エピローグ
その日、離宮の広間で国の英雄たちが一堂に会した。
青と白の幕がいくつも高い天井から垂れて、頭上から乙女たちが祝福の花びらを絶えず降らせる。それらが日差しに白く光って眩しい。
王から勲章を授与されている人々の姿はもっと輝かしい。
私は広間の真ん中よりも後方から、身を乗り出して友人たちや家族の背中に、割れんばかりの拍手を送った。もしカメラがあったら、式のはじめから終わりまで連写してるのに。
大陸に危機を招いた存在として、ルクスさん同様に咎を負わなければならないはずだった身で、皆の晴れ姿を拝むことができたのは幸運だ。
皆がそれぞれの才能を如何なく発揮してくれたおかげで、この平和な瞬間が守られたのだ。自分が勲章を受けるよりも、ずっとずっと誇らしい。
たっぷり時間をかけて、大勢の功労者に王の言葉と褒美が直接、手渡された。私はそれが全部終わるまで、手の感覚がわからなくなっても、称賛と感謝の拍手を送り続けた。
「――この度は皆、よくぞ働いてくれた」
すべての表彰が終わると、王の声が広間に響き渡った。たくさんの人が広間に詰める中、彼はその穏やかな眼差しで、一人一人と目を合わせるように話す。
「我が国へ素晴らしい臣を授けたもうた天空神の恩恵に感謝する。また、この場で栄誉を受くことがなかった者も、その尽力を等しく称えよう」
王はそう言うが、私は彼の称える者の中に自分が入るとは決して思わない。責められることこそあれ、褒めてもらえるようなことは何もできていないのだから。
するとその時、王は確かに私を見つめて、微笑んだ。
「さあ、もう良い頃合いだろう。皆の栄誉を称え、今日は大いに飲み大いに食そう」
それを合図に、次々テーブルと料理が運ばれてきて、お腹を空かせた英雄たちが盛大に歓声を上げる。楽団が演奏を始め、見物人の隊列もばらばらになって、祝勝の立食パーティへあっという間に移行した。
混雑する前に一声でもかけようと思い、さっそく今日の主役たちのもとへ行こうとすると途端に目が合う。
彼らと話したい人は他にいっぱいいただろうに、真っ先にこちらへ、クリフとメリーとマティが人の隙間を抜けてやって来る。なんでだかはわからなかったが、ともかく私は笑顔全開で彼らを迎えた。
「三人ともおめでとう!」
ポケットから、さっきメイドさんたちから分けてもらった花びらを掴んで、友人たちの眼前に振りまいた。もちろん百パーセント祝福の気持ちなんだけど、クリフにはちょうど顔面に塊が当たってしまってめっちゃ睨まれる。ごめんて。
「ちょっとやめなさいよ。もう十分花まみれなのよ、これ以上はいらないわ」
メリーも長い髪についた花をさっさと払う。彼女の銀髪に映えてけっこう良かったんだけどな。
「ごめんごめん。三人ともかっこよかったよ! すごい大活躍だったんだってね?」
「僕はメリーにくっ付いてただけなんだけどね・・・」
「またマティはそういう。戦場でも色んな魔法を創って活躍したんでしょ? マティの防御壁はガレシュでも使わせてもらったし、大変お世話になりました」
心からの感謝を込めて言うと、マティはもともと弱った様子だったのが、さらに慌てたように両手を振った。
「そんな、あれだって君に教えてもらったことを元に考えたものだものっ。僕のほうがお礼を言いたいよっ」
「違うよ。一から十まで全部マティの功績だ。君がいたから、メリーも伝説の魔法使い再来! なんて言われるようになったわけでしょ?」
「それやめて!?」
メリーは耳を押さえて、恥ずかしそうに、あるいは気まずそうに唸る。
「知らない人は気楽よね。もー、ほんと怖くて仕方なかったんだからっ。二度と戦場に行くのなんか嫌よ。クリフォードに脅されたって次は絶対行かない」
「え、なにクリフ脅したの?」
「人聞きの悪いことを言うな。力を持つ者として当然の責務を示したまでだ」
クリフは毅然とした態度を崩さない。メリーの大活躍の裏には、クリフの叱咤とマティの支えがあったわけだ。なんだかんだで良いチームだよな、この三人は。
「クリフがルクスさんを捕まえてくれたんだよね? どうか私からもお礼を言わせて」
少しばかり真面目な顔で言ったら、クリフはかすかに目をすがめた。
「ルクスさんに敵う魔法使いなんて、そうそういないと思う。君が優秀で本当に助かった。じゃなきゃ、大陸はまた危機に陥っていたかもしれない。この勲章は、これまでの君の努力に報いる正当な評価だね」
