おまけ その後の話3
翌日から、テイドは私に声をかけようとするのをやめたようだった。食堂や廊下で擦れ違ったりした時はこちらを意識している様子を見せるものの、それ以上の行動を取る事はなくなった。
そして私がテイドと直接話をした日から一週間が経つと、私は放課後にいつもの森の中でイライアスにこう言った。
「テイドはもうすっかり諦めたようね」
イライアスに背を向けながら喋る。何故なら彼は今、着替え中だから。
先程まで狼姿で森を駆けていたのだが、私がやって来たので人の姿に変わったのだ。別に狼の姿のままでも話はできるから、変わらなくていいのに。
「いや、まだ注意はしていた方がいい。テイドは未だによくビーの方を見てる」
「それ、あなたが言う? 周りに疑われるから食堂なんかで会っても私の事を見つめるのはやめてって言ったのに、全く改善しようとしないあなたが?」
後ろを向いている私と目が合わないのをいい事に、イライアスは聞こえていない振りをしてテイドの話を続けた。
「ビーの事をそんなに見るなと言いたいが、言えば嫉妬している事に気づかれるだろうから言えない」
「そうね、やめておいて。そしてそんな些細な事でテイドに嫉妬するのもやめてよ」
「それは無理だな」
そう言いながら、イライアスは後ろから私を抱きしめた。
「ちゃんと服を着た?」
尋ねながらイライアスの腕の中で体を反転させて彼と向き合う。
イライアスは下はちゃんと服を身に着けていたが、上はシャツに腕を通しただけでボタンもとめていない。まぁ想定内だ。これくらいの姿ならちょっと見慣れてきてしまっているし。
「ボタンをとめてあげるから、少し離れて」
密着されていたんじゃとめられないと思って言うが、イライアスは私の背に回した腕をほどかない。
そして鼻がくっつきそうな距離で私と視線を合わせながら、これもちょっと聞き慣れつつある台詞を言う。
「キスは?」
私はそれには答えずに、イライアスの綺麗な藍色の瞳を見返しながらこう返した。
「そのために人型になったのね?」
「狼のままでもビーに額や鼻筋にキスをしてもらえるが、それだけだからな」
「足りない?」
私は冗談を言うように笑って返したのに、イライアスは真面目な顔をして頷いている。
「恋人同士なんだから、いちいち許可はいらないわよ」
「だが、訊くとビーはいつも駄目だと言うし、唇を近づけると避ける」
こちらを責めるような、そして拗ねているような口調で言われる。
その辺りは私も自覚があるが、恥ずかしいから仕方がない。考える隙を与えられると羞恥心が出てきて拒否してしまうのだ。
顔が赤くなっているのを感じつつ、イライアスを見上げて睨む。
「分からない? それは照れ隠しよ」
こんな可愛くない言い方しかできない自分にがっかりした瞬間だった。
私が一度まばたきをした間に、イライアスの唇が私の唇に触れていた。
本当に触れただけでイライアスは一度顔を離すと、突然の事に対応できずに目を丸くして突っ立っているだけの私に、再びキスをする。
深く口付けられると、思わずぎゅっと目をつぶって後ろに下がりそうになったが、いつの間にかイライアスの手が私の頭の後ろに回っていて逃げられなかった。
口付けの角度を変える合間に息を吐き、息を吸う。
けれどまたすぐに唇を塞がれるので、ちゃんと呼吸をする事ができない。
なんだか分からないけど頭がぼうっとしてきたし、いい加減呼吸も苦しい。
だけど唇から伝わるイライアスの体温が愛しくて、もうやめてと言い出せない。
やめてほしいのかやめてほしくないのか自分でもよく分からなくなっていると――、
唐突にイライアスが唇を離して、パッと右側を見た。
そこには森が広がっているので、あるのは木だけだ。
少なくとも私にはそう見えた。
けれどイライアスは突如走り出すと、私から離れた瞬間にシャツを脱ぎ、狼に姿を変えて森の中に突っ込んでいく。
「……な、何なの?」
キスの余韻が冷め切らないまま、力の入らない足を動かして、私は森の中に消えてしまったイライアスの後を追った。
そして彼が残していった靴や服を回収しながら歩いていくと、キスをしていた場所からそう遠くないところで、狼姿のイライアスを発見する事ができた。
「イライアス……!」
けれど見つけた瞬間に私は悲鳴を上げる。
イライアスは誰か――制服のズボンが見えるので、学園の男子生徒だろう――に襲いかかったらしく、私が着いた時にはその生徒を地面に組み伏せていたからだ。
低い唸り声を漏らしながらイライアスはその生徒にのしかかり、威嚇するように牙を見せている。
「イライアス・ウォー!」
第三者がいる以上、親しげに呼ぶのはまずいと、私はイライアスのフルネームを呼びながらそちらに駆け寄った。
しかしそこで初めて組み伏せられている男子生徒の顔を見て、ハッと息をのむ。
地面に仰向きで倒されていたのは、テイド・グルーだったのだ。
「あなたは……」
少し動揺して、声が僅かに上擦る。
彼はいつから森にいた? 私とイライアスが一緒にいたところを見たのだろうか?
