第0話 希望と絶望
「ついに...ついに我が祈りが天に届いたか!何十年もこの女を欺き続けてきた甲斐があったというものだ!」
老婆の狂ったような高笑いが、薄暗い産室に響き渡る。まるで神に感謝を捧げるかのように両手を天へと突き上げ、その体は歓喜に震えていた。
足元には、命を削って子を産み落とし、息絶えたばかりの母親が横たわっている。老婆は冷酷な眼差しで、その亡骸を見下ろした。
「自らを犠牲にしてまで子を産んだというのに、産声一つ上げぬとは。なんとも哀れな母親ではないか...本当に哀れだ」
老婆が掲げたのは、赤ん坊と呼ぶにはあまりに異質な塊だった。赤ん坊は産声どころか呼吸の音すらさせず、その肌は死人のように青白い。だが、その小さな胸の奥では、どろりとした禍々しい魔力が脈動し、周囲の空気を腐食させるかのように歪ませている。
「これこそが...魔を統べる魔王種、魔の力を宿した人の子...あはははは!私のかわいい坊や」
血の匂いと死の冷気が満ちる中、老婆は赤ん坊を愛おしそうに抱き寄せた。老婆の瞳には狂気の色が爛々と輝き、その口元から、心酔しきった歪な言葉が漏れ出す。
「...あははっ...あぁ」
◇◇◇
『誰もが憧れるかっこいい英雄』
殆どの男なら一度くらい、そんな夢を見たことがあるはずだ。もちろん、僕もその一人だった。
そもそも主人公とは何だろうか。
辞書的な意味を紐解けば、物語の中心となる主要な登場人物を指す。だが、僕たちが抱くイメージはもっと単純で、もっと熱い。圧倒的な力で敵を蹂躙し、絶望の淵にいる人々を救い上げる、そんな輝かしい存在だ。
だが、そんなのは夢の中のまた夢の存在。現代において主人公という存在は不必要だった……そう思っていた、異世界に召喚されるまでは。
マッシュベースの黒髪を揺らし、教室の片隅で一人、冷めた弁当を口に運ぶ。それが如月蓮也という人間。2年に進級して間もない時期、ふと昔の夢を思い出す。
「蓮也?聞いてる?」
「ん?あー、なんの話だっけ?」
「もうー!私が目の前にいながら、何考えてたのよー」
頬を突く指の感触。目の前で不満げに頬を膨らませているのは、幼馴染の天王寺姫花。茶髪をふんわりと団子に結った彼女は、僕とは対極にいる存在。文武両道、学園のアイドル。隣の家に生まれた幸運がなければ、言葉を交わすことさえ許されない高嶺の花。
「昔の夢を、ちょっと思い出してさ」
「何それ?消防士だっけ?」
「そうだね」
苦笑いで誤魔化したが、内心は穏やかではなかった。
「間違ってはないけどさ...」
本当になりたいものは、少し違う。まさか『世界を救う英雄になりたい』なんて、気恥ずかしくて口が裂けても言えない。幼い頃、一度だけ口にしたことはあるが、彼女はもう忘れているだろう。
放課後の夕景。長く伸びた二人の影が並んで揺れる道すがら、姫花は悪戯っぽく笑って核心を突いてきた。
「ねぇねぇ、お昼の話なんだけど。蓮也の昔の夢、英雄でしょ?」
「...っ、覚えてたのかよ」
「蓮也も知ってるでしょ? 私、記憶力だけは自信あるんだから」
不意を突かれ、熱くなる頬を隠すように視線を逸らす。
「そう言えば、僕は一度も姫花の夢って聞いたことないな」
「私の夢?...私の夢はね...あっ! そう言えば!」
答えを期待した瞬間、彼女は何かに気づいたように足を止めた。視線の先にはコンビニがある。
「ちょっと待ってて!ボールペンのインク、切れそうだったの思い出した!」
嵐のように彼女は駆け出していき、一人取り残された蓮也は駐車場の隅で待つことにした。ふと、道路の向こう側に視線を感じた。四月の中間とは言え、まだ肌寒い夕暮れ。そこに場違いな白いワンピースを纏った少女が立っていた。透き通るような、というよりは、およそ生気を感じさせないほどに青白い肌。
「え...?」
少女はじっとこちらを見つめ、ゆっくりと手招きをした。誘われるまま、蓮也の足が動く。車が通っていないとはいえ、信号を無視していることさえ意識に昇らない。吸い寄せられるように、少女の方へと歩を進めた。
そこは帰宅時間にもかかわらず、人の気配が一切消えた裏通りだった。少女の背中を追い、薄暗い路地の奥へと足を踏み入れる。