彼の左胸を飾る、一等星の光を模したエンブレムを指す。国章でもある光の図の中央に、クリスタルが付けられて、夜空に燦然と在る星の輝きを示していた。
「今なら君に跪けるよ」
彼の磨き上げられた才能と、気高い意志に敬意を表して。
しかし、クリフはとても不機嫌そうに顔をしかめた。
「いらん。・・・非常に口惜しいが、これは私一人が受けるべき栄誉ではない」
そう言うや否や私の手を掴み、勲章からクリスタルを外して乗せた。
続けてメリーもマティも同様のことをする。三人の胸を飾っていた輝きが今や両手の上にあり、私は困惑するしかなかった。
「え・・・っと、どういうこと?」
「お前が作った道具や魔法が、我らに功を立てさせたのだ。ならば我らの栄誉はお前にも与えられねばならない」
びっくりし過ぎて、咄嗟の言葉に詰まってしまった。
「・・・いや、普通に全部クリフたちの手柄だと思うよ? 私は何もしてないよ」
「つべこべ言わずに受け取りなさい。いい? くれぐれも私たちに返して恥をかかせないように」
「そうだよエメ。じゃないと、僕らは陛下へ勲章をお返ししなくちゃならなくなる。どうか諦めて」
・・・頑固だなあ。
自分のことをもっと誇ってくれていいのに。
本当は受け取れない。でも、この手の中にある輝きが彼らの友情を表しているのだとすれば、突き返すことはできなかった。
「・・・ありがとう」
クリスタルを確かに握りしめ、私は深く、三人に頭を下げた。
すると、クリフにはふんと軽く鼻を鳴らされる。
「あの飛行用魔道具について改善要求が十五点ある。覚悟しておけ」
「はいはい、いつでもお待ちしてます。開発協力ありがとう」
クリフはローブを翻して行ってしまい、マティとメリーも「それじゃあ後で」と、他への挨拶へ向かった。
クリスタルは失くさないように懐にしまう。他にも話しておきたい人を探して、会場をうろついていると今度は青い瞳と目が合った。
「エメ」
私に気づいたアレクが、誰かとの会話を中断して手招きしている。邪魔しちゃったか? と思ったが、話し相手はレナード宰相で、傍にもロックいるだけだったから、じゃあいいやと思い直して寄っていく。
王も王子も、奥の自分の席にはつかずに自由に話して回っているらしい。
「やあエメ。食べたいものは食べられているかい?」
レナード宰相が麦酒のジョッキを片手に朗らかに訊いてくる。
「いえ、まだ」
「それはいけない。大いに飲み、大いに食べよと陛下がおっしゃったのだから、そうせねばならないよ。何か取って来てあげよう」
単にそんなにお腹が空いていないだけなんだが、レナード宰相は行ってしまわれた。もしかして気を使われたのかな。
改めてアレクに向き直る。
「今回のこと、ありがとね」
まずは先にお礼を言っておく。
「私が何かしたか?」
アレクはとぼけたような顔だ。何かしたって、彼が最も忙しく活躍してくれていただろうに。
「君に一番感謝したいのは、私を称えないでくれたこと。あと、ルクスさんとの面会許可を出してくれたことにも感謝してる」
「それは君の命がけの功績を考慮して、公正に決められた結果だ。私が礼を言われることではないよ」
「言わせてよ。私のお願いを聞いてくれたのは君なんだからさ」
ここも花をまき散らしたいところだけど、残念、さっき無計画に全部まいちゃった。
「約束通り、戦争にもしないでくれたしね。そういえば、ロックがガレシュ王を捕まえたんだっけ? いいご褒美もらえた?」
「あれは殿下の魔法があってこそのものだ。働きに過ぎたる褒賞は必要ない」
いわば総大将の首を取ったようなもんだっていうのに、ロックはちっとも驕らない。アレクもそんな様子には苦笑していた。
「この一点張りで、なかなか受け取ろうとしないんだ。かえって困っている」
「頭が固い部下を持つと変な苦労するねえ。カルロさんみたいに調子よくなんでももらっちゃえばいいのに」
「馬鹿を言うな」
それは暗にカルロさんのことも馬鹿と言っているんだろうか。いやでも、彼もすっごい活躍したんだよ今回は。少しはしゃぐくらい許してあげようよ。
「本当は君にも、正式な形で報いたいのだがな」
気づけばアレクは私のほうを見ていた。でもそんなことこそ、必要ない。
