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兄ふたりと再会

 一二三(ひふみ)たち兄弟の母親の実家は帝都に近い郊外の地域にあり、古くからの豪農で屋敷も庭も広く、周囲との信頼関係も親戚のようにあって一目も二目も置かれていた。

 そんな母の実家――一二三たちにとっては母方の祖父母の家――に数か月ほど前から母の里帰り出産に十七郎(とおしちろう)と一二三も同行し、無事に五男となる末弟が誕生。

 家には伯父夫婦や従姉たちも住んでいたので、大家族はさらににぎやかさを増し、豪農の娘の嫁ぎ先の夫が帝国海軍聯合艦隊司令長官……そのできた人柄から「本山幕府」とまで称賛されている本山(もとやま)大将ということもあったので、末弟の祝いに訪れる人の足は絶えず、笑みと明るい話題の時間に包まれ、年の近い近所の子どもたちともすぐになかよくなった一二三は、この田園豊かな郊外での生活を大いに満喫していた。


 ――あの、帝都大空襲がある日までは。


 あの夜。

 こちらの地域は荒川、江戸川の大きな河川によって隔たれていたため、一晩で帝都の半数近くを燃やし尽くした大火が届くことはなかった。

 だが、消火に向かうことも救出に向かうこともできず、逃げてきた者たちを救護するのが精いっぱいのなか、一晩中帝都を業火に包んだあの光景は誰の脳裏にも深く刻まれた。


 ――一生焼きついて、離れはしないだろう。



■ ■



 あれから、数日。


「……?」


 青い空には入道雲。

 緑深い木々や林から聞こえるのは蝉の声、生育順調な田んぼからは蛙の大合唱。

 熱い陽射しと土の匂いのなかではしゃぐ子どもたちの声、走りまわる足音。

 対岸で不幸があったとは思えないほどの、いつもの夏の日だ。

 そんななか、こちらに来て親しくなった子どもたちと遊び疲れての、帰路の途中のことだった。

 大人の背丈よりも高い壁にかこまれた母の実家の前で一台の黒塗りの車が止まる。

 白地の帝国海軍士官の軍服を着た若い年恰好の青年と少年がひとりずつ降り、その姿が一二三の目にとまった。子ども特有の大きな瞳が嬉々とかがやく。


「――あ!」


 彼らはここしばらく会っていなかった、懐かしく愛しい顔。

 帝都大空襲の翌日には無事だと連絡は受けていたものの、実際に会うまでは身内の誰もが心底心配していた大事な、大事な家族。

 一二三は彼ら帝国海軍士官が誰なのかを瞬時に察すると、それまでとなりを歩いていた子どもたちに別れの言葉もそこそこ、軍服姿のふたりに吸い寄せられるように駆け出す。


「――兄さんっ!」


 嬉々とした声をあげながら手を振り、全力で駆けていくと、


「一二三っ!」


 彼らふたりも同時に声を返してくれて、そのうちすでに成人を迎えている長兄の暁久(あきひさ)がこだわりなく地面に白地のズボンの膝をついて、駆けた勢いのまま抱きつく一二三を優しく包みこんでくれる。


「久しぶりだね、一二三。元気でいたか?」


 背格好はどちらかというと目立つことのない柔和、帝国海軍軍人でありながらどこかのんびりとしたような性格を感じさせる容姿の暁久。数ある弟のなかでも格段に一二三には優しく甘い長兄に訊ねられて、はい、と笑顔を満開にしながら答えると、まだ幼い身体を長兄に高々と抱きあげられて、


「すこし重たくなったか? ちゃんと食べているようで何よりだ」


 と、一二三をそのまま目に入れても痛くないようすで再会を心底喜んでもらい、一回、二回、三回と抱きあげられたまま宙で身体をまわされたが、


「……兄さん。ここはまだご近所の往来もあるので、はしゃぐのなら屋敷のなかにはいってからでもいいじゃないですか」


 長兄の子どものようなはしゃぎように呆れ、けれども長兄とおなじ安堵の眼差しで……十七郎(とおしちろう)とおなじ顔の――こちらのほうがすこしだけ線の細い、大人びたようすにも見える――次兄の蔽九郎(へいくろう)が抱きあげられている一二三を見あげ、


「どうだい、お兄ちゃんになった気分は?」


 すでに一番下の弟ではなくなった一二三に揶揄で問い、白い手袋をはずした手をそっと伸ばし、一二三の頬を撫でてくる。

 そのまますこしだけくすぐってくるので一二三が笑うと、それを見て蔽九郎もほっとしたのか、わずかに影が残るものの優美に笑んでくる。


「先日は怖い思いをしたね」


 先日とは、あの夜の帝都大空襲のことだろう。

 こちらの地域まで大火の災いが及ぶことはなかったが、帝都と対岸地域には大きな川があり、橋の数はかぎられ、背後は火の海、橋の上では避難する帝都民でごった返し、混乱も相当なものだったと聞く。


 ――それに、あの火の海は幼い子どもが見るべきものではない。


 一二三たちが暁久と蔽九郎の身を案じていたのとおなじように、ふたりもまた母や弟たちが暮らしている地域のようすや家族を実際この目に見るまでは、いろいろと安心できずにいた。

