを教えてくれぬか。主様の分は、目覚められたら必ずお出しするゆえ」
しばらく考えた後、狐はうなずいた。
「わかった。──それと」
「ん?」
「俺の名前は、退紅だ。今度からそう呼べ」
☆☆☆
疾風が正式に恭順を申し出ると、思った以上に天逆毎は喜んだ。その足で、配下の妖怪たちの元へ連れて行かれる。
「一番頼りにしている四体は、ここにいないのですがね。戻ったら引き合わせましょう」
天逆毎は残念そうに言うが、疾風は内心で「助かった」としきりにつぶやいていた。
この前の月影と鵺だけであんなに疲れたのだ。その倍の有力妖怪に囲まれるなど、考えただけで背筋が凍る。
天逆毎がやってきたのは、京から離れた山奥であった。木をなぎ倒して作った広場で、地元の妖怪たちが酒を飲んでいる。
彼女はわざと大きな足音をたてながら、宴会に割って入った。妖怪たちが一斉に口をつぐむ。
「皆さんに良いお知らせを持って参りました」
そこで疾風は、無理矢理妖怪たちの前に押し出された。
「鞍馬の鬼一殿が、先日お隠れになった話はしましたね」
妖怪たちの顔に悲しみの色は浮かぶが、驚いた様子はない。天逆毎から聞いているようだ。
(勝手なことを)
里は、自分たちが不利にならないようあえて隠していたのだ。配下とはいえ、何の断りもなく公表してよい話ではない。疾風はできるだけふてくされた顔を作って、その場に立っていた。
「しかし、そのご子息の疾風殿はこうして無事でおられる。そしてこの度、一族総出で我らに協力してくださることになった」
天逆毎がそう言うと、一拍遅れて歓声があがった。
疾風は唾をのみ、目の前の妖怪たちを見つめる。全員、これ以上ないまでの喜びようだ。父や里の者たちが築いてきた評判とは、こんなに大きなものだったのか。
「不本意な死を遂げられたお父上にかわり、若き力がこれからの道中を導いてくださるでしょう。では、再び宴を楽しんでください」
疾風がぼうっとしているうちに、再び背中を押される。今度は、さっきより強かった。戻ろうとすると、その前に妖怪たちにとり囲まれる。疾風もこうなると、無下に断れなかった。
「ささ、ま、一杯」
真っ先に近づいてきたのは、橙色の炎の塊だった。油坊、と呼ばれる灯火の化身である。 彼に勧められるままに、疾風は杯をあけた。……生ぬるい。
「おや、暖まっておりましたか」
「火の玉の側にあったからな」
「……考えてみればそうでした」
「ま、気にするな」
「おお、良かった。しかし、お父上はお気の毒でした」
疾風の胸が、ちくりと痛む。時間がたっても父の死はこたえたし、油坊の言い方にもひっかかるものがあった。
彼が悪意から言ったのではないことは、十分に分かっている。それでも何かの芽が、疾風の中で頭をもたげた。




