第2話 第一外語
ガラガラッ!と音を立てて教室のドアを開き、渚は恐る恐る教室の中を覗き込んだ。
2‐Aの時ほどではないが、それなりの数の視線が渚に突き刺さる。
「おーい、なっちゃーん!こっち、こっちー!」
渚が知り合いは居ないかと教室の中を見回していると、妹を除けば一番親しい異性である幼馴染の美咲が、窓側の列の最後尾という一部の生徒にとってはベストポジションである席に座り、彼女しか使わない渚の渾名を大声で呼びつつ手を振っているのが目に飛び込んで来た。
「……美咲。いい加減『なっちゃん』は勘弁してくれ」
渚は全力で他人のフリをしたかったのだが、既に美咲の隣しか席が空いていないようなので、大人しく唯一の空席に座ることにした。
「えぇー?でも、なっちゃんはなっちゃんじゃん!私は一生なっちゃんのことはなっちゃんと呼び続けると、あの日の夕日に誓ったんだよ!」
「呼ぶなと言った瞬間に4連続で言いやがって、覚悟は出来てんだろうな?」
夕日云々の件は突っ込むのも面倒だったのでスルーしつつ、いつものお仕置き(擽り地獄)をしようと手をワキワキさせて近付く。
「だ、駄目だよなっちゃん。みんなが見てる……」
すると美咲は両手で自分の体を抱きしめながら、先程とは打って変わって弱弱しい声でとんでもないことを言い出した。
「おま……意味深なセリフをぶっこいてんじゃねぇよ!俺を社会的に殺す気か?」
「ハイハイッ!夫婦漫才はそこまで。ホームルームを始めるわよ?」
渚がこれ以上美咲がアホなことを口走らないように無理矢理にでも口を塞ごうと思った矢先、黒板の方から女性の声が聞こえて来た。
「誰と誰が夫婦だぁ!?」
渚が声のした方に反射的に突っ込みつつ顔を向けると、いつの間にか教室に入って来ていた望が教卓に立っていた。
「はーい!」
美咲は元気良く返事をしながら、何事も無かったかのように正面に向き直った。
「……はい、すいません」
渚は美咲の悪ふざけのせいで望に注意されてしまったことを口惜しく思いながらも、これ以上の醜態を晒すのだけは避けようと、大人しく席に着くことにした。
「皆さん、初めまして。私は2‐Jの副担任になりました牧島望です。3月に大学を卒業したばかりの新米なので、きっと至らない所ばかりだと思います。なので、気付いたことがあったら遠慮なく言って下さい」
「はいはーい!せんせーしつもーん!のぞみんが副担任なら、担任は誰なんですかー?てゆーか、何でいないのー?」
誰もが聞きたかったことを質問したのは、渚の隣に座っている美咲だった。
しかも勝手に『のぞみん』などという『なっちゃん』と同レベルの安易な渾名まで付けているおまけ付き。
「2‐Jの担任の先生は鈴木先生っていう男の先生よ。今日は急病でいらっしゃらないけど、明日には会えると思うわ」
「鈴木先生……リンリンだね?」
「ふふっ、良いんじゃないかしら?鈴木先生も喜ぶと思うわよ?」
(おいおい望先生、美咲を煽るような発言は控えてくれよ?これでもし担任がゴツイおっさんだったりしたら、シュール過ぎんだろ……)
渚は未だ見ぬ担任の姿に戦々恐々としていた。
「今日の予定は、各教室を回って今年度使う教科書を受け取ることだけなんだけど、2‐Aが8:45から受け取り開始で、そこからBCDEFGHIと来て、私たちは最後のJだから、当分時間があるわ。それまでにみんなの自己紹介と出来れば委員会のメンバーも決めちゃいましょう。それじゃー、窓側の列の前の人から順番にお願い」
望は練習でもしていたのか全く閊えることなく生徒に指示を出し、生徒はそれに従って次々と簡単な自己紹介をして行った。
「松岡美咲です。身長158cm、体重は内緒。3サイズは企業秘密。好きな人は国家機密!特技は猫さんとお喋りすることです。通訳してあげるから、気になる猫がいる人は私のところに遠慮なく来てね?」
(体重やら3サイズやらは兎も角、最後の猫とお喋りってのは何だ?何故誰も突っ込まない?)