「うふふ、おいで」
少女がぴたりと足を止め、振り返った。蓮也を迎え入れようとするかのように、愛らしく両手を広げる。
「いただきます」
次の瞬間、少女の貌があり得ない形に歪んだ。裂けた口から牙が覗き、蓮也の首筋を喰らい尽くそうと大きく広がる。あまりに非日常的な光景を前にして、蓮也は抗うこともなく、ただ静かに死を受け入れようとしていた。
「...召喚――『白狐』!『黒狐』!」
凛とした声が静寂を切り裂いた。聞き慣れた、心の底から安らぐ声。白と黒の獣が疾風のごとく躍り出た。二匹の狐は少女だったモノへと猛然と喰らいつき、蓮也から引き剥がすように遠くへと突き飛ばした。
少女だったモノは、喉の奥から軋んだ金切り声を上げ、コンクリートの壁に叩きつけられた。
「ガアアアァッ!」
人の皮を被っていた化け物が、獣のような咆哮を上げる。対峙するのは、蓮也の前に立ちはだかる二匹の霊獣。陽炎のように揺らめく純白の毛並みを持つ白狐と、闇を溶かし込んだような漆黒の毛並みを持つ黒狐だ。
「蓮也、下がってて!」
「え?な、何これ!てか、ここどこ?!」
冷静さを取り戻した蓮也の視界に、あり得ない光景が飛び込んできた。コンビニでペンを買いに行ったはずの姫花が、背後から駆け寄ってくる。その手に握られているのは、コンビニのレジ袋などではなく、古めかしい魔術師が携えるような一振りの杖だった。
少女の皮を被っていた怪異が、獣のように四つん這いになる。関節をあり得ない方向へ軋ませて跳躍し、己を阻んだ二匹の狐へと牙を剥いた。だが、白狐は暴風を纏うような速度でその連撃をいなすと、鋭利な爪で怪異の肉を裂く。
「白狐、追い込んで!黒狐、影を縫って!」
姫花の凛とした号令が夜の空気に響き渡る。呼応するように黒狐が床へと沈み込み、怪異の足元から無数の影の鎖を噴出させた。逃げ場を絶たれ、四肢を拘束された怪異が、耳をつんざく絶叫を上げる。
「これ如きで、この私を封じれると思ったか...ッ!」
怪異が力任せに鎖を引きちぎろうとした、その瞬間だった。
「白狐!」
姫花の叫びと共に、白狐がその顎を開く。溢れ出した強烈な閃光が怪異の視界を真っ白に染め上げた。一瞬の隙。姫花の手の中で、杖が重厚なマスケット銃へと姿を変える。
「吹き飛べ――『火炎玉』!!」
放たれた灼熱の塊は、弾丸のごとき速度で、絶望に目を見開く怪異へと突き進んだ。爆炎が収まったあとに立っていたのは、消滅した怪異ではなく、煤けながらも不気味な笑みを浮かべるそれだった。
蓮也は、腰が抜けたようにその場にへたり込んでいた。
幼馴染が、銃をぶっ放している。白と黒の狐が、化け物と殺り合っている。現実感が剥離し、喉の奥がカラカラに乾く。声すら出ない。網膜に焼き付いた火花の残像と、鼻を突く焦げ臭い匂いだけが、これが夢ではないと残酷に告げている。
「...っ、嘘でしょ」
姫花の、戦慄を含んだ声が漏れた。マスケット銃を構えたままの彼女の指先が、微かに震えている。
「人の言葉を喋るってことは少なくとも...中位級以上...やはり、この程度の魔法じゃ意味がない」
「(こうも強力な奴と見つかるなんて...最近、魔物の動きが活発になってる。中途半端に魔力があった蓮也が狙われるのは、時間の問題だった...私一人じゃ中位の魔物には太刀打ちできない)」
彼女は目の前の存在を、もはや幽霊や化け物といった曖昧な言葉では呼ばなかった。明確な敵意と生存戦略を持った脅威、それを魔物と呼ぶ。
「アハハッ!美味そう、美味そうだなぁ、その魂ッ!!」
魔物が一歩、踏み出す。その圧迫感に、先ほどまで優勢だった狐たちが低く唸り、一歩後退した。
「くっ、白狐、黒狐!下がって!」
姫花が叫ぶが、その表情には先ほどの余裕はない。魔物の放つどす黒い魔力に、彼女の防御結界が軋むような音を立てていた。蓮也の視界が、スローモーションのように引き延ばされる。目の前で、魔物のどす黒い一撃が姫花の防御結界を粉砕した。弾け飛ぶ光の粒子。吹き飛ばされる幼馴染の身体。白狐と黒狐の悲痛な鳴き声が、遠くで響いた。
「ひめ、か...っ」