テイドは相変わらず困ったように眉を下げて私の方を一度見ると、次に自分の上に乗っているイライアスへ視線を移して声をかけた。
「イライアス、重い……。どいてくれよ」
それに対して、イライアスは牙を剥き出しにして唸った。テイドはますます眉を下げる。
「そんなに怒らないでくれよ。こっそり後をつけた事は……謝るから」
「後をつけた?」
私は鋭い声を上げた。冷や汗が背中に滲む。
イライアスがゆっくりテイドの上からどくと、テイドは気まず気な顔をしながら上半身を起こした。
「後をつけたって、私を? いつから?」
「ベアトリス様が教室を出たところから……。でもそんな事をしたのも、この森までついて来たのも、今日が始めてです」
困惑しながら、私は続けて尋ねた。
「何故そんな事をするの? まだその靴下をくれた人の正体を気にしているのなら、こっそり後をつけなくたって、私が教室で一人残っている時にでも声をかければよかったでしょう?」
私の言葉に、テイドは首を横に振る。
「その事はもういいんです。俺はあなたがこの靴下をくれたんだって確信してるから、あなたが隠そうとするなら無理に認めてもらおうとは思わないです。だけど……あなたとイライアスがどういう関係なのかは、どうしても気になって……。二人は表向き仲が悪いよう見せているだけじゃないか、本当は友人だったり、あるいは恋人同士だったりするんじゃないかって、この一週間はずっとそればかり考えていました」
テイドは地面に座り込んだまま、私とイライアスの顔色をうかがうように順番に見上げた。
そして私に向かって頭を下げる。
「すみません、ベアトリス様。後をつけたりなんかして」
「……訊くのが恐ろしいけど、どこからどこまで見ていたの?」
「イライアスに気づかれないように慎重に近づいていたので、最初の方は見てないです。でも、あの……キスしてるところは見ました。すみません」
テイドはその光景を思い出したかのように顔を真っ赤にしてうつむいた。つられて私まで頬が熱くなり、思わずテイドを責める。
「私とイライアスが恋人かどうかなんて、どうしてあなたが気にするのよ。その靴下を贈った人物の正体を突き止めたいっていう気持ちなら理解できるけど、どうして私とイライアスの事まで」
「だって……! それも俺にとってはとても重要な事なんです。あなたに恋人がいるかいないかっていうのは! イライアスが恋人だったなら勝ち目がないけど、もし違ったら……俺にもチャンスはあるかもしれないし……」
テイドの声はだんだんと小さくなっていき、耳まで赤くなる。
「それって、つまり……」
私はうろたえながら呟いた。
だけどこれ以上追及するのはやめておいた方がよさそうだ。ここで気持ちを吐露されても、私は応えられないから。
一方、イライアスは眉間に皺を寄せてテイドを見ている。二人は友人のはずなので、いくらイライアスが嫉妬深いと言ってもこんな事でテイドを嫌う事はないだろうが、今は機嫌が悪そうだ。
文句を言いたげにぐるぐる唸り続けているイライアスに、テイドが言う。
「分かってるよ。別に二人の仲を邪魔したいわけじゃない。けど別に、俺は俺で自分の気持ちを大切にしたっていいじゃないか。想うだけなら自由だ」
イライアスは言葉を発していないのに、テイドは普通に会話を成立させているのが不思議だ。
この話題が続くのは少し気まずいので、私は一つ咳払いをしてからテイドにこう言う。
「テイド、今日この森で見た事は誰にも言わないで。イライアスと私の関係がお祖父様に伝わるとまずいの」
「言いません。もちろん」