 それだけに対岸地域も見知った母の生家も周囲にも変事がなさそうなことにほっとし、自分たちを見つけて駆けてくる一二三の笑う幼表情にほっとした。

 あの夜はきっと、帝都大空襲の光景を目の当たりにしていただろう一二三がひどく気落ちしていないかと身を案じていただけに、長兄も次兄も一二三を通じて家族に災厄がなかったことを実感し、心底安堵することができたようすだった。

 そんなふたりに一二三は、


「ボクはだいじょうぶだったよ。十七郎兄さんがいたし、びっくりして泣いた大和(やまと)はね、ボクがあやして泣き止ませたんだ。お兄ちゃんがそばにいるから怖くないよって」


 そう自慢をするが、あの夜から一二三は末弟の大和のとなりで寝るようになったものの、十七郎といっしょに庭で見た帝都の大火が脳裏から離れず、眠りが浅くて、夜泣きの大和の声に起こされては寝不足で、朝に大きなあくびを何度ももらす姿を母が気にするので、今度は一二三のとなりで十七郎も一緒に寝るようになったので――十七郎の年齢では、母とおなじ部屋で寝るのは少々不本意であったようだが――、となりに兄がいてすこしは落ち着いて寝られるようになったのが本音だった。

 兄として守ろうとまだ赤子の末弟の手を優しく触れて、一方ではまだ弟として頼りになる兄の手に甘えるようにしっかりとにぎって眠る一二三。

 母もそんな一二三が愛おしく、優しく頭を撫でてくれて、身体を撫でてくれる。

 その柔らかい笑みは、長兄がいちばんよく似ている。

 けれども、


「そうそう……大和、だったね」

「だった、ね?」


 大和、と聞いて一瞬「はて?」といった表情を見せる兄ふたりに、一二三は眉根を寄せて怪訝がる。


「……兄さんたち、ひょっとして僕がつけた名前、憶えてくれなかったの?」


 帝国海軍上級士官に昇級するにつれて、家にいる時間がすくなくなった父。

 息子たちの名前はこれまですべて自身で命名してきたのだが、その父から末弟誕生のさい命名権を承ったのは、長兄や祖父、母でもない一二三というまさかの抜擢。

 命名権の名誉と重みを教えられ、願いを込めて選び抜いた愛しい名前だというのに。


 ――その大切な使命を果たした本人を前に、兄たちが名前を憶えていなかったとは……。


 一二三はむっと頬を膨らませる。


「ひどいっ、ボクの弟は大和だよ! 大和!」


 まだ高々と抱かれていた一二三は怒って足をばたつかせると、長兄がそれにあわてて、


「いや、そういう意味では……」


 宥めようとして、次兄もつづけざまに、


「そうだよ。大和は僕たちのたいせつな末っ子じゃないか」


 そう援護するものの、内実、そうだ、とも言えずに言葉を濁しながらたがいに笑いあってごまかすさまに、一二三はほとんど悟る。


「じゃあさ、大和が生まれた日は言える? まちがえたら大和に会わせてあげないからね」

「……えっと……」


 一二三が唇を尖らせながら問うのに対し、兄ふたりは情けないことに答えられない。

 すまない、と頭を深く下げる始末だから腹立たしい。


「あ~~っ、ひどいっ。大和はとってもかわいいけど、そんなんじゃ兄さんたちには会わせてあげないんだからね~~だっ」

「……すまない」

「いや、ほんとうにいろいろあって、忙しくて……」


 たとえばこれが、自分たちにとっていずれはどんどん増えていくだろう兄弟の子――甥や姪――または会うことがほとんどなったり、年が離れている従兄弟の間柄であれば、名前を忘れても、誕生日を憶えていなくても多少は許されるかもしれないが、実の末弟のそれを記憶にとどめておけなかったのは、たしかに兄としては立場失格だ。

 一二三に叱られても反論もできない。

 とはいえ、言い訳ができるのであれば、しかたがないと言えばしかたない。

 暁久も蔽九郎も、里帰り出産のため母や弟たちをこちらに送り届けて以来、今日まで家族とは一度も会ってはいない。

 無事に出産したとの知らせを受けたものの、軍人勤務では簡単に休みを取ることもできないので、末弟と会うのは今日がはじめてなのだ。

 なので、


「今日はやっとお休みが取れたから、それで大和に会いに来てくれたの?」


 父がそうであるように、兄ふたりも士官として軍務に就き進級するにつれて、家に帰る時間、家族とともにいる時間がすくなくなった。それはもう承知しているので、一二三はすぐに機嫌を直して訊ねるが、


「――まあ、それもあるのだけれどね」


 言って、長兄はそれまで抱きあげていた一二三の身体を丁寧に降ろして、地面に足をつかせる。

 動作のさいに見た長兄の表情は、先ほどまで際限なくほころんでいたことを思えば、どこか陰りを帯びていた。

 長兄のそれを一二三はこれまで見たことがない。


「一二三、十七郎はいまどこにいる?」

「十七郎兄さんなら、おじいちゃんといっしょに畑でお仕事をしているよ」


 問われるまま畑のある方向を指差すと、暁久が一二三の頭を優しく撫でながらわずかに間をおいて言う。


「――みんなに聞いてもらいたい話があるから、ふたりを……いや、伯父さん、伯母さんたちもすべて母屋まで呼んできてはもらえないだろうか」

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