思考が真っ白に染まる。理屈なんてどうでもいい。ただ、このままでは彼女を失う。心臓が早鐘を打ち、声にならない叫びを上げようとした瞬間、世界から音が消えた。
燃え盛る炎も、崩れ落ちる姫花の姿も、すべてが純白の静寂に塗り潰される。その中心に、男はいた。透き通る銀髪に、慈愛と冷徹さが同居した瞳。背中には、現実を拒絶するほど神々しい純白の翼が揺らめいている。天使のごとき美貌を持つ男が、蓮也の魂を見透かすようにじっと見つめていた。
『力が、欲しいか?』
鼓膜ではなく、魂に直接響く澄んだ低音。
『ただの傍観者として、愛しき存在が塵に変わるのを眺めるか。それとも、すべてを薙ぎ払う暴威をその手に掴むか』
男が静かに手を差し伸べる。その掌からは、姫花の魔力とは比較にならないほど濃密で、圧倒的な黄金の光が溢れ出していた。
『選べ。大切なものを守り抜くための、絶対的な力を』
脳裏を駆け巡るのは、幼い頃から隣にあった姫花の笑顔。その瞬間、恐怖は消え去った。代わりに、腹の底から燃え上がる熱い衝動が全身を支配する。
「...くれ。あいつを...姫花を助けられるなら、なんだっていい!」
蓮也がその光に指を伸ばした瞬間、純白の世界が激しく脈動した。男の唇が、征服的な笑みに歪む。
『奴と交わした約束は今果たした!良かろう!魔を払う勇敢なる人の子よ!今こそ契約は成った!我が名を叫べ!我が名は...!』
突き動かされるまま、蓮也はその名を咆哮した。
「英雄ミカエイル!!」
足元に巨大な魔法陣が展開し、虚空から鎖に縛られた無骨な剣が姿を現す。蓮也がその柄を掴むと、封印の鎖は自ら弾け飛び、眩いばかりの聖光を放つ聖剣へと変貌した。
「な、何あれ...宝具?いや、契約獣?!」
吹き飛ばされていた姫花が、驚愕に目を見開く。蓮也の背後に顕現した翼の男を見て、彼女は震える声で零した。
「人型なんて、初めて見た...いや、それよりも」
ずっと隣にいたはずの蓮也が秘めていた未知の力。だが、驚きに浸る時間はなかった。
――身体が熱い...だが、それよりも!!
「姫花に触るなぁ!!」
『蓮也!一撃だ、頭を狙え!』
ミカエイルの鋭い声が飛ぶ。蓮也は守りたい一心で聖剣を振り下ろした。黄金の斬撃が魔物へと奔る。だが、平和な世界で生きてきた彼には、人の形を模した異形の顔に刃を向ける覚悟が、無意識のうちに欠けていた。本能的な忌避感が、切っ先を僅かに逸らさせる。聖剣は、魔物の胴体を深く切り裂くにとどまった。
「危ない...ふん。勢いだけか。死に至るほどの力ではないな。頭なら危なかったが...これは...ほう、この痛み、まだ微弱だが...やはり聖属性は厄介だ」
魔物はどす黒い血を流しながらも、嘲笑を浮かべる。目覚めたばかりの蓮也の力は、その一撃で絶命させるには至らなかった。
「なっ...なら、もう一度...!」
再び剣を構えようとした蓮也だったが、急激な目眩が彼を襲う。視界が急速に暗転し、膝から崩れ落ちた。
『すまない、蓮也。魔力切れだ。平和な世界に住む貴様の器を、考慮しきれなかった私の過失だ...』
ミカエイルの姿が半透明に透け、霧のように消えていく。同時に、黄金に輝いていた聖剣もその姿を消した。
「ふはははは!間抜けめ!千載一遇の好機を逃すとはな!」
魔物が勝ち誇った声を上げる。
「聖属性を使う貴様は危険だ。今のうちに食うてくれるわ!」
「白狐!黒狐!蓮也を守って!」
倒れた蓮也の前に姫花が立ちはだかり、マスケット銃を構える。だが、格上のレベル2を前に、今の彼女では勝ち目がないことは明白だった。
「(せめて、彼だけでも逃がさなければ)」
姫花が黒狐に蓮也を連れて逃げろと命じようとした、その時。絶望が支配する戦場へ、一筋の影が音もなく舞い降りた。夜の闇を溶かしたような黒曜の長髪をなびかせ、その少女は紅い瞳をこちらに向けた。姫花にとって、それはあまりに馴染み深い顔だった。
「あま...がみさん?」
「強力な魔力が感じ取ったと思えば...魔物がいるわね」
天神と呼ばれる少女。その姿を目にした瞬間、姫花の心に張り詰めていた緊張は、劇的なまでの安心感へと塗り替えられた。