危機を招いた責めは被害を食い止めたことでなんとか相殺され、ルクスさんの様子をきちんと観察・報告するという名目で彼との面会権も得られた。これ以上を望んだらバチが当たる。
「アレクにはたくさん願いを叶えてもらってるよ。それに栄誉ならクリフとメリーとマティが分けてくれた」
さっきもらったばかりの宝物を、アレクたちにも見せる。
「幾千万の称賛を浴びるよりも、私はあの三人にこれをもらえたことのほうが誇りに思えるよ」
「確かに」
アレクはいつもの通り、柔らかい微笑みで肯定してくれた。
そうして話しているうちに、BGMの曲が一つ終わって別のものに変わる。なんだか聞き覚えのある曲だ。記憶を探っていると、中央のスペースに人々がぱらぱら出てきて、男女二人組でステップを踏み始めた。
ああそうだ、これ舞曲だ。魔法学校の新年会で聞いたことがあったんだ。
「ねえ。この曲、アレクと一緒に踊ったやつだよね?」
そんなことも思い出した。はじめての新年会の時、ステップなんかわからなかったのに、アレクがうまくリードしてくれて、奇跡的に彼の足を踏まずに踊りきれたっけ。
「懐かしいな」
私と同じように踊る人たちを眺めて、アレクもまた思い出してくれたらしい。
「ねー。もう六年くらい前になる? 完全にステップ忘れちゃったよ」
「なら、もう一度教えようか?」
手を差し出された。
隣を見上げると、アレクは静かに微笑み待っている。
私は差し出された手に目を戻して――首を横に振った。
「ごめん。遠慮するよ」
「そうか」
アレクは頷き、手を引いた。まるで私の返事が最初からわかっていたみたいに、様子は変わらない。何もかも彼には見透かされている気がする。でもそれが嫌ではなかった。
「――君の人生に最良なものは、きっと君自身が知っている。私はその選択を信じるよ」
「うん。ありがとう」
大樹のように悠然と、枝に集まる小鳥たちを等しく見守っている、彼はそんな人だから。
私も安心して、感謝を伝えることができた。
**
「エメーっ!」
結局レナード宰相を待たずにアレクと別れて、そろそろ何か食べてみようかなんて思っていると、うるさい声が聞こえてくる。まったくもう。
「止まれっ」
見返りざまに、ばたばた走り来る子供に指を突き付けると、モモはその場に急停止する。
「気をつけ」
両手を体の脇にしっかり付けた。なんだこれ。おもしろいくらい言うこと聞く。
「騒がない、走らない。ここはどこだっけ?」
「お、王宮です」
「しかも王族もいらっしゃる公の場です。いずれモモもここに勤めるようになるんだから、それなりの振る舞いを心がけるように」
なんて、王子にもタメ口利いてる私が偉そうに言えた義理じゃないし、この会自体も色んな身分の人がいる比較的砕けた場だったりする。よって普段ならここで鋭い突っ込みが来るところなのだが、はじめて王宮に入れた子供はかなり緊張していたらしい。両手で口を塞いでこくこく頷いていた。いつもこのくらい素直ならいいのに。
ジル姉もリル姉も私も、宴にお呼ばれしてご馳走を食べるのに、モモだけ置いてけぼりは可哀相だったので、レナード宰相に頼み込んで入れてもらったのである。留守を立派に守ってくれた彼女にも、ご褒美はあって然るべきだ。
「ジル姉たちはどうしたの?」
「あそこにいるぞ。なんか話し込んでたけど――あ、終わったっぽい」
見れば相手は兵士の誰かだったようだが、ひと区切りついたらしく、去って行った。私はやっと家族に合流する。
「ジル姉、リル姉、お疲れー。そしておめでとう」
「なんだ、どこにいたんだ」
「探してたのよ? ちゃんと食べられてる? 何か取りましょうか?」
「大丈夫大丈夫。自分でやるよ」
リル姉、リオを抱っこしている状態で私の食事を世話するのは、いくらなんでも無理でしょう。
よほどお母さんと離れていた間が寂しかったのか、リオはすっかり赤ちゃん返り(まだ二歳ではあるが)してしまい、リル姉にべったり引っ付いてる。表彰式の時はぐずるから、別室でメイドさんたちにあやしてもらっていたらしい。今は疲れたのか、うつらうつらして私の存在にも気づいてない。たぶんもうすぐ完全に寝入る。
私設の医療団を引き連れて戦場に行ったリル姉も、その功績を称えて勲章を授与された。元兵士として無双の働きをしたジル姉も同様だ。