テイドは真剣な顔で頷いて断言してくれた。
「ところで、私も一つ気になる事があるのだけど……」
そう前置きしてからテイドに尋ねる。
「あなた、どうしてその靴下を贈ったのが私だと気づいたの? 確かにその靴下にかかっている魔術は高等なもので、自分で言うのもなんだけど、この学園の中では私くらいしか扱えないものではあるわ。だけど例えば国王陛下に仕える魔術師の中にはもっと優秀な人もいるし、あなたにはその靴下を贈った人物がイライアスの知り合いだという事は分かっても、それが学園関係者なのか外部の人間なのかは分からなかったはずよ。なのにあなたは、その靴下を贈ったのは私だってほとんど確信してた。何故なの?」
テイドの性格からして、自分の導き出した結論に八割、九割ほどの自信があったとしても、私に直接声をかけるという行動は取れないだろうと思う。
だけど彼はほぼ十割の自信があったから、〝恐ろしいベアトリス・ドルーソン〟に直接真実を尋ねようと行動する事ができた。
その自信がどこから来たのか、何を見て、何を聞いてそう思ったのか。それが私は気になる。
テイドが気づいたという事は、同じく私がピアスを贈ったチーナも気づく可能性があるかもしれないし、そうやってどんどん私の秘密が露見していく事が怖いからだ。
けれどテイドは私が予想していなかった、けれどとても単純な答えを教えてくれた。
「イライアスを介してこの靴下をくれたのがベアトリス様だと分かったのは、靴下に匂いが残っていたからです。ベアトリス様はたぶん、いつも香水か何かをつけてますよね? たまに廊下に残り香が漂っていて、その先を進んだらベアトリス様がいたりして、前から匂いは覚えていました。あの……いい匂いですし」
テイドはもじもじと言ったけれど、私は目をつぶって片手でこめかみを押さえた。
「匂いですって? ……そう、そうよね、確かに私はずっと同じ香水を愛用してるし、獣人は基本的に皆、人間よりも鼻がいいものね。でも待って……」
そこで狼姿のイライアスの方を見て続ける。
「テイドが私の匂いに気づくなら、イライアスだって靴下に残っていた香りに気づいたはずでしょう?」
狼や犬は、動物の中でも一番鼻のいい生き物のはずだ。テイドが気づいてイライアスが気づかないはずがないと思った。
しかしイライアスも不可解だというような顔をして言う。
「確かにビーから靴下を受け取った直後は、ビーの匂いが残ってた。だが、だから俺はしばらく靴下をポケットに入れて自分の匂いをつけ、ビーの匂いが消えたと確認してからテイドに渡した」
「ああ、ベアトリス様の香りはほとんど消えかかってた。だけど俺にはちゃんと嗅ぎ取れたんだ」
テイドはズボンについた汚れを払いながら立ち上がった。
そしてそこで少し口角を上げて、珍しく得意げな顔をする。
「ベアトリス様も多くの人間たちも、そしてイライアスや多くの獣人たちさえも知らないみたいだけど、熊ってかなり鼻がいいんだ。犬よりもね」
「俺は犬じゃない」
イライアスがすかさず言った。テイドは肩をすくめて続ける。
「そうだね、偉大なウォー家の狼だ。犬より鼻はいいのかもしれない。だけど俺も今回初めて知ったけど、どうやら熊よりはほんの少し劣るみたいだ」
「一度だけの事じゃ分からない。何度か実験してみないと。俺がビーの匂いに気づかないわけがないから、その日は鼻が詰まっていたのかもしれないし」
「どうでもいいところで負けず嫌いを出さないで。話が逸れるわ」
私は二人の会話に割って入ってイライアスをなだめた。テイドはそこでハッとしてこちらに向き直り、言う。