「あら?貴方は...天王寺家のご息女。名前は確か、姫花と言ったわね。お会いするのは二度目かしら」
「天神さん!後ろ!」
敵を前にして平然と世間話を始める彼女に、姫花は悲鳴のような声を上げた。背後では魔物が大きな口を開け、今まさに彼女を食らい尽くそうと迫っている。
だが、警告は不要だった。天神は振り返りもせず、流れるような動作で後ろ回し蹴りを叩き込む。凄まじい衝撃音と共に、魔物の巨体が壁へと深々とめり込んだ。
その一撃に込められた濃密な魔力を肌で感じ、魔物は戦慄の中で彼女の正体に行き着く。
「この魔力の質...なぜ人である者が...いや、その顔どこかで見た事あるぞ!その髪色にその瞳。そうか!お前が黒魔女か!」
「その呼び名、やめてくれる? 完璧な美女である私には不釣り合いだわ」
「くっ!やられてたまるか!」
勝機なしと踏んだ魔物が、翼を広げて空へと逃亡を図る。しかし、天神の動きはそれを遥かに凌駕していた。後から動いたはずの彼女が先回りし、上空からかかと落としを振り下ろす。
魔物は隕石のような勢いで地面に叩きつけられた。
「すごい...中位級を相手に、宝具も契約獣も使わずに圧倒するなんて。これが黒魔女の力...え?」
地面に陥没を作った魔物は、死に物狂いで残りの力を振り絞り、ふらつきながらも路地裏へと逃げ出した。だが、天神は追うそぶりも見せず、冷淡にそれを黙殺した。
「...ええ、そっちに向かわせたわ」
彼女は耳に手を当て、誰かと通信している。
「な、天神さん、いいんですか!? 魔物が逃げて...」
「あれは、大丈夫よ。それよりも...」
天神は倒れている蓮也に視線を落とした。
「まずは、そこで倒れているこの子の応急処置が先決だわ」
◇◇◇
窓の外から差し込む柔らかな陽光が、白を基調とした清潔な室内を照らしていた。微かに漂う消毒液の匂い。遠くで聞こえる規則的な電子音。重たい瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
「ここは...?」
蓮也が掠れた声を漏らし、上体を起こそうとする。だが、全身を襲う鉛のような倦怠感と、魔力を絞り出した後の鈍い頭痛に顔を顰めた。
「蓮也...?!」
すぐ傍らから、震えるような声が聞こえた。視線を向けると、そこにはパイプ椅子に腰かけ、今にも泣き出しそうな顔で彼を見つめる姫花の姿があった。
「ひめ、か...僕は...」
「よかった...本当に、よかった...!」
言葉を紡ぎ切る前に、柔らかな温もりが蓮也の胸元に飛び込んできた。弾んで駆け寄った姫花が、彼の首に腕を回し、壊れ物を扱うように、けれど力強く抱きしめる。
「姫花?」
「ごめんなさい、勝手に...あの時、君を守れないんじゃないのか?と思うと...なんだか、怖くて...無事で良かった」
蓮也の肩に顔を埋めた彼女の体は、まだ小さく震えていた。
薄い病衣越しに伝わってくる、切ないほどの体温と微かな吐息。そして、シーツを濡らしていく熱い涙の感触。
自分がどれほどの無茶をし、彼女にどれほど過酷な不安を強いたのか。蓮也は、自由の利く方の手をそっと彼女の背中に回した。
「僕も...姫花が無事でよかった」
なだめるように優しく背を撫でると、姫花はさらに腕の力を強める。静まり返った病室に、重なり合う二人の鼓動だけがトク、トクと、確かな生を刻んでいた。
「あーあー、お楽しみのところを邪魔して申し訳ないんだが...そろそろ、彼とお話ししてもいいかな?」
不意に響いた軽薄な声に、二人の肩が跳ねる。
「ローランドさん!す、すみません!」
慌てて離れる二人を眺めていたのは、整った顔立ちに知的な眼鏡を光らせた男だった。珍しい緑色の髪をセンターで分け、後ろで低く結ったローポニーテール。その浮世離れした姿で、男は悠然と椅子に腰掛けていた。
「初めまして、如月くん。私はローランド=マキュリー。ギルド...と言っても分からないか。まぁ、魔物という厄災から国を...世界を守る組織の、日本支部長補佐を任されている者だよ」
「世界を守る組織...それで、僕はどうなるんですか?」