ガレシュから帰還し、姉たちがそんなことをしていたのを知った時は度肝を抜かれたが、この働き者たちなら、まあ当然の行動だったんだろう。危ない真似はしないでほしい、と敵の本拠地にいた私が説教しても効果ないんだろうし、何も言えない。
二人とも怪我なく無事に帰って来てくれたから、すべて良しとする。
「そら食え」
無造作に、ジル姉が肉だのなんだのを乱雑に積み上げた皿を寄越してきた。ジル姉の胃袋を基準にした普通盛りだこれ。
「こんなに食べられないよ」
「遠慮するな。お前が最大の功労者だろうが」
口の片端を吊り上げて、ジル姉は冗談っぽく言ってきた。ジョッキを片手に持ってるから、少し酒が入ってる。
「そんなわけないでしょ。何もかもジル姉たちががんばってくれたおかげだよ」
「あなたがそれしか言わないから、私たちもあなたのおかげよって何度も言いたくなるの」
リル姉もリオの背を優しく叩きながら言い添えた。まったく、誰も彼も同じことばかり言ってくれるもんだ。
「もういいよ。ここに私を認めてくれてる人たちがいるってことは、ちゃんとわかったから」
十分、思い知らされた。私はそれで満足だ。
「モモ、これ一緒に食べよ」
「けっこーお腹いっぱいなんだけど」
「じゃあリル姉」
「はいはい」
リオを抱いて手があかないリル姉のためにフォークで食べさせてあげたり、色んなものつまんでお酒も酔わない程度に少しもらったりしていたら、だんだん暑くなってきた。
皆も酔いが回ってきて、会場自体の熱気が増しているせいでもあるだろう。
しかし、いくら砕けた雰囲気でもこの場でローブを脱いだり襟元を乱すのはあまりよろしくない。
「ちょっと風に当たってくるよ」
リル姉たちに断って、会場の外に出る。扉を閉めると賑やかな音は少し遠くなった。ちょうどテラスがあったので、ガラス戸を押し開けそこで少し休憩する。
白い手すりを掴んで、見上げた先には今日も平和に青い天がある。
私がそこに送り返した魔法は届いたのだろうか。そもそも『送り返した』という表現は正しいのだろうか。転生の謎はなんとなくわかったような気もするが、魔法とは何か、魔石とは何か、そして、はじめにミトアの民へ魔法を授けた神とは真に存在するのか、世界の謎は未だ深きに横たわる。
いつ終わるともわからない残りの人生で、果たして私はどこまで解明していけるだろう。
「――エメっ!」
不意に視界が高くなった。
後ろから腰の辺りを持たれ、危うく手すりを越えて庭に落ちかける。一階だから落ちたって死にはしないが、いきなり抱き上げられれば普通にびびる。
私は上半身をどうにか捻り、薄茶色の頭を鷲掴んだ。
「・・・ギート、降ろしてくれない?」
「へぇへぇ」
ところが、降ろされたのは手すりの上だ。そこに座らされた。
足は床に付かず、降りようと思ってもギートの体が近い。彼の両腕が私を間に挟み、手すりを掴んでいる形。つまりは、捕獲された格好だ。
「君、酔ってるの?」
「少しな。こんなうまい酒、酔うまで飲まなきゃもったいねえよ」
「やー、酔っ払いには絡まれたくないなあ」
「安心しろ。まだ正気だ」
「それならそれで怖いけど」
やや赤みを帯びた頬に触れてみると、私の手よりも若干熱い。まあ、この程度じゃまだ余裕ってところだろう。体育会系の職場にいるだけあって、ギートはなかなかの酒豪だ。
それでも飲めばいくらか陽気になるようで、これまで見たこともないくらい全開の笑みを広げている。新しい左目をまだ作ってあげられてないから、眼帯で顔は半分隠れているが、すっごい幸せそうなのは伝わってくる。
視線を落とせば、彼の左胸にもまた勲章が輝いている。私のことでも他のことでも、今までたくさん苦労してきたからなあ、嬉しさがひとしおなんだろう。
「ねえギート、私の予言は当たったでしょ?」
とりあえず何かされる前に言っておく。ギートは右の眉をひそめた。
「あ?」
「君に初めて会った時、いつか私を助けたことで君は勲章をもらえるかもしれないって言ったでしょ。見事にその通りになったよね」
ちょっと想定とは違う形にはなったけど。ミトアの民の計算式には、こんな未来まで含まれていたんだろうか。
「――ああ、お前のおかげだよ」
するとギートは、にやりと笑んだ。
「おかげで金に、名誉に、美酒も手に入って、あとは美女から祝福のキスでももらえりゃあ、男の夢が全部叶えられると思わねえ?」