「そう言えば、ちゃんとお礼を言っていませんでした。ベアトリス様、この靴下を俺に下さってありがとうございます。これまで、俺が自分の足の事でどれだけ悩んでいたか……。この靴下にあなたがかけてくださった魔術は、俺にとっては天の救いのようなもの。そしてあなたは、今では俺にとって神のような存在なんです」
「大げさよ」
「だけど本当にそう思っているんです」
テイドは、私に忠実なヴァイオレットと同じような目をしてこちらを見た。
神だなんて思われるのは重圧を感じるが、テイドの期待を裏切らないようにと気持ちを引き締める事もできる。
「けれど私が靴下を贈ったのだと気づいた原因が匂いなら、チーナの方は大丈夫よね? チーナにあげたのは小さなピアスだし、布じゃないから匂いが残りにくいでしょう?」
「そうだな。実際、チーナは『俺の父親の知り合いの魔術師から』という俺の言葉を素直に信じたようだったし、ビーの事を疑っている様子はない」
私の言葉にはイライアスが答えた。
私は安心して頷くと、テイドの足元を見ながら言う。
「もうバレてしまったからあなたに直接訊くけど、その靴下、毎日履いていたらすぐに傷んでしまうでしょう? 洗濯だって追いつかないだろうし」
「そうですね……。今朝も生乾きのまま履いてきました」
テイドは眉を下げて笑った。
私は続ける。
「それでちょっと考えたんだけど、アンクレットのようなものに魔術をかけるのはどうかと思っていたの。だけど一つ問題があって、アンクレットって女の子がつけるようなものなら繊細で可愛らしいものもあるんだけど、大柄なテイドがつけていて不自然でないものとなるとなかなか無くて……。いくつか見つけたものは、シンプルな細い金属の輪っかのものばかりなの」
「それの何が問題なんだ?」
イライアスが不思議そうに言い、テイドも私が何を言いたいのか分からない様子だ。
「だってそういうものって、足輪を連想するかなと思ったのよ。特にテイドは両足それぞれにつけないといけないわけだし。もちろん見つけたアンクレットは足輪にしては細すぎるし、鎖がついているわけじゃないけど。でも過去には、奴隷だった獣人が足輪で両足を繋がれるような事もあったわけで……」
「ビー、気にし過ぎた」
「そうですよ。俺が嫌がるかもと思ってくださっているなら全然平気です」
イライアスが言い、テイドも笑って頷く。そして何気なく爆弾発言をした。
「それにベアトリス様がくれるというなら、鎖のついた足輪だって喜んでつけます」
どう返せばいいのか分からずに固まっていると、狼姿のイライアスが近寄ってきて私の手のひらに鼻を擦り付けた。
「ビー、俺にも何かくれ。テイドは足輪を、チーナはピアスを、そしてビーの家の犬は首輪を貰えるのに、俺だけ何も貰えないのは不公平だ。恋人なのに」
「テイドにあげるのは足輪じゃなくてアンクレットだから! というか足輪や首輪を貰える事を羨ましがるのはおかしいわよ」
そう言ってから、ため息をついてほほ笑み、続ける。
「でも、そうね。イライアスにも何かプレゼントを贈るわ。何がいい?」
「ずっと身につけていられるものなら何でもいい」
「分かったわ。だったら私に繋ぐ手枷の代わりに、ブレスレットをあげる。私の瞳と同じ紫色の石がついたものを」
私はイライアスのふかふかの頭を撫でながら言った。手枷は冗談なのだが、イライアスは嬉しそうだ。
「ベアトリス様って、笑うんだ……」
そして、何かを企んでいるかのような悪い笑みではなく、穏やかににっこり笑った私の顔を見て、テイドは驚いたように呟いたのだった。私ってほんと、周りからどう見られているんだか。