「おや、飲み込みが早いね。そうだ、君には二つの選択肢がある」
ローランドは細い指を二本立てた。
「体験した非現実の記憶を消して平和な日常に戻るか。それとも、君の力を使ってこの世界を救うか」
蓮也が言葉を失うと、ローランドは静かに目を細めた。
「...えっと」
「...すぐには答えられないよね。ゆっくりでいい。これは命に関わる決断だ。我々魔導師は、常に死と隣り合わせで魔物と戦っているからね」
深い沈黙が降りた。未だにすべてが悪い夢ではないかと疑う心。あんな化け物と再び対峙することへの、根源的な恐怖。蓮也の思考が混濁とした、その時だった。ふと隣を見ると、姫花が不安げに首を傾げて自分を見つめていた。
あの化け物との戦いぶり、彼女は、昔から僕の知らないところでずっと、あんな恐怖と戦ってきたに違いない。
そしてローランドの放った『世界を救う』という言葉。それは、幼い頃から抱いていた蓮也の夢そのものだった。
「蓮也、無理しなくていいのよ。魔導師の道は危険すぎるわ。私、君をあんな場所に巻き込みたくない...」
姫花の痛切な願いに、蓮也ははっきりと首を振った。
「...そんなの嫌だ。僕の知らないところで姫花が傷つくなんて、もう耐えられない」
「蓮也...」
「いつも守られてばかりの自分は、もう終わりにするんだ。姫花を...世界を救いたい!だから僕はなるよ。その、魔導師ってやつに!」
揺るぎない決意を宿した少年の瞳に、ローランドは満足げに口角を上げた。この覚悟が、後に語り継がれることになる二人だけの英雄譚の、静かな産声であった。
この物語は、英雄を夢見る少年が悪に染まる世界を救済し、再生させるまでの希望の物語である。
第0話 【希望と絶望】
否
「はぁはぁ、人間ごときに、やられてたまるか!」
時は少し遡り、天神が敢えて見逃した魔物は、死の象徴である彼女から逃れるべく、惨めに路地を這っていた。
「顔は覚えたぞ...まずはあの聖属性の小僧を殺して喰らう。そこで得た力で、あの女を必ずこの手で!」
執念を燃やし逃亡を続ける未知の怪物の前に、一人の白髪の少年がふらりと現れた。
「お?みーつけた...あーあー、こちら亜里好。魔物と合流したよ...って、無視かよ。聞いてるなら、せめて返事くらいして欲しいんだけどな」
少年は耳元のインカムに指を添え、応答のない味方に呆れたようなツッコミを入れる。そのあまりに無防備な姿に、魔物はどす黒い殺意を向けた。
「...なんだお前は...ただの、出来損ないの人間か。なら丁度いい、お前を喰らい、あの女に刻まれた傷を癒すとしよう」
魔力量が微弱な事に一般人と判断し、魔物は醜悪な口を歪める。だが、異形の化け物を前にしても少年の態度は変わらない。それどころか、憐れむような笑みさえ浮かべていた。
「喰らう?...魔物って人間を食らう連中だろ?」
「それがどうした!」
「ならさ...逆に喰われる気持ちは知っているか?知らない様だから、俺が教えてやるよ」
少年が手のひらを魔物へ向けた瞬間、その中央に牙を剥いた口が裂けるように出現した。深淵のごとき喉の奥からは、無機質な赤い瞳がじっと魔物を覗き込んでいる。
「いただきます――『噛み砕き』」
「まて...これは呪力?!なぜ魔物ではないお前が?!...いや、この力...魔王種?!」
少年の右腕に刻まれた刺青が、脈動と共にどろりと液状に溶け出した。それは意志を持つ濁流となって広がり、突っ込んできた黒騎士を逃さず飲み込み、蹂躙し、喰らい尽くしていく。
「な、なんだこれはぁぁ!人間ごときが、この私を喰らうというのかぁぁ!!?」
バリッ、ボリッ
静まり返った路地裏に、硬い骨が砕かれ、咀嚼される不吉な音が響き渡る。
「...あまり腹の足しにもならねぇか。けど、力が漲ってくるのは分かるな」
少年は己の力を確かめるように、元の形に戻った手のひらを見つめた。それから、今度は自分自身の腹に手を当てる。
「さて、こっちの腹も減ってるし。何か食って帰るか...」
これは、魔王と呼ばれる少年が、ゴミ溜めのような世界を破壊し、再生させるまでの絶望の物語である。
第0話 【絶望と希望】