・・・もしかしてギート、前に闘技大会でキスしてもらえなかったこと、根に持ってたのか? もちろん彼は将軍に負けたんだから、してあげる義理はなかったわけだが。
別に今はしてあげてもいいけど、どうしようかな。なにせ、私はまだ彼の口から肝心なことを聞いてないからな。
「会場にも美女はたくさんいたのに、私でいいの?」
「我慢してやるよ。お前、俺のこと好きなんだろ?」
あー・・・完全に調子に乗ってやがるな、こいつ。
言質でも取った気でいるのだろうか。ここで折れるのは今後のためにも絶対に良くない。
忘れているなら、思い出させてあげよう。私に喧嘩を売ったらどうなるかってことを。
「いやー、それはさすがに申し訳なくてできないよ」
さりげなく自分の口元に手を当ててガードし、わざと困った顔をしてみせる。ギートは当然、怪訝な顔だ。
「なにが」
「だって祝福のキスって口にするんでしょ? さすがにねえ、ギートにはこれまでたくさん迷惑かけてきちゃったし、君に嫌がられることはしたくないんだよね」
「は? 俺はそんなこと」
「だって君、私のこと好きとは一言も言ってくれてないもんね」
「なっ・・・」
これまたわざとらしく溜め息を吐いてみせる。
「昔、顔を近づけただけで突き飛ばされたこともあったしね。私を好きでもない人に無理やりキスなんてできないよ。私は君のこと大好きだからキスしたくてたまらないけど、君は私のこと好きじゃないもんね。残念だなあ。君が私を好きでいてくれたなら、いくらでもキスしてあげたいのに」
「っ・・・あ、のなあっ」
小刻みに肩を震わせ、ギートは絞り出すような呻きを漏らした。
「お前っ、今までさんっっざん人のことかわしておきながらっ、いきなり告白してくるわしかも人の返事は遮るわっ、なのにこの期に及んでこっぱずかしい台詞を言えっつーのかよ!?」
あはは、すっごい真っ赤になって怒ってる。愉快。
「笑ってんなよ!?」
「ごめんごめん。でもさ、ギート。ただ思っていることと、それを言葉にすることとの間には大きな隔たりがあるんだよ?」
今度は笑みを控えて話す。
「それを乗り越えることに私は意義があると思う。君がまだ言葉にできないなら、今は放してほしいかな」
そっと肩を押す。
これで離れるなら、しばらく時を待つしかない。――と思ったら、二本の腕は力強く、また私を抱き上げた。
ギートは歯噛みし、しばらく葛藤していたみたいだったが、やがてそれを開く。
「・・・好きだからやらせろ」
「下品! もう一回!」
「ちゃんと言っただろうがよ!?」
「変な言い回ししないでよ」
「もうめんどくせえよお前っ!!」
彼なりに頑張ってくれたのはわかるが、それでもあんまりな時は私だってリテイクを要求したい。羞恥の限界で涙目にも見えるギートの両頬を包んで、顔を寸前まで近づけた。
「お願い、ギート。一回でいいから、聞かせて?」
額を当てると彼の熱がもっと伝わり、とても温かく、心地良くて、目を閉じればうっかり眠ってしまいそうだった。
だけどしばらくすると離れて、私は手すりに座らされた。最初の体勢に戻り、ギートの様子が正面からよく見渡せる。
彼は長くうつ向いていたかと思うと、やがて真剣な顔を上げた。
「・・・好きだ、から、ここにいろ。お前は、ここにいろ」
それは告白というよりも、まるで懇願のようで。
彼が強調する、《ここ》というのは、彼の腕の中のことか、あるいはもっと広く、家族と友人たちがいるこの世界、《エメ》の生まれた大地のことを指しているのか。
あの時、ギートが私を白い世界から引き戻してくれた。それだけは曖昧な記憶ではなく、確かな実感として全身が覚えてる。
異次元にでもふらふら行っちゃう私を見つけて捕まえて、必ず家へ帰してくれるのは、これからもきっと、この両手なんだろう。
「――いるよ。次に死ぬまで、私は君とこの世界で生きる」
もう少し悶えさせて遊んでも良かったけど、今日のところはこの辺で勘弁してあげよう。
ちょっとだけ、思っていたよりも、嬉しい気持ちになれたから。
私は手を伸ばし、目を閉じた。
この身に求められていた役割が終わったのならば、ここからまた始めよう。
私の使命はすでに決めてある。生まれたこの場所で、今度こそ、まさしく一片の悔いもないよう自分にできるすべてのことを成し遂げるのだ。
どこの世界に在ろうが同じ。
長く険しい旅路の最後まで、たゆまぬ歩みで生きていこう。




