第8話 続く日々
無事姉の部屋の撤収作業が終わり、2週間ほどが過ぎた。世間はお盆。夏はまだ盛りの時期である。そんな中、赤森さんが地元にやってきた。墓参りに行かないかと誘ったのだ。「会社休みやけど、実家もどうせ二度と帰らへんし、凛花ちゃんの育った町見てみたかったからちょうどええわ」とのことで、二つ返事で来ることになったのである。
姉の墓は山の上、蛇行した山道を登った先の開けた場所にある。僕と赤森さんはセミがやかましく騒ぎ立てる中、舗装された山道を登って姉の墓を目指していた。
「いや、キツいてこの坂……」
赤森さんはちょっと坂道を歩いただけで息を切らしている。以前ユノちゃんと散歩に行ったときと似たスポーティなスタイルの格好だが、すでに汗びっしょりである。
「普段平坦な都会で生活して、上下の移動も全部エレベーターかエスカレーター使っとったらこういうことになるねんで。気ぃつけえや」
そんなことを言いながら登ること20分、(主に赤森さんが)ヘトヘトになりながら墓場についた。来た道を振り返ると、町が一望できる。結構登ったようだ。周囲には誰もいない。参拝者は僕たちだけらしかった。
もうひと踏ん張りして姉の墓まで移動する。四九日に建てたばかりの新品の墓。姉の墓。周りの景色と違和感なく佇んでいる。誰が見ても普通の墓にしか見えない。……いや、そもそも生前だって姉は普通の人間だったのだ。普通で、特別な人間だったのだ。僕が知ろうとしなかっただけで。
「数日前にもご両親と来たんやんな? 新品やし、掃除するようなゴミもないなあ」
言いながら、赤森さんは鞄をゴソゴソと触ったかと思うと、紙の袋に包まれたパンを取り出して墓に供えた。紅茶パンだろうか。赤森さんはさらに線香に火をつけて供え、そのまま手を合わせて黙祷する。僕も墓に向けて手を合わせた。数日前にも来たので、姉はなんだこいつと思っているかもしれない。
漂う線香の匂いとセミの喧噪の中、静かに姉を想う。どうだろう。姉はこの人生に満足だっただろうか。社会人としてこれからというとき、パートナーともこれからというときに亡くなった無念はあるだろう。チョコ菓子の当たりマークも5つ集めたかっただろう。もっとやりたいことはたくさんあっただろう。
でもたぶんだけれど、姉は満足だったと思うのだ。姉は当たり前の日々を、当たり前のように、そして特別に過ごしていたと思うのだ。赤森さんと会って、日記を読んだからこそ僕はそう思う。仮にそれらがなかったら、姉へむける感情は憐憫だけだったかもしれない。完璧な人生のまだまだこれからというときに死んでしまって可哀想なことだ、と。
実際どうだったかは知らない。もし死後の世界というものがあるなら、いつか聞いてみたいと思う。でもたぶん、最後の死に方はともかくとして、満足のいく人生を、満足のいく日々を送っていたと思うのだ。
僕は目を開けた。赤森さんもちょうど目を開けて手を下ろしたところだった。赤森さんは何を考えていたのだろうか。そんな僕の考えをよそに、赤森さんは元気よく言った。
「ほな、お下がりはいただいていきますか!」
言うが早いが赤森さんはパンを回収して袋から出し、半分にちぎった。一方を僕に手渡し、残ったもう半分に噛り付いた。
「悠樹くんも一緒に食べようや」
「どうも」
受け取ったパンを食べる。香ばしい紅茶の香りと控えめながら上品な甘さが口に広がる。なるほど。たしかにこれは美味しい。いつまでも食べたくなる味だ。
「赤森さん」
「ん?」
「美味しいです」
「せやろ?」
赤森さんの一口は相変わらず大きい。小さい頬いっぱいにパンを食べている。
「赤森さん」
「ん?」
「さっき、何考えてましたか」
赤森さんの咀嚼が止まった。かと思うと、すごい速さで咀嚼を再開してパンを飲み込んだ。斜め上を見ながら、考えるようにして、ゆっくりと答える。
