永遠の夜への序章
「ま、そうやってこっちに戻ってきてさ」
幸い、紫がもといた時代に比較的近いところに出た。しかし、角と尻尾のせいで人の中には混じれない。困っていた紫を拾ってくれたのが、鬼一たちだったのである。
かいつまんでそこの経緯を説明すると、巌はやけに感じ入ってそれを聞いていた。
「……『ねじ穴』か。違う世界で、同じ名前で呼ばれるとは」
「ん?」
不思議がる紫に、今度は巌が今までの道のりを話してくれた。紫はその偶然に、ため息をつく。
「まさか、二人そろって『ねじ穴』に救われてたとはね」
「運命かの」
「また新しい穴が開く可能性は?」
「かなり近くにあるの。天逆毎がそれを利用するかもしれん」
実が話した、人類の敗北。それは異世界からの使者が関わっていた可能性が高い。紫が入っていた施設を焼いたように。
「葵……はわかるか。あいつも色々考えとるが、自然災害みたいなもんじゃからの。それに天逆毎……楽には勝たせてくれなそうだわ」
夫の言葉を聞いて、気ばかりが焦る。口をへの字にしてうつむく紫の肩に、巌が手を置いた。
「しかし、慌てても変わらん。一緒に考えりゃいい。な?」
「……うん」
手の大きさと暖かさが、紫の気持ちを落ち着かせる。
未来のことは、まだ分からない。それでも、戻ってきた。一緒なら、戦える。
「ありがと。帰ろっか」
「よし。お姫様だっこでいこう」
「背中が好きなのでおんぶを所望します」
「なんで色気のない方を選ぶかね、お前は」
今日の出来事は忘れない。たとえどんな結末になっても、この決断を悔いることはない。
そう思いながら、紫は夫の背中に飛びついた。
☆☆☆
人間たちがとりあえずの任務達成と、失ったものの大きさを噛みしめていたその晩。天逆毎たちは、寄りつく者のない大きな湖の上にいた。
水の中には、かつてあった街の残骸が沈む。それは赤錆色に変化して水底と一体化しようとしている。
天逆毎が呪を唱えると、巨大な湖の表面が波打った。円形の波がおさまると、そこに男の顔が浮かび上がる。
(全く、忌々しい人間め)
情報をつかむやいなや、即座に交渉を申し出てきた。胡蝶は苛立ちながら、犬によく似た頑固そうな男の顔を見つめる。
「やあ、ヘンリー殿」
傷を負っているとは思えない、ゆったりした動きで天逆毎が手を振る。
こちらの様子が映るのは、以前渡した小さな酒杯。粗は目立たないはずだが、慎重に振る舞って悪いことはない。
「夜分はおつらくありませんか」
天逆毎が言うと、ヘンリーは口の端をつり上げる。
「変なことを言う。今つらいのは、そちらの方じゃないかね」
民衆の好意を得るために、完璧に練り上げた笑み。それをまといながらも、弱みをつついてくる。
やはりこの国の指揮官から、戦の流れを聞いているのだろう。可愛くない男だ、と胡蝶は舌打ちをした。
「なんのことやら」
「貴殿は本日の戦いで多数の手勢を失い、引き上げざるを得なくなった。これには裏付けもある」
ヘンリーは自信たっぷりに胸を張る。
(愚かな男だ)
そんな小物を見て、胡蝶は心の中で嘲笑った。もちろん、天逆毎も動じない。
「負けた側が、自分に都合の良い情報を選別する。別に珍しいことではないでしょう、大統領」
天逆毎に言い返されると、ヘンリーの瞳がちらっと左へ動いた。
「……まあ、ないわけでは」
「私の話を聞いてから判断されても、決して遅くないと思いますよ」
ヘンリーがその気になれば、突っぱねることもできる。しかし、それはない。この男は、得体の知れない生物への恐怖を捨て切れていないからだ。
(向こうからこっちの全部は見えないのよね)
大統領の手元にある杯は、せいぜい天逆毎の肩あたりまでしか見えない。
しかしこちらは湖を通して見ているため、ヘンリーの背後にひしめく護衛の顔まではっきり認識できる。護衛の多さは、彼が抱いている恐怖の大きさと比例していた。