美咲のアホっぽい自己紹介に頭を抱えつつ、渚は自分の番が来るのを大人しく待ち続けた。
「新堂渚です。渾名は『なっちゃん』以外なら大抵の物を受け入れられると思いま「えぇー!なっちゃんって渾名、なっちゃんにピッタリだと思うのにー」す。……誰でも良いので他のを考えて下さいマジでお願いします」
渚は途中で美咲に口を挟まれ、後半死んだ魚のような目をしつつも何とか無難(?)に自己紹介を終えた。
「……です。よろしくお願いします」
「はい、みんなありがとう。早くみんなの顔と名前を覚えられるように頑張るから、これから1年間よろしくね」
その後も自己紹介は続いて行き、40人目の生徒が自己紹介を終えたところで、望先生が締め括った。
「さてと、まだまだ時間は余ってるし、次は委員会のメンバーを決めちゃおうか?立候補したい人は手を上げて?」
その声に数人が即座に手を上げ、少しずつ決まって行く。
この学校は必ずどこかの委員会に所属しなければならないので、少しでも楽そうな委員会に所属しておこうという魂胆なのだろう。
この場に於いては「余り物には福がある」などという言葉は当て嵌まらない。
残り物は相応に面倒な仕事に決まっているのだ。
渚は残っている中で、出来るだけ楽そうで、且つ所属人数が多い委員会を吟味した結果『文化祭実行委員』に立候補した。
文化祭実行委員は男女3名ずつと他と比べて枠が多い上に、1年間の間の1ヶ月くらいしか仕事がないので楽そうだと判断したのだ。
体育祭実行委員も同じ人数だったが、名前からして肉体労働の香りがプンプンするので最優先で除外した。
「なっちゃんは文化祭実行委員かぁ……じゃー私もそれにしよっと。はーい!私もなっちゃんと同じ文化祭実行委員にりっこーほしまーす!」
(ふむ、早くも6人中2人が戦力外確定か……)
勝手に美咲を戦力外扱いしているばかりか、自分のこともさり気なく戦力外扱いして他のメンバーに仕事を丸投げする気満々な渚であった。
「……はぁ、美咲のお守りを新堂くんだけに任せるのも悪いし、私も立候補するわ」
渚が今年の文化祭の行く末に不安を抱き始めた矢先、美咲の前の席に座っている女子生徒が続いて立候補した。
「委員長が参加してくれるなら今年の文化祭も安泰だな」
委員長もとい黒澤愛は去年も渚や美咲と同じクラスに所属しており、クラス委員長を勤めていた少女だ。
去年の文化祭では、彼女自身は実行委員ではないにも関わらず、意見が纏まらずにぐだぐだな会議を見事に取り纏め、その後も文化祭当日まで獅子奮迅の活躍をしたのは記憶に新しい。
彼女が1人いるだけで、メンバー6人分以上の働きを期待出来る。
まぁ本当に仕事を全部彼女に丸投げする訳にはいかないので、せめて0.5人分くらいは頑張ろうと思う渚であった。
その後、残りの男子2名と女子1名も恙なく決まり、文化祭実行委員のメンバーが確定した。
「失礼しまーす。2‐Iの教科書の受け取りが始まったので、2‐Jも準備して下さーい」
2‐I所属と思しき女生徒は、連絡事項を伝えるや否や、足早に廊下を行ってしまった。
「委員会も無事に決まったし、丁度良いタイミングだったわね。それじゃーみんな、廊下出て2列に並んで」
渚たちはゾロゾロと望の指示に従って廊下に並び始めた。
1年次も2年次も1クラスの所属人数は40名ずつなので、必然的に引き続き同じクラスに所属することになるのは4名前後ということになり、大体みんなその面子で固まって並んでいるようだった。
渚たちで言えば、渚と美咲と愛、そして最後の1人は……
「よう、新堂!2‐Jとはお互い災難だったな?まぁ、また1年間よろしく頼むわ!」
渚の肩に腕を回しつつ少年、徳川御門は豪快に笑った。
災難と言ってはいるものの、とてもそう思っている態度には見えない。
「御門は相変わらずだな?先祖が聞いたら泣くぞ?」
こう見えて御門は第何代目だかの徳川家の子孫だったりする。
去年それを知った時に「名前に『家』が付いて無くて良いのか?」と聞いたら「今時『家○』とかねーよ!歴史がある分、ある意味DQNネームより性質が悪いわ!」とキレられた。
一度は天下を取った血筋だというのに、今では高校の最底辺クラスの生徒とは涙が止まらない。
「評価の基準は軍が決めてるんだし、しょーがねーさ。俺の力の真骨頂はそこには無いしな!」
(……軍?今こいつ、『軍』って言ったのか?日本に軍隊はないだろう。せめて自衛隊と言えよ。いや、それだって妙な話だ。何で高校生の成績を自衛隊が決めるんだよ?)