「……まあ、凛花ちゃんへの近況報告やな。凛花ちゃんがいなくなってからのこと、悠樹くんのこと、うちの今後のこと、そんな感じやな。今後のことなんかまだ何も考えられへんけど。10年くらいは引きずる予定やし」
「10年ですか」
「うち激重やし。そうは見えへんかもしれんけど」
こともなげに赤森さんは言った。10年。僕には想像がつかない。でも姉も井澄先輩が脈なしだと知りながら数年間想い続けていたのだ。そういうものなのかもしれない。恋愛経験がなさ過ぎてまったく分からない。
「毎年来るつもりやから、そんときはまたよろしゅうな」
赤森さんは指をピッと二本立てて言った。
● ● ●
その後しばらくして、パンを食べ終わった赤森さんが聞いてきた。
「そういえば悠樹くん、凛花ちゃんの金庫どうしたん?」
「カギ閉めたまま実家にありますよ。親もパスワードなんて分からないので」
中身が捨てられてしまうのがなんとなく癪だったので、僕もパスワードを知らないふりをしている。姉の通帳やアクセサリーなどは別であったのと、金庫を揺すったときに軽い音しかしなかったからという理由で、大したものは入っていないだろうと親は推測して放置している。姉の日記は読んだらしいが、おそらく両親によって金庫が開けられることは今後ないだろう。ちなみに日記を読んだ両親はとんでもなくショックを受けていた。
「ほーん、そっか」
赤森さんは持参したペットボトルの水を飲みながら、
「そういえばついでに、悠樹くんの方はどうなん? なんか新しいこと初めて人と関わってみようと思っとるとか言っとったやん?」
「あ、オンラインゲーム始めました。ほかのプレイヤーとチャットしたりできるやつ。ゲームそのものが面白かったらそれでいいですし、ついでに友達できたらいいなって」
満足げに頷く赤森さん。
「せやな、まずは自分が楽しくないとあかんからなあ。ええ感じ?」
「完全に初心者なので結構みんな助けてくれますね。あと自分に合いそうなプレイヤーコミュニティ見つけたので、今入会申請してるところです」
赤森さんは笑顔を浮かべつつ、僕から視線を外した。腰に手を当てて、自分たちが登ってきた方を振り返る。墓場を見渡すように、山の下の町を見渡すように、さらにもっと遠くを見るように、視界に世界を収めているようだった。
「……友達、出来たらええなあ」
「……そうですねえ」
僕も赤森さんが見ている方向に目を向ける。眼下の町。夏の日差しの中、家々の屋根が白く光を照り返している。生活道路でのんびりと車たちが行き来している。町のはずれには青々とした田んぼや畑、そして鈍く光る帯のように見える川がある。
何となく今、自分がどこにも属していないような感覚になる。今立っているこの場所だけが、時空から少し外れている気がする。
日傘も差さず、木陰にも入らず、ただ赤森さんと二人で町を見る。セミの声が何層にも重なって聞こえる。汗が背中をゆっくりと伝う。
どれほどそうしていたのか分からない。数分だったか、もっとかもしれない。しばらくあいまいだった世界を現実に引き戻す、赤森さんの言葉が響いた。
「ほな、そろそろ帰ろか。暑いし」
「……ですね」
「ごはん行こうや。お姉さんが奢ったる。友達作りの前祝いや」
「意味わかんないですね」
「そうそう、そんくらいの反応がええわ」
僕たちは燃え残った線香を片付けて、帰り支度を整えた。姉の墓石に向かってもう一度手を合わせる。次に来るときには、僕も何か変わっているだろうか。僕も姉のように、満足のいく日々を送れるようになっているだろうか。少なくとも、そういう日々に近づいていたいと思うし、そう行動したいと思う。
「また来るよ、凛花姉ちゃん」
僕は懐かしい呼び方で姉に呼びかけ、墓を後にした。