天逆毎も承知している。恐怖にかられたものを絡め取るのは、彼女の十八番だ。
話し合いは終始、天逆毎のペースで進んだ。ヘンリーの提案はなかったことにされたり、丸めこまれたり、全く違うものに姿を変える。
(流石、年季が違う)
いくら成功者といっても、人の寿命はたかが知れている。舌戦でかなうはずがなかった。
ついにヘンリーの口から、言葉が出てこなくなる。彼は顔をしかめ、胸の前で両腕を組んだ。
「……分かった。そちらの提案をのもう」
ヘンリーの部下たちがざわつく。しかし、主が腹を決めているので、動揺は次第に小さくなっていった。
「ではこれにて、契約成立。ああ、文書は不要です」
天逆毎は一旦言葉を切る。そして笑みを浮かべ、こうつけ足した。
「契約を違えた場合は、命で償っていただきますので」
「……ああ」
「では、また」
天逆毎が別れを告げる。その前から、ヘンリーの顔がわずかにゆるんでいた。あまりに予想通りだったので、胡蝶は吹き出しそうになった。
「失礼する」
「イザナミが共にあらんことを」
天逆毎がうやうやしく頭を下げる。それと同時に映像がかき消え、湖面が元に戻った。
「ふう」
今まで姿勢を保っていた天逆毎が、佐門にもたれかかる。傷のせいで、立っているのも辛そうだ。
「大役、お見事でした」
「これでしばらくはごまかせるね。さて、霊湖で休むとするか」
「はい。来たるべき時を、万全の状態でお迎えいただかなくてはなりませんから。後はお任せを」
胡蝶の言葉に、天逆毎がうなずく。そしてそのまま、湖の中に沈み込んでいった。見送りが済んでから、胡蝶は月影と佐門をにらむ。
「氷雨はどうするの?」
「天逆毎さまより重傷だから、結界張って引きこもらせるよ」
「それがいいわね。……でも、予想以上の損害だわ」
場の空気が重くなった。しかし佐門が、無理に笑い声をあげる。
「お前は相変わらず辛気くさいな。怪我はしたが主要な面子は生き残ったし、鬼一も死んだ。大国も我らの思うがまま。万々歳じゃねえか」
「佐門が楽観的すぎるんだよ」
氷雨をかついだまま、月影が器用に肩をすくめた。
「そんなに何もかもうまくはいかないよ。あのヘンリーって奴、嘘ついてるし」
やはり佐門と違って、彼は気付いていた。
「な、なんで」
「あいつ、僕らに恭順するふりして、人間共にもいい顔してるよ」
「汚ね!」
「当たり前でしょ。今のところどっちが勝つかなんてわかんないし、所詮は遠い島国の中の話だ。……今はね」
「適当にどっちにもいい顔しつつ、勝ちが確定した方に乗るつもりなのよ」
月影の見立てに拍手を送りつつ、胡蝶も補足した。
「文書がいらないってわかった時にほっとしてたみたいだしね。証拠が下手に流出したら、二枚舌がばれちゃうから」
「くおあっ」
佐門は怒りで体を大きく震わせる。湖面が海のように波打った。
「命を取るとまで言ったのにかよ」
「要はナメられてるんでしょ。田舎者が、殺せるもんなら殺してみやがれって思ってるよ」
月影がばっさり言うと、佐門はますます荒れ狂った。ここで騒いだところで、誰に届くわけでもないのに。全く、無駄なことばかりする奴だ。
「月影、どっか連れ出してよ。うるさくて仕方無いわ」
「……んもー」
端正な顔を歪ませて、月影がうなずく。小さくてもさすが酒呑、片手でごねる佐門をつかんで空に消えていった。
「さて」
ようやく自分だけになった胡蝶は、大きく伸びをした。
人間共はすでに、こちらが引いた一本道を歩みつつある。その先に何が待っているかも知らずに。
「哀れ哀れ、人形動けどそこには糸が」
胡蝶は湖面を見下ろしながら、歌い続ける。人類最後の日が迫っていることを喜びながら。
これにて第七部完結です。次の第八部で最終章となります。