「そろそろ出発するわよ。最初は物理室だから、みんなちゃんと付いて来てね?」
渚が御門に聞き返そうと思った矢先に望の号令が掛かってしまい、タイミングを逸してしまった。
(まぁ単なる俺の聞き間違いかもしれないし、別に急がなくても良いか)
渚は列を乱さないように、私語を謹んで歩き始めた。
数十分掛けて渚たちは数ヶ所の教室を巡り、各科目の教科書を受け取った。
「全員教科書を受け取り終えましたか?もう一度、最初に受け取った各科目のリストと見比べて過不足が無いか再確認して下さい。後日やっぱり足りないとか言っても、紛失と見做されて有料で購入することになりますから、気を付けて下さいね?」
望が再確認を進めているが、渚には全く届いていなかった。
(独語ってドイツ語のことだよな?何で必修科目なんだ?そして英語はどこに行ったんだ?)
渚はキョロキョロと周りを見渡すが、誰一人疑問に思っている様子は見られない。
今日は朝から何かがおかしい。
妹は朝起こしてくれないし、自分は確かに2‐Aだった筈なのに、何故か2‐Jになっている所属クラス。
仕舞いには必修科目が英語から独語になっている始末だ。
渚の寝不足の頭は既にオーバーヒート寸前である。
渚はこれ以上考えるのを止め、リスト通りの物が有るか否かだけを確認して早々に教室に戻って行った。
「今日受け取った教科書は3日後の木曜日からの通常授業で使用します。今から2‐Jの時間割表を配るから、持って来るの忘れちゃ駄目よ?」
望はそう言って各列の一番前の席の生徒に数枚ずつ時間割が書かれたプリントを渡して行った。
各々1枚ずつ抜き取り、残りを後ろの席の者に渡して行く。
渚も前の席に座っている女子からプリントを受け取り、そこに『独語』の文字が書かれていることを発見してしまい、思わず、はぁ……と嘆息した。
「ご、ごめんなさい。何か気に障りましたか?」
「……えっ?あーいやいや、今の溜息はあくまでも俺個人の都合で、君には何の落ち度もないから全然気にしないで。こっちこそ誤解させるようなことしちゃってゴメン」
どーやら少女は自分に何か落ち度があった為に、渚が溜息を付いたのだと勘違いしたようで、渚に向かって平謝りして来た。
「……そうなんですか?てっきり、私が何か粗相をしてしまったのかと思って焦っちゃいました。でも、もし何か困ったことがあるなら相談して下さいね?私で良ければ出来る限り力になりますから」
「うん、ありがとう。その時はお言葉に甘えさせて貰うよ」
「あー!なっちゃんが女の子をナンパしてるー!」
誤解が解けたことに安堵したのも束の間、渚と少女の会話を遮るように、美咲が口を挟んで来た。
「……美咲よ。今の会話の何処がナンパなんだ?」
「自然な会話を装ってたって私にはお見通しなんだから!だって、なっちゃんの目が鼠を狙う猫の目をしていたんだよ!」
(それどんな目だよ?たぶん獲物を狙っている的な意味なんだろうけど、鼠と猫に例える意味が分からない)
「俺は兎も角、彼女までお前の妄想に巻き込むな。迷惑だろ!」
(彼女の被害も勿論だが、何よりも彼女に彼氏がいたりしたら『俺』に被害が来るじゃねーか!)
渚はこれ以上美咲が妙なことを言い出さないように、厳重注意をした。
「あら、ナンパではなかったのですか?折角みんなに自慢出来るかと思いましたのに」
少女は美咲の妄言に乗っかり、口に手を当ててクスクスと笑いながら渚をからかった。
「あわわっ……これは脈アリだよ!どーするの、なっちゃん?ゆーちゃんと付き合うの?」
「……『ゆーちゃん』?」
渚は首を傾げつつ美咲を見つめた。
「和泉裕子だから、ゆーちゃん。ついさっき自己紹介したばっかりなのに、まったくもう、なっちゃんは忘れっぽいなぁ!」
(こいつ、さっきの自己紹介で全員の顔と名前を覚えたってのか?なんて無駄なスキルだ……)
「ゆーちゃんですか。とってもかわいい渾名ですね。私、気に入っちゃいました。良かったら、なっちゃんさんもこれからは私のことは、ゆーちゃんと呼んで下さい」
「男の俺が女子をちゃん付けで呼ぶのはハードルが高過ぎる。せめて『和泉』辺りで許してくれ。あと、俺の名前は新堂渚だ。なっちゃんもなっちゃんさんも勘弁してくれ。それ以外なら何でも良いから!」
「なっちゃんって名前、かわいくて良いと思うんですけど……では、これからは渚さんと呼ばせて貰いますね?」
(何故敢えて下の名前をチョイスした?しかも『くん』じゃなくて『さん』だし)
とはいえ、何でも良いと言った手前拒否することも出来ず、渚は渋々裕子に『渚さん』と呼ばれることを承諾するのだった。
この世界の第一外語は英語ではなく独語になっています。
理由はそのうち出て来ると思います。
ちなみに作者の独語知識では、プロージットくらいしか分かりませんw