34:エピローグ -後編-
苦い顔をした先生は、椅子に腰かけてマグカップを手に取る。
注がれたコーヒーはとっくに冷めているだろうが、それを味わうような心境でもないのだろう。
「この男は、紅乃のストーカーだった。何度も訴えたんだが、実害が出ていないからと警察は対応を渋っていてね」
「え、だけど……記憶をもとに構成されているなら、同じバイト先で働き続けてたんですよね? 告白とかもしてないみたいでしたけど……」
「彼の中ではそうだったんだろう。自分に都合よく記憶を書き換えていたこの男は、紅乃が自分に気があると思い込んでいたらしい」
ストーカーは、思い込みが激しい性質があるというのはよく聞く話だ。
清瀬蒼真もそうだったというのなら、私が映像の中で見た記憶にはいくつも書き換えられた部分があったのかもしれない。
「きみの目には、この男が好青年に映ったことだろう。……最初はみんなそうだった。だが、突然本性を現したんだ」
「バイト先の忘年会で、薬を盛ったんですよね」
「先輩、紅乃さんの事件のことを知ってるんですか?」
「ええ、高月先生から聞いたの」
眉間に深い皺を刻んだ先生は、何も知らない私にも事件のことを話して聞かせてくれた。
バイト仲間だった清瀬蒼真は、紅乃さんに想いを寄せていた。
高嶺の花だと言っていたけれど、実際には彼がそう思い込んでいただけで、彼女の良好な職場関係は色恋で乱されるようなものではなかったらしい。
だというのに、焦った清瀬は彼女にアプローチをするようになった。
同じ職場で働いてはいるものの、紅乃さんははっきりと断りを入れるタイプだという。
清瀬の好意に対しても、気を持たせるようなことをせずに、付き合う気はないのだと伝えていた。
それをどう解釈したのか、清瀬はますます彼女に執着するようになる。それだけでなく、清瀬の思考回路はあまりにも異常なもので。
『想い合う二人が二度と離れることのないように、肉体から魂を切り離すべきだ』
そんな考えのもとで、紅乃さんの命を奪うタイミングを狙っていたらしい。これは、裁判の時に清瀬の口から初めて明かされた事実だという。
日常生活における清瀬の行動はあまりにも普通で、誰も気づくことができなかった。
そんな中で訪れた決行の日。自分の職場を貸し切りにしての忘年会で、清瀬は全員の飲み物に薬を盛ったのだ。
異変を感じた紅乃さんは逃げ出したらしいが、彼女も薬入りの飲み物を口にしてしまっており、追ってくる清瀬を振り払うことができなかった。
捕まった彼女は人気のない公園に連れ込まれ、散々いたぶられた後に、殺害されてしまう。
その日はひどい雨が降っていて、発見が遅れてしまったというが。
公園にあった池の中には、彼女の脳や臓器が沈んでいた。切り開いた遺体をそこで洗って、身体だけを持ち帰ったのだ。
さらに、清瀬の異常さはそれだけに留まらない。
忘年会の会場となった居酒屋の中でも、店長を含めた十名の遺体が発見されていた。発見者は、同じく忘年会に参加していた新人の女の子だ。
殺害されていたのは、清瀬や紅乃さんと関わりのあった人間ばかりだった。それ以外の人間は、傷ひとつなく眠らされただけだったという。
それは清瀬の供述によれば、紅乃さんを奪われないようにとのことだった。
「自宅に帰った清瀬蒼真は、紅乃の中身に綿を詰めて縫い合わせた。そうして、綺麗に服を着せてベッドに横たわらせていたよ」
「居酒屋の仲間も、最初は紅乃さんに気があると思い込んでる男性だけ殺すつもりだったらしいわ。だけど、好意を持つのは男性だけじゃないかもって気がついて、桧野さんたちも殺害したのよ」
「ふ、普通じゃ、ない……」
「そうだ、清瀬蒼真は普通じゃない。自分が異常だということを理解して、『普通の人間』を演じ続けていただけなんだ」
深い憎しみから、誰かを殺そうという衝動が湧き上がるのは、まだ理解ができる。それを実行に移すことは、私には理解ができないけれど。
だけど、ついでだから念のために、そんな理由で人を殺すことができるだなんて。
あんなにも、仲間想いの好青年に見える人が。
「瞬き二回は嘘の合図。紅乃が見抜いていたが、法廷でも平然と嘘をついていたよ」
私の頭では、到底理解ができないような行いをする清瀬蒼真という人間。そういえば、映像の中でも二回の瞬きをしている場面があったように思う。
たとえば、『みんなで無事に電車を降りたい』と言った時。
たとえば、死の間際に『つらい』と口にした時。
あの異常な状況を、彼は確かに楽しんでいるようにも見えた。
「……じゃあ、あの人は? 幡垣さんも、死刑囚なんですか?」
私が指差した先にあるのは、もうひとつのガラス張りの部屋。
そこに清瀬と同じように寝かされて装置に繋がれているのは、映像の中よりも若く見える幡垣翠だった。
彼は清瀬と同じバイト先の仲間ではない。ここで装置に繋がれているということは、犠牲者ではなく死刑囚の側の人間だということなのだろう。
「そいつは……あたしの妹、千草を殺したケダモノよ」
「千草……妹って、それじゃあ先輩は……」
その続きは口にするまでもない。先輩と幡垣という男は、血の繋がったきょうだいなのだろう。
けれど、妹を探していたはずの幡垣が、妹を殺したとはどういうことなのだろうか?
「翠は、千草にやたらと執着してた。かわいい子だったけど、実の妹よ? 大きくなるにつれて距離感がおかしくて、両親は仲がいいって呑気だったけど……あたしは注意しながら生活をしてたの」
「千草ちゃんが18の時だったか、彼女に恋人ができたのは」
「はい。それを打ち明けられた翠は、とうとう頭がおかしくなったわ。千草を無理矢理に犯した後、止めに入った両親をめった刺しにして殺したの」
「そんな……」
「あたしは遊びに出てて、ボロ雑巾みたいになった千草と血だらけの両親を見た時は……ッ」
その時の光景が、先輩の頭の中に蘇っているのだろう。口元を押さえた彼女は、感情をやり過ごすように深呼吸を繰り返している。
こんな研究を行うことは、どんな理由があっても許されるものではない。
そう思っていたけれど、私の知らない絶望的な現実がそこには広がっている。
「妹想いの良いお兄ちゃん、って……近所では評判だったのよ」
青い顔をした先輩の瞳には、怒りとも悲しみともつかない涙が浮かんでいる。
「平凡な人生を歩んで、その中にありきたりな幸せを見つけて生きていく。ただ、それだけで良かったんだ」
「こんな研究が許されるだなんて、あたしたちは誰一人思ってないわ。自分の行いを裁かれる覚悟はいつだってできてる。ただ、死に値する罪を犯したケダモノに、できる限りの苦しみを与えたいだけ」
「この悲しみは、生涯消えることはない。たとえ、彼らが法に乗っ取り裁かれたとしてもね」
「だとしても、こんなやり方……」
「人の道を外れた獣を相手に、こちらも人ではいられないのだよ」
先生たちが私をこの研究に引き入れようとしたのは、私に自分の罪を裁いてほしかったからなのだろうか? それとも……――――。
優しかった先生の面影はそのままそこにあるはずなのに、その内側に巣食う憎しみや悲しみは、私には想像もつかない。
空になったマグカップを置いた先生は、迷いのない瞳で真っ直ぐに私を見た。
「もう一度聞こう。きみは、許されないと思うかね?」
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